第5章「月の雫」
夕陽ヶ丘高校──午前の陽射しがさしこみ始めたダンス科の教室。
黒髪の整った顔立ちで、制服を着崩しても絵になるレイは、自分の席に鞄を置き、軽く息をついた。
そこへ、長身で眼鏡の似合うクールなイケメン、ユーリと、少し気弱そうで優しい雰囲気のアルヴァンが入ってくる。
「よっ、色男!」
ユーリがレイの肩を叩きながら、ニヤリと笑った。
「は? なんだよ」
レイが眉をひそめると、ユーリは楽しそうに続ける。
「ははっ……!!しらばっくれるなよ。昨日、あの超トップシンガーと一緒に学校を出てっただろ?」
アルヴァンが気を遣うように口を挟む。
「そのあと……どうなったの? レイ」
「べ、別に特に……」
レイは視線をそらし、曖昧に答えた。
-─そのとき、バンと勢いよく音がなり、教室のドアが開いた。
入ってきたのは音楽科の制服を着た二人の少女。
ひとりは金髪のショートヘアが陽の光にきらめく、控えめで優しい雰囲気のステラ。
もうひとりは、胸元が目立つスタイルに、眼鏡をかけた明るく元気な印象のポニーテールの少女、アオイ。
「レイ!」
アオイがにやにや笑いながら駆け寄ってきた。
「な、なんだよ」
レイは嫌な予感に身を固くする。
「あなた、昨日セナと一緒にネオ横浜・みなとみらいにいたでしょ?」
「っ……!?」
レイは驚きで目を見開いた。
「ほらっ!これ顔はっきり写ってないけど絶対レイよね?!」
アオイが携帯を取り出し、画面を突き出す。そこにはSNSの速報記事が映っていた。
【超人気トップシンガー、セナ=フォスター熱愛!?】
添えられた写真には、夕陽を背にしたレイとセナ。そのセナが、レイの頬にキスをしている瞬間が鮮明に写っていた。
「ち、違う! これは、ただの……観光案内のお礼の意味だ!」
レイの顔は瞬く間に赤く染まり、必死に否定する。
「おーい、やるなあレイ!」
「ヒューヒュー!」
教室中から冷やかしの声が飛び交った。そんな中、ステラが腕を組み、唇を尖らせる。
「……よかったね。超人気の『情熱の歌姫』様にキスされちゃって」
口調は軽いのに、どこか拗ねたような響きが混ざっていた。
「……ス、ステラ?なんで怒ってるの?」
「……っ!!お、怒ってないよ!!」
レイの質問に顔を赤らめながら少し苛立たった様子でステラは答え、自分の教室に戻っていくのだった。
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夕暮れの道。オレンジ色に染まる並木道を、ステラはむすっとした顔でレイの前を歩いていた。
カバンを抱きしめるように持ち、足取りは早い。
「なぁ、ステラ……」
レイが少し困ったように声をかける。
「どうしたら機嫌、直してくれる?」
返事はない。ただ、靴音だけが耳に残る。
数歩進んだあと、ステラは立ち止まった。夕陽に照らされた横顔は、まだ拗ねたままだ。
「……」
小さく息をつくと、ステラはカバンから一枚の紙を取り出した。五線譜が並ぶ、それはレイのために用意した楽譜だった。
「今日の夜、いつもの森に来てくれる?」
そう言ってレイに楽譜を差し出す。
「これ私が作った曲。弾いてくれる? レイのバイオリンが久しぶりに聴きたい。」
驚いたように目を見開いたレイ。
実は彼にはダンスの他にもう一つ大好きなものがある。それはバイオリンである。とある事情から人前ではめったに弾かなくなったが、今でも練習はこっそり続けている。
「……それで許してあげる」
頬を赤らめながら、ステラは視線を逸らした。
レイは数秒だけ黙って彼女を見つめ――そして口元を緩めた。
「……わかったよ」
その笑顔に、ステラの胸が一瞬どきりと跳ねる。けれどすぐに顔をぷいっと背けて、わざとそっけなく返した。
「べ、別にレイのために書いたんじゃないから」
「はいはい。じゃあ一度家に帰って、バイオリンを取りに行った後、月見森に向かうよ。夜七時に集合でいいか?」
「う、うん!」
こうして二人はこの後、夜の森で会うことになるのだった。
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夜七時。森の奥は静寂に包まれていた。
木々の間からこぼれる月光と星明かりが、古びたピアノを幻想的に照らしている。誰かが捨てていったその謎のピアノは傷だらけだったが、不思議と存在感を放っていた。
その前に座る一人の少女――ステラ。レイの幼馴染であり、ピアノの天賦を宿す少女。
彼女の指先が鍵盤に触れると、夜の静けさを破るように、しかしどこまでも優しく、美しい旋律が広がった。
それはまるで月明かりと調和するように、冷たく澄んだ音となって星空へ溶けていく。学校の課題曲。簡単なはずの旋律が、彼女の手にかかると、まるで一篇の詩のように深みを持った。
そのとき、背後から聞こえてくる足音が、音楽にそっと重なる。
「……うまくなったな。」
その声に、ステラははっとして振り返る。
そこには、バイオリンケースを肩にかけた少年──レイが、月明かりを背にして立っていた。やわらかく目を細め、あたたかい笑みを浮かべている。
「レイ……」
声にならない声が、ステラの喉の奥に引っかかる。
心臓が鼓動を速めているのがわかった。冷たい夜風が頬を撫でても、その高鳴りだけは静まらない。
レイは一歩、彼女の隣へと近づき、優しく問いかける。
「その曲、学校の課題曲だろ? セッションでもするか?」
その一言に、ステラの心はさらに騒がしく波打った。
断らないステラを見て、レイはバイオリンを準備する。
お互い気持ちが一つになった時、ステラはそっと息を吸い、ピアノに向き直る。
レイはそれを合図にするように、バイオリンの弓を弦へと滑らせた。
──最初の音が重なった瞬間、風が止まり、森が耳を澄ました。
ピアノの旋律は星のように澄み渡り、バイオリンの音色は月光のようにその周囲をやさしく飾る。
互いに音を聴き、感じ合い、言葉ではなく音楽で呼吸を合わせていく。
まるで、幼い頃に秘密の場所で見つけた共通の宝物を、今ふたりで再び磨き上げているかのように。
ピアノとバイオリン。
性格も性別も、表現も違う二つの音が、不思議と調和していく。
やがて曲の終わりが近づくと、ステラの指は自然と緩やかになり、レイの弓も静かに音を閉じた。
風が再び吹き始め、木々がざわめきのように揺れる。
「……久しぶりのセッション、最高だった。」
レイが小さく笑ってつぶやいた。
ステラはピアノから指を離し、微笑む。
「うん……なんか、今日の音、すごく気持ちよかった。嫌なことも全部忘れちゃうくらいに」
ふたりは無言のまま、草の上に並んで腰を下ろす。満月は相変わらず、高い場所から静かに見守っていた。森のざわめきと夜風が聞こえる。そして星々の瞬きと月の光が、木々の隙間からこぼれて降りてくる。
やがてステラが、少し迷うように声を落とした。
「ねぇ……」
夜風に混じるその声は、静かで、どこか緊張を含んでいる。
「さっき渡した楽譜の曲を……弾いてくれる? レイのバイオリンソロで」
レイは軽く目を瞬かせる。
「ああ、あれか。ちょっとだけ目を通したけど」
彼はバイオリンケースから楽譜を取り出し、月明かりの下でぱらりとめくった。
「……なんていうか、俺たち“月の民”の民謡っぽい雰囲気だよな」
ステラは小さく笑った。
その笑みには、少しだけ照れくさそうな色が混じっている。
「ふふっ……そうだよ。レイがこの曲を演奏してるところを、ずっとイメージして作った曲だから」
レイの手が止まる。
風がそっと吹き抜け、ふたりの間に静かな間が落ちた。
「……そっか」
彼は小さくそう言うと、改めてバイオリンを構える。
月明かりが弓と弦に反射し、きらりと一瞬光る。
「じゃあ……その想い、ちゃんと音にして返すよ」
そして、音が生まれた。
それはステラのピアノの旋律とは違った。もっと深く、もっと優しく、そしてどこか懐かしい――
夜の森に、まるで遠い昔から伝わる祈りのようなバイオリンの旋律が、そっと広がっていく。
ステラは目を閉じて、その音に耳を傾けた。
この曲を、彼がどんなふうに受け取ってくれるか、不安もあった。
でも今、そんな気持ちはすべて洗い流されていく。
レイの音は、まっすぐで、温かくて。
まるで――彼の心そのものだった。
最後の音が消えたとき、森はふたたび静寂を取り戻した。
木々も虫の声も、余韻を壊すのをためらうように、ひっそりと息をひそめている。
ステラはただ立ち尽くし、胸の奥からこみ上げてくる熱を抑えきれなかった。
気づけば、頬を伝っていた。
「……ステラ?」
レイが近づき、心配そうに顔をのぞき込む。
「泣いてるのか……?」
ステラは首を振る。けれど、涙は止まらなかった。
「違うの……違うの、レイ……」
震える声で、ようやく言葉を紡ぐ。
「……うれしくて……演奏、すごく、すごくよかった。レイの音……ちゃんと私の想い、受け取ってくれたんだって、わかって……」
レイは困ったように、けれど優しい目で彼女を見つめる。
そっと右手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
「……そんなに、想いを込めてたんだな、この曲に」
その手はあたたかくて、涙のぬくもりすら包み込むようだった。
ステラは、小さくうなずいた。
「うん……ずっと、ずっと前から……レイにこの曲を、弾いてほしかったの」
「そっか……」
静かな沈黙が流れる。森の上では、月がなおも輝きを増していた。
やがてレイはふと、空を見上げながら口を開いた。
「……この曲、名前はもう決まってるのか?」
ステラは驚いたように瞬きをしてから、ゆっくりと首を横に振る。
「まだだよ。なかなか、ぴったりくる名前が見つからなくて」
レイは少し笑った。だがその笑みはやさしく、どこか切なさを帯びている。
「じゃあ……俺が決めてもいいか?」
「えっ……?」
思いがけない申し出に、ステラは目を丸くする。
けれどその真剣な眼差しに、自然と頷いていた。
「……うん。レイが決めてくれるなら……きっと、いい名前になると思う」
レイは夜空に浮かぶ満月を見上げ、その光を映すように静かに呟いた。
「……“月の雫”」
その言葉は、森の夜気に溶けるように響いた。
ステラは息を呑む。
「……月の、雫……?」
レイは頷き、続ける。
「お前の音……この曲は、まるで満月からこぼれたひとしずくみたいな音だった」
その言葉は真っ直ぐで、やさしかった。
ステラの胸にじんわりと広がり、あたたかく染み込んでいく。
「……きれい……すごく、きれい……」
彼女の唇から自然に言葉がこぼれる。
心の奥で、そっと何かが灯った気がした。
“月の雫”
それは、誰よりもレイが自分の想いを受け取ってくれた証の名前。
「ありがとう、レイ……この曲、あなたに弾いてもらえて、本当によかった」
ふたりは見つめ合い、そして同時にクスッと笑みを浮かべた。
こうして――二人だけの秘密の曲が、森の夜に生まれ落ちたのだった……