第9話:草の根選挙
綾小路雅人の側近たちが、潤沢な資金と組織力を背景に、華々しい選挙戦を繰り広げる中、高遠 陸の戦いは、静かに、そして熱く始まっていた。
事務所は、港湾労働組合が長年使ってきた、古びたプレハブ小屋。選挙カーもない。陸は、町の青果店から借りてきたみかん箱の上に立ち、道行く人々に、自らの言葉で訴えかけた。
そこにあったのは、資金も組織も有名な政治家の応援もない、まさに「草の根」の選挙戦だった。
だが、彼には何よりも強い仲間がいた。
港湾労働者たちが、交代で仕事の合間を縫って、ビラ配りを手伝ってくれた。彼らの妻たちは、事務所で炊き出しを作り、夜遅くまでポスター貼りに奔走するボランティアたちの腹を満たした。
「陸さん、これ、事務所の運営費の足しにしてください」
浅野が、一枚の封筒を差し出した。中には、彼女が退職金を切り崩して用意したであろう、分厚い札束が入っていた。陸が固辞すると、彼女は、静かに、しかし力強く言った。
「これは私からの未来への投資です」
しかし、敵の攻撃は陰湿かつ巧妙だった。
陸が、港湾での中国系企業による、一方的な買収と、労働環境の悪化を訴えると、彼らはその言葉の一部だけを切り取り、陸を「中国人排斥を訴える差別主義者だ」とレッテル貼りしたのだ。
瑞樹の『新しい家族の形法案』に、かつて陸が反対したという事実も掘り起こされ、「彼は多様性を尊重しない時代遅れの政治家だ」という批判が、ネットのニュースサイトやSNSで毎日のように繰り返された。
事務所で、ボランティアとして応援してくれていた若い学生たちの顔が、日に日に曇っていくのを、陸は痛いほど感じていた。
「高遠さんって本当に差別主義者なんですか……?」
そんな悲しい質問を投げかけられることもあった。
街頭演説の会場にはどこからともなく現れた集団が、組織的なヤジを飛ばし始めた。
「多様性の敵は、議会から出ていけ!」
「港のゴロツキと組んだ、ゴロツキ議員!」
温かい声援を送ってくれていた聴衆も、その罵声に次第に足を止めてくれなくなっていく。事務所のボランティアスタッフの数も少しずつ減り始めていた。
その夜、陸は、一人、がらんとした事務所で深くため息をついた。
自分の正義は本当に世間に届いているのだろうか。それともただの独りよがりなのか。
事務所のドアが、静かに開いた。千鶴だった。彼女は昼間の街頭演説で、一番大きな声でヤジを飛ばしていた男に一人で食ってかかり、陸を庇ってくれていた。
「……すみません、千鶴さん。俺のせいで嫌な思いをさせてしまって」
「馬鹿なこと、言うんじゃないよ」
千鶴はそう言うと、陸の前に熱い湯気の立つカップを置いた。
「あんたが何のために誰のために戦ってるのか。それを、あいつらにもう一度私がちゃんと伝えてくる。あんたは自分の言葉を信じて前だけ見てな」
彼女はそう言うと、再び夜の街へと出ていった。
翌日、陸が事務所に行くと空気が変わっていた。
減り始めていたボランティアの学生たちが、全員戻ってきていたのだ。その顔にはもう迷いの色はなかった。
陸が、何が起きたのか分からずにいると、学生の一人が少し照れくさそうに言った。
「昨日、千鶴さんが俺たち一人ひとりと話してくれたんです。高遠さんがどんな思いで、今この戦いを続けているのか。……俺たち自分の頭で考えずに外野の声に流されてました。すみません!」
陸は何も言えなかった。ただ胸が熱くなった。
そこから、陸たちの猛烈な巻き返しが始まった。
美鈴はSNS戦略の舵を切り直した。陸の演説をただ流すのではなく、港湾労働者たちの生の声のインタビュー動画を次々と配信し始めたのだ。「俺たちの職場がなくなっちまう」「この町で子供を育てていきたいだけなんだ」。その切実な声は、どんな巧みなプロパガンダよりも強く人々の心を打った。
千鶴は地元の商店街を一軒、また一軒と、頭を下げて回り続けた。彼女の誠実な訴えに、最初は遠巻きに見ていた店主たちも、一人、また一人と、事務所にカンパを届けに来てくれるようになった。
そして、選挙戦最終日の夜。
疲労困憊でセーフハウスに戻った陸は、気晴らしに、浅野が遺したあのレトロゲームを起動した。
すると、ゲームの中、宿屋の主人に話しかけると、いつもとは違うメッセージが表示された。
それは浅野からの応援メッセージだった。
『高遠 陸様。苦しい戦いのことと存じます。ですが、夜明け前が一番暗いのです。誠二先生も、いつもそう仰っていました。陰ながら、応援しております』
その言葉に陸の目から涙がこぼれた。
一人じゃない。
見てくれている仲間がいる。信じてくれる人々がいる。
陸は涙を拭うと、静かに決戦の朝を待った。
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