第2話:浅野の決断
陸が議員辞職してから、二ヶ月が過ぎた。
季節は、秋に移ろいでいた。あれほど鳴り響いていた蝉の声は止み、神田の裏通りに構えた「陸の事務所」の窓からは、涼しく、乾いた風が吹き込む。
表向きは、フリーのゲームクリエイターである陸の仕事場。だが、その実態は、陸と橘と浅野の三人で、今もなお政界の闇を追い続けるための、小さな前線基地だった。
しかし、その戦いは、壁にぶつかっていた。
つけっぱなしのテレビから、軽快な音楽と共に、爽やかな声が流れてきた。
『東京を、世界一のスマートシティに』
画面には、綾小路雅人が、クリーンな白いシャツ姿で、若者たちと笑顔で語り合っている。彼の都知事選に向けたCMだった。その爽やかな笑顔は、父・誠之介の老獪なそれとは違う、現代的で、だからこそ得体の知れない不気味さを放っていた。
「……ちっ」
橘が、忌々しげに舌打ちをする。綾小路雅人の周辺を調査しても、その資金源はクリーンで、完璧なイメージ戦略の前には、つけ入る隙がない。焦りと、無力感。それが、事務所の空気を重く支配していた。
その時だった。
浅野が、いつものように、静かに湯呑みを置いた。立ち上る緑茶の、清々しい香り。
「……陸さん、橘さん」
浅野は、改まった口調で言った。その声には、普段の彼女にはない、固い決意がこもっている。
「少し、お時間をいただけますでしょうか」
陸と橘は、顔を見合わせた。
浅野は、深々と一礼すると、静かに、しかし、はっきりと告げた。
「私、この事務所を、今月限りで、辞めようと思います」
「えっ?」
陸は、思わず声を上げた。何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。
言葉を失った。浅野は、ただの秘書ではなかった。時には厳しく、時には優しく、陸を導いてくれた、母親代わりのような存在だった。父を失い、今また、自分にとって最も大きな支えの一つを失おうとしている……。
「俺を、置いていかないでください」
喉まで出かかった言葉を、陸は、必死で飲み込んだ。それは、甘えだ。子供の我儘だ。彼女の人生を、これ以上、自分の戦いに縛り付ける権利など、俺にはない。
「自分の、人生……」
陸が、ようやく絞り出した声は、かすれていた。
「はい」
浅野は、少し、はにかむように言った。
「実は、若い頃、ゲームクリエイターになるのが、夢だったんです。小さな会社なのですが、昔の名作ゲームを、今の時代に蘇らせる、という仕事にご縁がありまして。これが、本当に、最後の挑戦だと思って。……私の、わがままです」
その顔は、長年まとっていた「秘書」という鎧を脱ぎ捨てた、一人の女性としての、晴れやかな顔だった。
「……分かりました」
陸は、全ての感情を押し殺し、精一杯の笑顔を作った。
「浅野さんの、新しい人生を、俺は、心から応援します」
数日後。事務所の、ささやかな送別会。
荷物をまとめた浅野は、最後に、陸の前に立った。
「陸さん。これからの戦いは、今まで以上に、厳しいものになるでしょう。どうか、お体を大切に」
「……浅野さんも、お元気で。寂しくなります」
陸がそう言うと、浅野は、悪戯っぽく、ふふ、と笑った。
「あら。ですから、これは、お別れではありませんよ」
彼女は、人差し指を口元に当てると、意味深な言葉を残した。
「でも、ゲームの中でなら……いつでも、会えますから」
その言葉の真意を、陸と橘は、まだ知る由もなかった。
ドアを開け、秋の光の中へと歩いていく、浅野の後ろ姿。それは、三十年間、父と自分を支え続けた、忠実な秘書の、最後の姿だった。
浅野が去った後、事務所は、がらんと広く感じられた。
陸は、自分のデスクに戻ると、そこに、小さな白い封筒が、一つ、置かれていることに気づいた。浅野が、置いていったものらしかった。
封筒を開けると、中には、一枚の古びた紙切れと、小さなメモが入っていた。
紙切れは、陸が子供の頃に夢中になった、レトロなRPGゲームの、発売当時のチラシだった。
そして、メモには、たった一言だけ、こう記されていた。
『必要な時に』
陸は、その古いチラシを、じっと見つめた。
浅野が遺した、最後の謎。それが、何を意味するのか。
今はまだ、分からない。だが、それは、これから始まる、より深く、より困難な戦いにおける、唯一の希望の種のように、陸の手の中で、かすかな温かみを持っていた。
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