第9章「三角関係の予感」
ペナン島での撮影が終わった夜の十時すぎ。
セナはホテルの部屋に戻ると、ドアを閉めるなり深く息を吐いた。
衣装もメイクも落としたのに、心臓だけはまだ舞台の上にいるみたいに跳ね続けている。
――あの瞬間からだ。レイが、役の中で自分に告白したときから。
「……っ、ありえない」
セナはベッドに腰を下ろし、思わず頬に手を当てた。熱い。わずかに赤みが差している自覚がある。鏡を見たら絶対に分かるレベルだ。
「な、なによ……役に決まってるじゃない」
必死に言い聞かせるが、頭の中ではどうしても彼の真剣な眼差しが焼き付いて離れない。
脚本通りの台詞のはずなのに、あの声色は妙に本気で、まるで自分自身に向けられていたかのようで。
「……っ、だから違うってば」
枕を抱き寄せ、顔を埋める。自分がこんなにも動揺しているなんて誰にも見せられない。
トップシンガーとして、常に堂々と輝いてきたはずの自分が……たった一言で赤くなってしまうなんて。
「私が、レイなんかに心を揺らがされるわけない……絶対に」
そう呟きながらも、胸の鼓動はますます速まる。
まるで否定すればするほど、身体が勝手に認めてしまっているかのように。
セナはさらに布団を引き寄せ、身を小さく丸めた。
――眠れる気がしない。赤く火照った頬と、収まらない鼓動が、それを許してくれなかった。
ーー
朝の通学路。並木の影がまだ短い時間帯、レイは鞄を肩に掛け、昨日のことを思い出しては一人で顔を赤くしていた。
――家の前で、いきなりステラにキスされて、「そういうことだから」なんて言葉を残して逃げられて。
「……っ!」
思い返すだけで胸が締め付けられる。頬が熱くなるのを止められない。
「おはよ、レイ」
不意に背後から声を掛けられ、レイは飛び上がるほど驚いた。振り返れば、制服姿のステラがそこにいた。
朝の光を受けて、金色のショートヘアがやわらかく揺れている。短すぎず、耳のラインに沿うその髪は、彼女の笑顔をいっそう明るく見せていた。
「な、なんだよ……心臓止まるかと思った」
「もう大げさなんだから。」
ステラは軽やかな足取りで隣に並ぶ。
レイは視線を逸らし、歩調を合わせる。彼女が近くにいるだけで、昨日の記憶がよみがえり、心臓がまた忙しなく跳ね出す。
「……その、昨日の……」
言いかけたレイの言葉を、ステラはあっさり遮った。
「昨日? 何かあったっけ?」
「なぁっ……!」
あくまで涼しい態度。まるで昨日何もなかったかのようにステラは答える。
「……と、とにかく早く行かないと遅刻する!いくぞ」
前を向いて歩幅を速めるレイ。
「うん!そだね!」
いつもの明るいステラの声が、追い風のように耳に残る。金髪ショートが朝の光にふわりと揺れ、彼女の笑みを一層きらめかせていた。
ーー
教室に入った瞬間、ざわめく音楽科の空気が一気に押し寄せた。
ステラは軽く息を整えながら自席に腰を下ろす。窓の外から差し込む光に照らされ、机に映る自分の影が小さく揺れる。
――落ち着け、私。
ついさっきまで平然を装って歩いていたけれど、実際は胸の鼓動がずっと暴れっぱなしだ。昨日のキス、そして今朝のレイの驚いた顔。思い出すだけで頬が熱くなり、息が詰まりそうになる。
「……っ」
机に突っ伏すわけにもいかず、ステラは必死に背筋を伸ばす。だが顔は真っ赤。鏡を見なくても分かるほどだった。
「おやおや〜、ステラちゃん?」
不意に横から軽い声が飛んできた。振り向けば、同じくピアノ専攻のアオイが立っていた。
眼鏡の奥の瞳は楽しげに細められている。そのスタイルの良さに加え、わざとらしいくらいのニヤニヤ顔。
「顔、真っ赤なんだけど? まさか……朝から誰かさんと何かあったとかかにゃあ?」
「な、なっ……!」
ステラは思わず声を詰まらせる。否定しようとする言葉が喉に引っかかり、うまく出てこない。
アオイは机に肘をつき、顔を近づけて囁く。
「ふふ〜ん、当たりでしょ。レイと一緒に登校してきたの見えたもん」
「ち、ちがっ……! あれはただ一緒になっただけで……!」
「へぇ〜?じゃあ昨日の映画の撮影で何かあったの? 心臓の音、こっちまで聞こえてきそうだけど?」
ステラはドキっとし目を見開き、慌てて視線を逸らした。
「ふぇ……!?ほ、ほんとに、なんでもないんだから!」
言えば言うほど図星なのが自分でも分かる。胸の奥で、ドクン、ドクンと騒がしい音が止まらない。
アオイは口元に手を当て、くすりと笑った。
「……ふふ。ステラ可愛い!そういう顔、めったに見られないんだから、ちょっと得した気分♪」
ステラは机に突っ伏したい衝動を必死にこらえ、頬の熱を隠すように窓の方を向いた。
――やっぱり、全然落ち着かない。
ーー
ダンス科の教室は朝からざわめいていた。ストレッチをする者、鏡の前で動きを確認する者、それぞれが思い思いに過ごしている。
レイが席に鞄を置いた瞬間、長身で眼鏡をかけたユーリがニカッと笑いながら肩を叩いてきた。
「よっ、昨日はお疲れ! レイのシン役、マジでハマってたぜ!」
「……あ、ああ。ありがとな。ユーリの役もバッチリだったぞ」
レイは軽く返すが、どこか上の空だ。
すると、隣で気弱そうなアルヴァンが心配そうに覗き込む。
「でもレイ君……どうしたの? 顔、ちょっと赤いよ?」
「い、いや……な、なんでもないって!」
慌てて手を振るレイ。その動揺にユーリがすぐさまニヤリと口角を上げた。
「ほぉ〜ん……これは怪しいなぁ~?あ~まさか!?」
「なっ……ちが……!」
「みなさーーーん!!!」
ユーリは急に立ち上がり、教室の中央で大声を張り上げる。
「レイが昨日、音楽科のアイドル、ステラちゃんとイチャイチャしてたぞーー!!!」
一瞬にして教室が沸き立った。
「マジかよ!?」「やるじゃんレイ!」と男子たちが口々に囃し立てる。
一方で、女子たちは騒然とした。
「えぇーー!?」「うそでしょ!?」「レイくんが……ステラと!?」
悲鳴混じりの声が飛び交い、中にはショックで机に突っ伏す子までいる。
「私、昨日までワンチャンあるって思ってたのに……」と呟く声も聞こえた。
「ち、ちがうってば!! イチャイチャなんてしてない!!」
必死に否定するレイの顔は真っ赤。けれどその必死さが逆に怪しさを増してしまい、教室の熱気はさらに高まっていく。アルヴァンは困ったように笑いながら「ほらほら、あんまりからかわないであげなよ」と言うものの、もはや誰も耳を貸していなかった。
レイは頭を抱え、心の中で「早く授業始まってくれ……!」と祈るばかりだった。