第4話 父が遺した警告
初登院から一週間が過ぎた。
高遠 陸の議員生活は、退屈そのものだった。朝は党の部会に出席して、聞いているのかいないのか分からないような長老議員たちの話を拝聴する。昼は他の新人議員たちと当たり障りのない会話でやり過ごし、午後は自分の事務所で、地元からの陳情に「検討します」と繰り返す。
すべてが、中身のない儀式のように思えた。
あの廊下で伊達 正宗と会って以来、陸の頭の中は、彼の目に宿った氷のような光と、父の死の謎でいっぱいだった。だが、証拠も手がかりも何もない。巨大な権力者の前で、自分はあまりに無力だった。焦りだけが募っていく。
「これでは、何も分からないまま終わってしまう」
週末、陸は実家である高遠邸の、父の書斎にいた。何か、ほんの少しでもいい。父が遺した痕跡はないか。その一心で、遺品整理を名目に、浅野秘書と共に足を踏み入れたのだ。
「先生は、ほとんどの時間をこの部屋で過ごされていました。まさか、こんな形で二度と戻られないとは……」
壁一面の本棚を見上げ、浅野が寂しげに呟く。法律、政治、歴史、経済。膨大な専門書に混じって、国内外の推理小説が並んでいるのが、少しだけ意外だった。
「すごい量ですね。どこから手をつければいいのか……」
机の上に山と積まれた書類の束を前に、陸は途方に暮れた。
「先生は、重要な資料やご自身の考えは、デジタルデータにはあまり残されない方でした。ハッキングなどを警戒しておられたのかもしれません。大事なことはいつも手で書くことを好まれる、古いタイプの政治家でしたから」
「手書き……」
浅野の言葉に、陸はハッとした。そうだ。手がかりがあるとしたら、公式な書類の山の中ではない。父個人の、プライベートな記録の中にあるはずだ。
陸は、分厚い政策資料には目もくれず、父が日常的に使っていたであろう机の引き出しを一つずつ開けていった。使い古された文房具、地元名士からの手紙、家族写真。どれも、陰謀の影を感じさせるものではない。
一番下の引き出しの奥に、古い桐の箱があった。中には、一本の年代物の万年筆が収められている。陸が子供の頃、父がいつも胸ポケットに挿していたものだ。
何気なく、万年筆が収まっていた布張りの台座を持ち上げてみる。
その下に、一冊の薄いノートが隠されているのを、陸は見つけた。
ごく普通の、どこにでもある大学ノート。表紙には何も書かれていない。
「浅野さん、これ……」
陸がノートを掲げると、浅野は「まあ」と小さく声を上げた。
「先生が、何かを書き留めておられたノートですね。ですが、中身までは私も……」
心臓が早鐘を打つのを感じながら、陸はゆっくりとページをめくった。
そこに記されていたのは、日記でもメモでもない、不可解な記述の連続だった。
『五月十日 “蝉”が鳴き始めた』
『五月十六日 “螳螂”、閣議請議』
『五月二十二日 奴は気づいている。泳がされているか?』
『六月三日 瑞の動き、計算通り。メディアは完全に掌の上』
日付と、暗号のような単語。時折、父の焦りを示すかのような、短い所感が挟まれている。陸は、一気にページを読み進めていった。そして、あるページの中央に、他とは違う、強い筆圧で書かれた一文を見つけて、息を呑んだ。
**『“蝉”に気を取られるな。本当の敵は“螳螂”だ』**
蝉。螳螂。
その比喩が何を意味するのか、陸は瞬時に理解した。ゲームデザイナーとしての勘が、父の意図を正確に読み取っていた。
“蝉”――それは、やかましく鳴き、人々の耳目を集める存在。今、永田町で最も騒がれているもの。瑞樹 秀の「新しい家族法案」だ。与野党を巻き込み、メディアを炎上させているあの騒動そのものが、陽動。
では、その蝉を捕食するために、背後で静かに待ち構えている“螳螂”とは、一体何なのか。
陸は、震える手で最後のページをめくった。
そこには、乱れた文字で、一つの法案名だけが走り書きのように記されていた。
まるで、父が最後に遺したダイイング・メッセージのように。
**『重要経済基盤の安定供給確保法案』**
重要経済基盤の、安定供給確保法案。
地味で、堅苦しい、いかにも官僚が考えそうな名前だ。国民のほとんどは、その存在すら知らないだろう。
だが、陸は確信していた。
父が命を懸けて警告しようとしていた“螳螂”の正体。伊達 正宗が、国民の目を欺き、水面下で進めようとしている巨大な陰謀の核心。
そのすべてが、この法案の中に隠されている。
「……見つけた」
陸の呟きに、浅野が訝しげな顔を向けた。
「陸さん?」
陸は、ノートを強く握りしめた。顔つきが、この数週間見せていたお飾りのボンボンのそれから、獲物を見つけた狩人の顔へと、確かな変化を遂げていた。
「浅野さん、この法案について、すぐに調べてください。提出者、審議状況、内容、関連する企業……どんな些細な情報でもいい。すべてです」
まだ、何も分かってはいない。だが、進むべき道筋は見えた。
父が遺したこのノートは、理不尽なクソゲーとしか思えなかったこの現実世界における、唯一の「攻略本」だった。
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