第1話:夜明けの後で
9月5日、午前10時。
あの激動の本会議から、八日が経過していた。
九月に入り、東京の空は高く澄み渡っていた。アスファルトを焼いていた暴力的な日差しは和らぎ、朝晩には秋の気配さえ感じられる。だが、永田町を包む熱狂だけは、未だ冷める気配がなかった。
国会議事堂の正面玄関。
その前に、高遠 陸は立っていた。無数のテレビカメラのフラッシュが、容赦なく彼を白く照らし出す。マイクを握りしめた記者たちが、怒号にも似た声で質問を浴びせていた。
「高遠先生! なぜ、辞職されるのですか! 国民は、あなたの続投を望んでいます!」
「今後の活動は、どうされるおつもりですか!」
陸は、胸ポケットにしまい込んだ、もう主のいない議員バッジの重みを、指先で確かめた。そして、覚悟を決めると、群がる記者団に向かって、深々と一礼した。
喧騒が、一瞬だけ静まる。
記者の一人が鋭く追及する。
「綾小路議員についてはどうお考えですか?」
陸は一瞬、その記者を見つめた。そして、真っ直ぐに、一番手前にあったテレビカメラのレンズを見つめ、静かに、しかし、明瞭な声で言った。
「一市民として、この国の真実を、これからも追い続けます」
記者たちは、その言葉の裏にある決意を感じ取った。何人かは、さらに質問を重ねようとしたが、陸は再び頭を下げると、浅野が確保した道を抜け、待たせていた車に乗り込む。背後で、再びシャッター音と怒号の嵐が巻き起こったが、彼の耳には、もう届いていなかった。
車が向かった先は、橘のセーフハウスだった。
ドアを開けると、タバコの煙と、何日も溜まったであろうゴミの匂いが、むわりと鼻をついた。部屋の中央では、橘が、忌々しげにテレビを睨みつけている。画面には、陸の辞職を伝えるニュースが、繰り返し流されていた。
「伊達前官房長官と瑞樹前議員の初公判が、早ければ来月にも開かれる見通しです。検察は、両被告の余罪についても追及する方針で――」
橘が舌打ちをした。
「あいつらの裁判なんて、どうでもいい。問題は...」
「……ご苦労さん。大スターの凱旋だな」
橘が、陸に向かって皮肉っぽく言った。
テーブルの上には、コンビニの弁当の空き容器と、ウイスキーのボトルが転がっている。壁のホワイトボードは、あの激しい戦いの痕跡を、そのまま残していた。伊達、瑞樹、綾小路。赤いマジックで書かれた彼らの名前が、虚しく見える。
陸がソファに腰を下ろすと、浅野が、黙って冷たい麦茶を差し出した。
三人の間に、重い沈黙が流れた。
勝ったはずだった。巨悪を、白日の下に晒したはずだった。
だが、誰の心にも、勝利の高揚感はなかった。
(父さん、俺は辞職しました。でも、これからどうすればいい?)
陸は心の中で問いかけた。壁に貼られた父の写真は、ただ静かに微笑んでいるだけだった。
「……で、これからどうする?」
最初に沈黙を破ったのは、橘だった。
「『真実を追い続ける』ってのは結構だが、具体的に、どうやってだ? 俺たちは、もう丸裸だ。権力も、金も、組織も、何にもねえ。相手は、いまだに国会議員のバッジをつけたまま、涼しい顔をしてるってのによ」
その言葉に、浅野が静かに続いた。
「綾小路議員は、今も、日本の権力の中枢にいます。彼を監視し、その計画を阻止するためには、どうしても、新しい組織が必要です。ですが、その活動資金をどうするか……。あまりに、現実的な問題が、多すぎます」
橘の現実論と、浅野の正論。どちらも、正しい。
だが、今の陸には、その問いに答える言葉が見つからなかった。
父の復讐は、果たした。だが、その先に何があるのか。自分は、一体、何をすべきなのか。
巨大な敵との戦いを終えた今、彼の心には、目的を失った兵士のような、大きな空洞が広がっていた。
陸は、何も答えられないまま、ただ、ホワイトボードを見つめていた。そこには、伊達や瑞樹と並んで、今もなお、決して消すことのできない、最大の敵の名前が書かれている。
『綾小路 誠之介』
その名前が、これから始まる、より長く、より過酷な戦いを、静かに告げているようだった。
その時、浅野の携帯が震えた。
画面を見た彼女の顔が、みるみる青ざめていく。
「どうした?」橘が気づく。
「綾小路議員の...息子さんが」
浅野は震える声で続けた。
「綾小路雅人氏、32歳。IT企業のCEOだそうです。今朝、都知事選への出馬を検討していると...」
「息子だと?」陸が身を乗り出した。
「ええ。『父の世代の古い政治を刷新し、スマートシティ東京を実現する』と...」
三人に、新たな緊張が走った。
綾小路誠之介は役職を退いても、その血脈は新たな形で動き始めている。
夜明けは、来た。だが、その光は、あまりにも弱く、そして、あまりにも遠い。
戦いはまだ終わっていない。
なにかが始まろうとしていた。
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