第8話:決意
綾小路雅人の都知事選出馬表明から一ヶ月が過ぎた。綾小路雅人の都知事選出馬表明から一ヶ月が過ぎた。5月に入り、東京の街路樹が新緑に輝き始めている。雅人は巧みなメディア戦略で着実に支持を広げ、都知事選の前哨戦と位置付けて、来たる都議会議員選挙に自らの息のかかったIT企業出身の若手候補者たちを次々と擁立し始めたのだ。
「……基盤作りか」
橘が事務所のテレビに映る雅人の側近たちの爽やかな笑顔を睨みつけ、吐き捨てた。「都議会を自分の息のかかった人間で固めるつもりだ。奴が都知事になった時にはもう誰も逆らえないようにする、ってな」
その日の午後、陸の事務所の小さなドアがひっきりなしに開閉していた。事務所の中は作業着姿で日に焼けた男たちの熱気でむせ返るようだ。東京港の港湾労働者たちが十数名、集まっていたのだ。その中心にいたのは港野千鶴の夫であり、労働組合の代表を務める武骨な男、剛だった。
「高遠さん、あんたしかいねえんだ」
剛は深々と陸に頭を下げた。その場にいた全ての労働者たちがそれに倣う。
「俺たちの代表として都議会に出て、あいつらの好き勝手を止めてくれ!」
そのあまりに真っ直ぐで悲痛な声に、陸は思わず後ずさりしそうになった。
「……しかし私は、もう政治家は……」
一度あの場所で全てを失った。裏切り、謀略、そしてどうしようもない無力感。もう二度とあの場所には戻らない。そう誓ったはずだった。
陸が言葉に詰まっていると、隣に立っていた千鶴が厳しい声で言った。
「あなたのお父様はどんな時でも現場の声を一番大切にした。机の上だけで物事を判断するような人じゃなかった。……その息子が今、目の前の声から逃げるのかい?」
その言葉が陸の胸に突き刺さる。
「私たちが全力でサポートします」
美鈴がまっすぐな瞳で陸を見つめた。「陸さん一人じゃありません。私たちがあなたの武器になります」
そして最後に、腕を組んで黙って成り行きを見守っていた橘がふっと息を吐いた。
「……やるなら徹底的にやるぞ、陸。中途半端は許さねえ。だがお前が腹を括るなら、俺もこの命、お前に預けてやる」
仲間たちの熱い言葉。労働者たちの切実な願い。
だが陸の心はまだ揺れていた。本当に自分にその資格があるのか。
その夜、陸は誰にも告げずに一人、車を走らせていた。
翌朝未明。
陸はなんとなく東京港まで来ていた。巨大なクレーンが朝焼け前の藍色の空を背景に、巨大な恐竜の骨格のように静かに佇んでいる。
夜勤明けの労働者たちが疲れた顔で通用門から出てくる。その中に昨日事務所に来ていた剛たちの姿があった。
「……高遠さん?」
陸の姿に気づいた剛は驚いた顔をした。陸はただ頭を下げることしかできなかった。
剛は何も言わずに陸を、労働者たちが集まる小さな休憩所へと招き入れた。自販機の温かい缶コーヒーを陸に手渡す。
そこで陸はただ黙って彼らの話を聞いていた。
それは政治の話でも陰謀の話でもなかった。自分たちの仕事の話。家族の話。そしてこの港への深い愛情の話だった。
「俺の親父もここのクレーン乗りでな」
一番年嵩の白髪の男が目を細めて言った。
「ガキの頃、親父の操縦するクレーンが夕日の中で世界で一番でっかく見えたんだ。俺もああなりてえって。……息子も最近同じことを言うんだよ。俺の跡を継ぐってな。その時までこの港が、俺たちの港として残っててくれるといいんだが……」
彼らが語るささやかな、しかし、かけがえのない日常。
その時、陸は初めて本当に理解したのだ。
父が命を懸けて守ろうとしたもの。それは国家の体面でもイデオロギーでもない。この名もなき人々が日々を懸命に生きるささやかな日常。その当たり前のかけがえのない風景。それこそが「国」そのものなのだと。
(守りたい)
陸の心の中に静かに、しかしどうしようもなく熱いものが込み上げてきた。
この人たちを。この人たちが愛するこの場所を。そして彼らが見つめる未来を。
(俺が、守るんだ)
陸は立ち上がった。そして剛たちの前に立つと深く、深く頭を下げた。
「……俺に、戦わせてください」
その声はもう迷っていなかった。
「皆さんの声を俺が必ず議会に届けます」
朝焼けの光が東の空から差し込み始め、陸の、そして港で生きる男たちの顔を明るく照らし出していた。
新しい戦いが今、始まろうとしていた。
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