第8話 原典を当たれ
高遠 陸の事務所は、嵐の中の孤島と化していた。
鳴り止まない抗議の電話。壊れたように吐き出され続ける、罵詈雑言で埋め尽くされたFAX用紙の山。瑞樹 秀の記者会見から二日、陸は「日本で最も嫌われている国会議員」の称号を欲しいままにしていた。
「……もう、終わりかもしれないな」
ソファに深く身を沈め、天井を仰ぎながら陸は力なく呟いた。世論という巨大な怪物の前に、自分はあまりに無力だった。
その時、浅野恭子が淹れたての茶を、ことり、とテーブルに置いた。その表情は、普段と何も変わらない。だが、その落ち着き払った声には、鋼のような芯が通っていた。
「陸さん。敵の狙いは、まさにそれです。あなた様の心を折り、戦う意志を奪うこと。今ここで立ち止まることは、相手の術中に、まんまとはまることを意味します」
彼女は、テレビのワイドショーが映し出す、陸を非難するテロップから、静かに陸本人へと視線を移した。
「お父様、高遠誠二先生も、幾度となくこういう状況に立たされました。その度に、先生はこう仰っていました。『四方八方が壁なら、上に行くか、下を掘るしかない』と。道は必ずある、と」
そこで浅野は言葉を切り、陸の目をまっすぐに見つめた。それは、同情や憐れみの目ではなかった。共に戦う同志としての、信頼の目だった。
「世間があなた様をどう見るかは、今は重要ではありません。重要なのは、陸さん、あなたがご自身をどう見るかです。このまま、世間の声に打ちのめされ、『ただの二世議員』として終わられるのか。それとも、お父様が命を懸けて守ろうとなさったものを、その意味を見つけ出すために、戦い続けられるのか」
浅野は、静かに、しかし深く頭を下げた。
「私は、後者だと信じております。だからこそ、今もこうして、あなた様のお側にいるのですから」
浅野の言葉が、陸の心に深く染み渡った。そうだ。俺は、一人じゃない。
陸は、ゆっくりと身を起こした。
「……すみません、浅野さん。俺は、間違っていました。戦います」
その目には、再び力が戻っていた。
そこへ、ジャーナリストの橘が合流した。三人は事務所の奥の応接室に籠城し、唯一の手がかりである父のノートに改めて向き合った。ホワイトボードに企業名や人名、金の流れらしき図式を書き出していく。だが、調査はすぐに行き詰まった。
問題は、ノートの余白に走り書きされた、いくつかの謎の数字の羅列だった。
『202-00589』『314-11025』『388-00174』
「暗号か? 聖書の章句か? それとも何かの座標か?」
橘があらゆる可能性を口にするが、どれも確証がない。電話番号でも、口座番号でもない。三人は、一晩中頭を悩ませたが、答えは出なかった。時計の針は無情にも深夜を指し、疲労困憊した三人は、その日は一旦解散することになった。
議員宿舎のベッドに倒れ込んでも、陸は眠ることができなかった。天井を睨みつけながら、謎の数字を頭の中で反芻する。その時、ふと、遠い昔の記憶が蘇ってきた。
あれは、小学生の夏休みだった。
陸は、自由研究で恐竜について調べていた。買ってもらったばかりの子供向け図鑑を丸写しにし、得意げにレポートをまとめていた。それを見つけた父・誠二が、珍しく陸を書斎に呼んだのだ。
「陸。このレポートは、誰かの本を写しただけだな」
図星を突かれ、黙り込む陸に、父は諭すように言った。
「誰かが書いた本を読むだけで満足するな。それは、その他人の知識と思考の結果だ。本当に物事を知りたいのなら、必ず『原典』を当たれ」
父はそう言うと、本棚から分厚い古生物学の専門書や、英語で書かれた論文のコピーを取り出してきた。
「物事の真理は、必ず一次情報にある。誰かの解釈や要約が入る前の、生のデータだ。それを見つけ、読み解くのは大変な作業だ。だが、この一番大変な作業を怠る人間は、いつか必ず大きな間違いを犯す。政治家も、学者も、そしてお前のような物作りを目指す人間も、皆同じだ。覚えておきなさい」
当時の陸には、その言葉の本当の意味は分からなかった。ただ、父の真剣な眼差しだけが、強く記憶に残っていた。
「――原典を、当たれ」
陸は、ベッドから跳ね起きた。
そうだ。親父が、政治家として最も大事にしていたこと。それは、常に一次情報、原典に当たることだった。
インフラ法案、瑞樹の法案……すべての根源。その原典とは何だ?
翌朝、事務所に集まった浅野と橘に、陸は宣言した。
「国会図書館へ行きます。インフラ法案の元になった、すべての調査報告書、過去の議事録、関連資料……片っ端から、原典を洗います」
「正気か? 何千、いや何万ページあるか分からんぞ」
呆れる橘に、陸は「正気です」と力強く答えた。
その日の午後、三人は国立国会図書館にいた。
専用の端末で、キーワードを「重要経済基盤」「インフラ整備」「民間活力導入」などと変えながら、膨大な資料を検索していく。そして、インフラ法案の直接の叩き台となったと思われる、数年前の政府調査会の報告書を見つけ出した。
「これだ……。まずは、これを請求します」
陸は、報告書の請求ボタンを押した。カウンターで資料を受け取るための請求票が、プリンターから音を立てて吐き出される。
浅野がその一枚を手に取った。
「陸さん、請求記号は……」
その請求票に記載された文字列を見た瞬間、陸は雷に打たれたように固まった。
【請求記号:AZ-388-G174】
形式は少し違う。だが、数字の部分が、昨夜あれほど頭を悩ませたノートの走り書きと、あまりにも似すぎていた。
陸は震える手で、ポケットからノートのメモを取り出す。
ノートの数字:『388-00174』
請求記号の数字:『388-G174』
「……これか……!」
陸の声が、静かな図書館に響いた。
「親父が遺した謎の数字は、この国会図書館に眠る、特定の資料を示す暗号だったんだ……!」
隣で見ていた橘と浅野も、その意味に気づき、息を呑む。
絶望の闇の中で探し続けた、父が遺した本当のメッセージ。そのありかを、ついに突き止めた瞬間だった。
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