第8章「ファーストキス」
撮影が中盤に差し掛かる頃、夕暮れの風が、島の伝統的な祭り会場を柔らかく包み込む。鮮やかな紅色や金色の提灯が軒先に揺れ、太鼓や笛の音が心地よく響き渡っていた。島人と漂流した月の民達の笑い声と拍手の中、レイとセナは踊りの輪の中央に立っていた。
「……こう……?」
セナは手の動きと足のステップがうまく合わず、少し顔をしかめる。普段はトップシンガーとしてステージで堂々としている彼女も、島の伝統舞踊の独特な動きには戸惑っているようだった。
「大丈夫、落ち着いて。こうだ。」
とレイは真剣な表情で彼女の手を軽く取り、ステップを一緒に踏む。彼の指先が触れるたび、セナの心臓は一瞬跳ねた。
「……あ、ありがとう、レイ。助かるわ。」
「ん、細かいことは俺に任せろ。それより頭で考えるな。自信を持ってやればいいんだ。」
レイの声は周りに聞こえないように静かで、でもどこか温かい。セナは顔をほんのり赤くしながら、彼に目を向けた。太鼓のリズムに合わせて二人の動きは次第に揃い、周囲の視線が二人に集まる。
「すごい……なんだか、少し楽しくなってきたかも」
セナは笑顔を見せ、照れ隠しに髪をかき上げる。
レイも自然と笑みを返す。その瞬間、ただ踊っているだけのはずの時間が、二人の間でほんの少しだけ特別なものに変わった気がした。
祭りの灯りの下、二人の影が交差し、リズムに合わせて揺れる。そしてセナはタイミングを見計らい、ハルカのセリフを言う。
『あ、あの……!あなたのお名前を教えて下さい!』
『俺はシン……君の名前は?』
『シン……私はハルカ……不思議……私こんな風に男性と自然に話せたの初めて……』
『俺も不思議な気持ちだ……君と話していると凄く落ち着くんだ……』
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潮の香りを含んだ夜風が、静かな砂浜を撫でていた。月明かりは一面の海を銀色に染め、波のさざめきが遠くからかすかに響いてくる。
その浜辺に、ステラが演じている月の民の少女。レイナが座っていた。
やがて、背後から砂を踏む足音が近づく。
レイ――いや、シンがゆっくりと姿を現した。
レイナは振り返り、彼の姿を確かめると、かすかに眉を曇らせた。
『……また、あの人と会っていたの?』
か細い声が、夜気に溶けて消える。
その瞳には、嫉妬と不安、そして愛情が複雑に揺れていた。
シンは答えられず、視線を逸らす。
浜辺に漂う静寂の中、二人の間に言葉よりも重たい沈黙が広がった。
『ダメだよ……そんなの……』
『……レイナ』
その時だった。
『シン……!』
振り向けば、月明かりの下を駆けてくる人影があった。白いワンピースの裾を揺らしながら、ハルカが息を切らせて立ち尽くす。
三人の視線が交わる。
月明かりが照らす砂浜に、三人が向かい合って立っていた。シンは言葉を失い、ハルカは戸惑いながらも彼を見つめている。
そんな中、レイナの瞳が揺れ、やがて堪えきれない感情が決壊した。
『……シン。分かってるでしょう?月の民と地球人は――決して、結ばれてはいけないの!!』
声は震えていた。
彼女は目を伏せ、強く唇を噛む。だが、その頬を伝う雫は隠せない。
『それにそれが禁忌だからとか、掟だからとか……そんな理由だけじゃない。私が……私が、あなたを失いたくないの。私は――ずっと、ずっとあなたを想ってきたのよ!』
シン――レイの瞳が揺れる。
彼は返そうと口を開くが、その声を遮るように、レイナは叫んだ。
『あなたのことが好き! ずっと私と一緒にいてよ!!』
その言葉は台本には存在しなかった。
演技ではなく、ステラ自身の心からの告白だった。
現場の空気が一瞬凍りつく。
スタッフが互いに顔を見合わせ、監督に視線を送る。「どうしますか……?」と小声で尋ねる者もいた。しかし監督は腕を組み、目を細めたまま首を振る。
「……カットはしない。このまま撮れ」
カメラは回り続ける。
ステラの涙も、震える声も、すべて物語に刻まれていく。
その時、黙っていたハルカ――セナが一歩前に踏み出した。彼女の胸もまた、役を超えて熱く脈打っていた。
『……違う! 私だって……たとえシンが月の民だとしても関係ない!私はシンと一緒にいたい!』
その言葉は、セナ自身もなぜこんなことを言ったのかわからないものだった。不思議と心臓の鼓動が高鳴る。
レイナとハルカ――ステラとセナ。
二人の少女が、シンに想いをぶつける。
『あなたには分からない! 私とシンは同じ月の民なの。小さい頃からずっと一緒に未来を描いてきた!』
涙を流すステラの声は嗚咽に震えていた。
『でも……心は縛れない! たとえ生まれが違っても、私の気持ちは嘘じゃない!』
セナも顔を赤らめ、負けじとシンに手を伸ばす。
二つの声が交錯し、夜の浜辺に響く。
まるで映画の物語そのものが、彼女たちの感情に引き寄せられ、台本を書き換えていくかのようだった。
シンは胸を締めつけられる思いで二人を見つめた。
レイとしても、シンとしても――決断を避けられない。
『……俺は――』
沈黙を裂くように、彼は言葉を吐き出す。
その視線が、セナへと向けられた。
『俺は……ハルカ。お前と一緒にいたい』
ステラの表情が一瞬凍りつく。
頬を伝う涙が、月明かりに銀色に光った。
セナは驚きに目を見開き、そして震える唇で微笑んだ。
『……本当に……?』
『掟がどうだろうと……お前といると、心が安らぐんだ……ハルカ……俺はおまえが好きだ。世界中の誰よりも!』
『シン……!!私も……私も世界で一番あなたが好き!!』
セナは想いを爆発させ、レイに抱きつく。レイは優しく受け止める。
ステラは背を向け、震える肩を隠そうとした。
月の光が彼女を包み込み、涙の粒をきらめかせる。
監督は静かに呟いた。
「……奇跡の瞬間だ。このままラストまで回せ」
浜辺には、波音と三人の鼓動だけが響いていた。
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「――カットォ! ……オッケーだ!」
その後、残りのシーンの撮影も終わり、いよいよ監督の最後のカットの声が夜の浜辺に響いた。
長い沈黙の後、スタッフから拍手が起こる。だがそれはいつもの「お疲れさま」という軽いものではなく、胸の奥からじんわりと湧き出すような拍手だった。
セナは何か思うことがあったのか、レイと目があうとすぐに反らそうとするのに対して、ステラは背を向けたまま、袖で涙を拭うと小さく頭を下げ、砂浜を歩き去った。
撮影は終わったはずなのに、胸の奥の熱は消えない。
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ペナン島での撮影現場を片づけ、ニ時間後にはネオ横浜・シティへ戻っていた。
そして今、月明かりに照らされた静かな道を、レイとステラが並んで歩いていた。
先ほどの撮影が終わってから、二人の間には一言も言葉がなかった。
ただ夜風の音と遠くの車の走行音だけが、空白を埋めていた。
「……さっきの、完全にアドリブだったよな」
沈黙を破るように、レイがぽつりと口を開いた。
その言葉にステラは足を止める。
泣き出しそうな表情で、ずっと胸の奥に押し込めていた疑問を、ようやく口にした。
「……ねぇ、レイ」
「ん?」
「……本当に……レイはセナが好きなわけじゃないんだよね?……あれは映画の中だけの演技なんだよね……?!」
一瞬、レイは面食らったように目を瞬かせ、それから慌てて答えた。
「あ、当たり前だろ? 相手は超人気の歌姫だぞ? 恋愛感情なんてあるわけない!」
その返事を聞いた瞬間、ステラの表情がふっと緩んだ。
「……そっか……」
張り詰めていた糸が切れたかのように、安心したように、どこか嬉しそうに微笑む。
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二人はそのまま歩き続け、やがてステラの家の前へと辿り着いた。
「ステラ!今日はありがとな!それじゃ……また明日、学校で!」
レイが軽く手を振り、背を向けて歩き出した瞬間だった。
「……ス、ステラ……?」
ステラは思わず駆け寄り、彼の背中に抱きついた。
驚いたレイが振り返る。
そして月明かりの下でステラは背伸びをして、震える唇を彼の唇に重ねた。
ほんの一瞬。
けれど永遠にも思えるほど、時間が止まった。
レイの瞳が大きく見開かれる。
ステラの頬は熱に染まり、呼吸さえ乱れていた。
「……そういうことだから……」
ステラは消え入りそうな声でそう告げると、顔を真っ赤にして彼から離れた。
そして恥ずかしさを隠すように踵を返し、一目散に家の中へと駆け込んでいった。
玄関の扉が閉まる音が夜気に響く。
残されたレイは呆然と立ち尽くし、唇に残る温もりをただ確かめるように指先で触れるのだった……