第4話:鈴木美鈴
事務所の、古いドアを、コン、コン、とノックする音がした。
こんな夜更けに、誰だ?
陸と橘は、顔を見合わせ、一瞬で緊張に体をこわばらせた。橘が、静かに、デスクの引き出しに収められた護身用の特殊警棒に、手を伸ばす。
陸は、意を決して、ドアを開けた。
そこに立っていたのは、一人の、若い女性だった。
年の頃は、二十代半ば。少し怯えたような、しかし、その奥に、強い意志を秘めた瞳で、彼女は、まっすぐに陸を見つめていた。
「……あの」
女性は、震える声で言った。
「突然、申し訳ありません。私、あなたたちの記者会見を、テレビで見ました。私にも、もしかしたら、できることがあるかもしれない、と思って……」
事務所の応接スペースで、彼女は鈴木美鈴と名乗った。その身の上話は、陸たちの想像を絶するものだった。
彼女は、日中ハーフだった。祖父は、かつて北京大学で教鞭をとっていたが、天安門事件で民主化を訴え、中国政府から弾圧された。命からがら、日本に亡命してきたのだという。
「両親は、私に、自由な日本で育つことの幸せと、今の中国という国家の、本当の恐ろしさを、幼い頃から教えてくれました。だから、私には分かるんです。あなたたちが、どれほど巨大で、危険な相手と戦っているのかが」
美鈴は、大学卒業後、大手IT企業でサイバーセキュリティを担当していた。だが、その会社が、数ヶ月前に、中国系のファンドに買収された。
「会社のシステムに、バックドアが仕掛けられていくのを、私はこの目で見ました。日本のユーザーの個人情報が、深圳のサーバーに送られていく。それに抗議したら、私は『会社の方針に従えないなら、辞めてもらう』と。…だから、辞めました」
彼女は、まっすぐに陸を見つめ返した。その瞳に、もう怯えの色はなかった。
「私は、日本人です。私の祖国は、日本です。でも、中国の手口も、彼らの使うIT技術も、私は知っています。だから、あなたたちの力になれる。一緒に、戦わせてください」
美鈴が帰った後、事務所は、重い沈黙に包まれた。
「……話が、出来すぎてる」
橘が、吐き捨てるように言った。
「天安門で亡命した祖父? 中国系企業に反発して、会社を辞めたサイバーセキュリティの専門家? ハニートラップか、綾小路が送り込んできたスパイと考えるのが、自然な線だ」
「……でも」
陸は、反論した。
「もし、彼女の話が本当なら…。彼女のサイバーセキュリティの知識と技術は、今の俺たちにとって、何よりの武器になる」
二人の意見は、真っ二つに割れた。
翌日から、陸と橘は、あらゆる角度から、鈴木美鈴という女性のバックグラウンドを調査した。橘は裏社会の情報網を、陸は公開されているデータを、それぞれ徹底的に洗い出した。
そして、三日後。二人は、意外な結論に達していた。
「……シロだ」
橘が、調査報告書の束をテーブルに置き、唸るように言った。
「彼女の経歴は、きれいすぎない。大学時代には、奨学金の返済で苦労しているし、バイト先で店長と喧嘩して、クビになったこともある。SNSのアカウントも、どこにでもいる、普通の女の子だ。飼ってる猫の写真と、電車の遅延への文句で溢れてる」
彼女の経歴には、瑞樹 秀のような、完璧に作り込まれた不自然さがない。むしろ、人間臭い失敗や、生活感に満ちていた。祖父が、天安門事件後に、日本の人権団体に保護されていた記録も見つかった。
「話は、全て、本当のようだ」
陸は、安堵の息を漏らした。
だが、安堵は、すぐに、新たな苦悩に変わった。
陸は、美鈴に電話をかけた。
「鈴木さん、高遠です。先日は、ありがとうございました」
陸は、言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「あなたのことは、調べさせていただきました。お話に、嘘はないようです。その勇気と、志には、心から敬意を表します。……ですが、申し訳ない。今の僕たちには、あなたを、仲間にすることはできません」
『……どうして、ですか』
電話の向こうで、美鈴の声が、かすかに震えた。
「今の僕たちは、巨大な組織から、常に監視されています。そこに、中国と繋がりのあるあなたが入れば、敵にとっては、格好の的になる。あなた自身を、危険に晒すわけにはいかないんです」
それは、陸の、苦渋の決断だった。
『……分かりました』
美鈴は、それだけを言うと、静かに電話を切った。その声には、深い失望の色が滲んでいた。
それから、一週間が過ぎた。
陸と橘の調査は、再び、停滞していた。綾小路親子の、巧妙に分断された金の流れを前に、打つ手がない。
その夜、陸が、事務所で一人、頭を抱えていると、彼の個人用のメールアドレスに、一通のメールが届いた。差出人は、匿名。暗号化されている。
添付ファイルが、一つだけ。
そして、本文には、たった一言だけ、こう記されていた。
『これが、私の履歴書です』
陸は、ゴクリと喉を鳴らした。美鈴からだった。
橘を呼び、二人で、スタンドアロンのPCで、そのファイルを開く。
それは、膨大な、金の流れを示す、取引データだった。
綾小路誠之介の政治団体に、多額の献金をしていた、中国系のフロント企業。
その企業が、タックスヘイブンに設立した、ペーパーカンパニー。
そして、そのペーパーカンパニーから、国内の、複数のクリーンなベンチャーキャピタルを経由して、最終的に、綾小路雅人のIT企業に、資金が流れていることを示す、決定的な金の流れ。
「……嘘だろ」
橘が、声を失った。
「俺たちが、何ヶ月もかけて、掴めなかった証拠だぞ…。こいつ、一体、どうやって……」
陸は、画面を見つめながら、戦慄していた。
自分たちが、表の扉を叩き続けている間に、彼女は、たった一人で、裏口の、最も分厚い扉を、いとも簡単に、こじ開けてみせたのだ。
鈴木美鈴。彼女は、ただのITエンジニアではない。
この巨大な悪と戦うための、最強の「武器」そのものだった。
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