第38話:朝の港(第ニ章 完)
第三埠頭事案調査特別委員会の設置が可決されてから、三日後。
臨海部の小学校に、朝の光が差し込んでいた。
給食室では、湯気と包丁の音がいつものように立ち上っている。調理員たちが野菜を洗い、玉ねぎを刻み、大きな鍋に油を引いていた。
杉原真由美は、納品口の前に立っていた。
いつもより早い時間に、トラックのエンジン音が聞こえた。白い車体が校門をくぐり、給食室の裏手にゆっくりと停まる。
運転席から降りてきたのは、以前から顔を知っている東都フーズの配送員だった。
「おはようございます、杉原さん」
少し照れくさそうな笑みだった。
「しばらく、うちが直接持ってくることになりました。確認、お願いします」
杉原は、受け取った配送票を見た。
そこには、はっきりと記されていた。
東都フーズ直送
第三埠頭経由なし
その文字を、杉原はしばらく見つめた。
以前なら、納品時間はぎりぎりだった。箱の封が不自然に開いていることもあった。問い合わせても「第三埠頭で確認します」としか返ってこなかった。
だが、今日は違った。
ラベルは揃っている。
封は破れていない。
温度管理票も正しい。
配送員の顔も、声も、以前と同じだった。
「確認しました」
杉原は、静かに判を押した。
配送員が荷物を下ろしていく。人参、じゃがいも、玉ねぎ、牛乳、米。どれも、子供たちが今日口にするものだ。
給食室では、調理員の一人が笑った。
「今日はカレーだからね。みんな、朝から楽しみにしてるよ」
杉原は、思わず微笑んだ。
昼になれば、子供たちは何も知らずにカレーを食べるだろう。誰が議会で発言したのかも、誰が港で立ちはだかったのかも、誰が夜通し資料を作ったのかも知らない。
それでいい。
守るべき日常とは、本来、そういうものなのだ。
同じ朝、東京港にも光が差し始めていた。
冬の海は鈍い銀色に光り、巨大なクレーンがゆっくりと動き出す。鉄と油と潮の匂いが混じった空気が、港の朝を作っていた。
第三埠頭には、緊急監査が入っていた。
東京ベイフーズの臨海部給食配送契約は暫定的に停止され、倉庫七号の一部は調査対象として封鎖されている。東亜港湾管理の運用実態も、委員会の調査項目に入った。
だが、何もかもが解決したわけではなかった。
東亜港湾管理の看板は、まだそこにある。
三井の姿は消えたままだ。
地下搬入口の鉄扉は閉じている。
その奥に何があるのか、陸たちはまだ知らない。
それでも、港の空気は少しだけ変わっていた。
あの「華東ロジスティクス社員専用」と貼られていた休憩室の札は外されていた。露骨に中国系チームだけが優遇されるシフトも、今朝は組まれていない。
完全に取り戻したわけではない。
だが、堂々と踏みにじることは、もうできなくなっていた。
古い休憩所の前で、剛が缶コーヒーを飲んでいた。千鶴も、作業着の男たちと何かを話している。
そこへ、土田がやってきた。
正式に復職したわけではない。早期退職扱いが撤回されたわけでもない。それでも、港湾労働者たちは、彼の姿を見ると自然に顔を上げた。
「土田さん」
剛が笑った。
「テレビに出てたぞ」
土田は照れくさそうに鼻を鳴らした。
「余計なことまで映してやがったな」
「十分だよ」
千鶴が腕を組みながら言った。
「あんた、いい顔してた。港の男の顔だった」
「よせやい」
土田はそっぽを向いた。だが、その口元は少しだけ緩んでいた。
そこへ陸が来た。
コートの襟を立て、白い息を吐きながら、ゆっくりと歩いてくる。
土田の前で、陸は深く頭を下げた。
「あなたが立ってくれたから、議会が動きました」
土田は、すぐに首を振った。
「俺だけじゃねえ。港が、ようやく声を出したんだ」
彼は、朝の港を見渡した。
長年見慣れたクレーン。コンテナ。海面。錆びた手すり。油の染みた地面。
「まだ、俺たちの港に戻ったわけじゃねえ」
土田は言った。
「でも、今日は少しだけ、昔の港の匂いがする」
その言葉に、陸は何も返せなかった。
ただ、その匂いを一緒に吸い込んだ。
港の朝の匂い。
学校給食の小さな正常化。
子供たちの何気ない昼食。
労働者たちの休憩所。
それらは大きな勝利ではない。
だが、確かに何かが戻っていた。
その後、陸は橘の病室へ向かった。
橘は相変わらず不機嫌そうだった。右腕は固定されたままで、脇腹の包帯も外れていない。ベッド脇には、ノートパソコンとタブレットとスマートフォンが並んでいる。
「安静という言葉の意味を、誰かに教えてもらった方がいいですね」
陸が言うと、橘は鼻で笑った。
「辞書は持ってねえ」
「でしょうね」
陸が椅子に座ると、橘は画面から目を離さずに聞いた。
「お前、勝ったのか」
陸は、少し考えた。
「勝ちました。でも、無傷じゃありません」
橘は、満足そうに口の端を上げた。
「それでいい。無傷で勝てる戦いは、本物の戦いじゃねえ」
陸は、橘の固定された腕を見た。
「橘さんが撮ってくれた映像がなければ、議会では戦えませんでした」
「俺は撮っただけだ。制度に乗せたのは、お前だ」
橘は顔を背けた。
照れ隠しのようにも見えた。
「でもな」
少し間を置いて、彼は続けた。
「昨日の議場は悪くなかった。土田の爺さんも、桜井の狸も、みんな勝手に動いた。お前一人の戦いじゃなくなってる」
陸は、その言葉を受け止めた。
国会議員の頃、自分は何もかも一人で背負おうとしていた。父の死も、国家の闇も、敵への怒りも。
だが今は違う。
美鈴がいる。
千鶴がいる。
剛がいる。
土田がいる。
浅野が戻ってきた。
香織も、吉見も、杉原も、港の人々も、それぞれの場所で動いている。
誰かが命令したのではない。
それぞれが、自分の理由で立った。
「やっと」
陸は、小さく言った。
「少しだけ、父の見ていたものが分かった気がします」
橘は、黙っていた。
やがて、ぼそりと言った。
「なら、まだ先は長えな」
その言葉は、冷たくはなかった。
事務所へ戻ると、そこにはいつもの慌ただしさが少しずつ戻っていた。
美鈴は調査委員会へ提出する資料を整理している。浅野は古い文書の注釈を確認していた。香織と吉見は、会議資料のコピーを分類している。千鶴は港からの追加証言を電話で聞き取り、手元のメモに走り書きしていた。
その光景を見て、陸は一瞬だけ立ち止まった。
戦いは終わっていない。
だが、事務所は動いている。
人がいる。
声がある。
その時、美鈴の端末が小さく鳴った。
彼女の表情が変わる。
「陸さん。匿名の暗号化メッセージです」
「どこからですか」
「北京経由です。ただ、複数の中継を通っています。発信者は隠されています」
件名は短かった。
『先生へ』
陸は、すぐに誰かを察した。
美鈴が慎重に復号する。
画面に、短い文章が表示された。
『先生。
僕は今、北京にいます。たぶん、もう戻れません。
僕の母は、毎晩、日本の童謡を歌ってくれました。
母は何も知らずに、僕を育ててくれました。
僕みたいな人間が、ここにはたくさんいます。
母を知らない子もいる。
母を覚えている子もいる。
僕は、覚えている方の子です。』
田中だった。
陸は、しばらく画面から目を離せなかった。
田中は裏切った。
情報を流した。
陸チームを傷つけた。
香織を利用し、事務所の信頼を壊し、支援者たちを疑心暗鬼に追い込んだ。
陸は、田中を許していない。
だが、画面の中には、陸の知らなかった田中がいた。
毎晩、日本の童謡を歌ってくれた母の息子。
何も知らずに育てられた子供。
母を覚えている方の子。
陸は、田中を許せない。
だが、田中をただの裏切り者としてだけ見ることも、もうできなかった。
浅野が、画面を見つめたまま静かに言った。
「田中さんは、まだ完全には消えていません」
美鈴は、現実に引き戻すように言った。
「でも、こちらから返信すれば危険です。相手が監視している可能性があります」
陸は頷いた。
「今は、受け取るだけにします」
画面の中の言葉は、しばらく誰も消せなかった。
その日の夕方。
事務所に一通の封筒が届いた。
白い洋封筒だった。
宛名は、日本語の達筆な文字で書かれている。墨で書いたような、深い黒。
『高遠陸殿』
差出人は北京の住所。
そして、名前は一つだけだった。
李明瑞
事務所の空気が、静かに変わった。
陸は、その封筒を手に取った。
紙は薄かった。だが、確かな重さがあった。
デジタルではない。
追跡も暗号もない。
ただ、遠い場所から、一人の人間が、もう一人の人間に向けて書いた手紙だった。
浅野が、低く言った。
「開けてください」
陸は封を切った。
中には、一枚の便箋が入っていた。
文面は、流暢な日本語だった。
『高遠陸殿。
あなたの父上のことを、私は今でも夢に見ます。
私が日本を離れた日、東京港の灯りが、子供の私には世界で最も明るく見えました。
今、その港に、私の名前が書かれた箱が運ばれていると聞きます。皮肉なものです。
あなたの父上は、私に「お前の名前は何だ」と問いました。
私は今でも、その問いに答えられません。
いずれ、お会いしましょう。』
陸は、「私の名前が書かれた箱」という一文に目を止めた。
東京湾へ運び込まれたコンテナ。
第三埠頭の資材搬入。
地下施設。
それらと繋がる可能性がある。
だが、まだ意味は分からない。
それ以上に、陸の胸を刺したのは、父の問いだった。
――お前の名前は何だ。
父は、李明瑞にそう問いかけた。
敵としてではなく、一人の人間として。
陸は、父の声を、自分の中で再生した。
優しくはなかった。
だが、冷たくもなかった。
ただ、相手を一人の人間として認める声だった。
父は、敵を倒すだけの人ではなかった。
父は、敵にも名前を問う人だった。
そして李明瑞は、まだその問いに答えられない。
千鶴が、腕を組んだ。
「罠かもしれないね」
「罠です」
浅野は即座に言った。
全員が彼女を見た。
浅野は続ける。
「ですが、罠であると同時に、呼びかけでもあります。李明瑞は、陸さんを試している」
陸は、もう一度手紙を見た。
それは助けを求める言葉にも、挑発にも見えた。
どちらか一方ではないのだろう。
李明瑞という男の中で、その二つは、おそらく同時に存在している。
翌朝。
陸は一人で東京港へ向かった。
まだ薄暗かった。
空の端だけが、わずかに白み始めている。
冷たい潮風が吹き、遠くでクレーンが動き始める音がした。
海面には、朝の光が少しずつ滲んでいる。
陸は、第三埠頭の方角を見た。
地下搬入口はここからは見えない。
倉庫七号も遠い。
だが、そこに闇があることを、もう陸は知っている。
父が三十年前に見ようとした闇。
浅野が追い続けた闇。
雅人を作った闇。
田中を飲み込んだ闇。
李明瑞が今も答えられない闇。
陸は、心の中で父に問うた。
親父。
俺は、誰かを救えるだろうか。
答えはない。
ただ、港の朝日が、ゆっくりと昇っていく。
潮風が、陸の頬を撫でた。
海の匂い。
鉄の匂い。
微かな油の匂い。
それらは、陸の問いを答えに変えてはくれない。
だが、朝の光は、確かに彼の頬を温めていた。
その時、背後に足音が聞こえた。
砂利を踏む、静かな足音。
陸は振り返らなかった。
足音が、陸の隣で止まる。
誰かは分かっていた。
浅野だった。
彼女は何も言わない。
陸も何も言わない。
二人は、ただ同じ朝日を見た。
港の朝日は、すべてを救う光ではなかった。
けれど、闇の形を照らすには十分だった。
二人は、長い時間、何も言わずに朝日を見続けた。
陸は、まだ答えのない問いを胸に抱いたまま、朝の光を見つめ続けた。
第二章 完
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




