第36話:夜明けの国(第一章 完)
あの激動の本会議から、一週間が過ぎた。
茹だるような暑さは幾分和らぎ、空には秋の気配をかすかに感じさせる雲が浮かんでいる。だが、永田町を包む熱狂は、まだ冷めていなかった。
伊達正宗と瑞樹秀は、議員辞職が許可された直後、東京地検特捜部に逮捕された。連日、テレビでは彼らの売国行為の詳細が暴かれ、国民の怒りと失望が、日本中を覆っていた。
その日、陸は、父・高遠誠二が眠る、都内の霊園に来ていた。
磨き上げられた黒い墓石に、静かに水をかける。線香の煙が、夏の終わりの穏やかな風に乗り、ゆっくりと空に溶けていく。
「……親父、全部、終わったよ」
陸は、墓石に向かって、静かに語りかけた。
「あんたが命懸けで守ろうとしたものは、なんとか、守り抜くことができた。でもな、俺は、負けたのかもしれない」
陸は、そこで一度、言葉を切った。
「親父、あんたは知ってたんだろう? 綾小路の正体も、この国に巣食う闇の深さも。それでも、たった一人で戦い続けた。……今度は、俺の番だ」
風が、ふわりと吹いた。立てられた線香の煙が、大きく一度だけ、陸の方に揺れた。まるで、父が、静かに頷いているかのように。
墓参りを終え、霊園の入り口まで来ると、一台の車が停まっていた。中から、浅野恭子が出てきて、深々と一礼した。
「陸さん、お疲れ様でした」
「浅野さん……。俺、明日、議員辞職願を提出しようと思う」
陸の言葉に、浅野は驚かなかった。ただ、寂しそうに、しかし、どこか誇らしげに微笑んだ。
陸は、ジャケットの胸ポケットに手を入れると、ずしりと重い、一つのバッジを取り出した。金色の、菊の紋章。父から受け継いだ、国会議員の証。
彼は、そのバッジを、じっと見つめた。この数ヶ月間の、激しい戦いの記憶が、脳裏をよぎる。
「……これは、もう必要ない」
陸は、静かに、しかし決然と、そのバッジをポケットの奥深くにしまった。
車が向かった先は、神田にある、古い雑居ビルだった。橘が、新しく借りた事務所だ。
ドアを開けると、タバコの煙と、コーヒーの匂いがした。部屋の中は、まだ段ボールが山積みになっている。
「よう、ボンボン。感傷に浸るのは、もう終わりか?」
橘が、憎まれ口を叩きながら、缶コーヒーを投げてよこした。彼の顔には、拘留中のやつれた様子はなく、ジャーナリストとしての、精悍な光が戻っていた。
陸は、コーヒーを受け取ると、浅野から預かってきたファイルを、テーブルの上に置いた。
「これは?」
「父が遺した、興信所の報告書の続きです。私が、独自に調査を進めました」
ファイルを開くと、そこには、インフラ法案に賛成していた、財界人や文化人たちの名前が、リストアップされていた。その全てが、『友情の橋計画』の関係者だった。
「まだ、これだけの『蝉』が、この国には残っています。私たちの戦いは、まだ、終わっていません」
浅野の瞳には、かつての悲しみの色ではなく、共に戦う同志としての、強い光が宿っていた。
三人が、これからの戦いについて語り合っていた、その時だった。
部屋の隅に置かれたテレビが、午後のニュースを伝えていた。
画面に映し出されたのは、地元の夏祭りで、子供たちに囲まれ、にこやかに綿菓子を配る、綾小路の姿だった。その顔には、罪悪感も、絶望も、何一つ浮かんでいない。
「……クソが」
橘が、吐き捨てるように言った。
「奴はまだ、そこにいる。トカゲは、尻尾を切っただけだ」
浅野も、悔しそうに唇を噛んでいる。
陸は、何も言わなかった。
ただ、窓の外の、広大な東京の空を見つめていた。
高く、どこまでも続く、夏の終わりの空。その下で、自分たちの知らない場所で、今もなお、見えない侵略は、静かに進行しているのかもしれない。
父の死の真相は、闇に葬られた。
真の黒幕は、法の裁きを免れ、今も、この国の権力の中枢にいる。
自分は、勝利したのではない。巨大な力によって、生かされただけだ。
その圧倒的な無力感と、ほろ苦い現実を、陸は、静かに受け入れていた。
陸は、テレビ画面の中の、綾小路の笑顔を、真っ直ぐに見つめ返した。
そして、静かに、しかし、確かな決意を込めて、仲間たちに言った。
「ええ。分かっています」
その声は、もう、ボンボンのものではなかった。父の遺志を継ぎ、この国の見えない危機と戦うことを決意した、一人の政治家の声だった。
その言葉を合図にするかのように、窓の外で、ヒグラシが、カナカナと鳴き始めた。
長く、そして暑かった夏が、終わろうとしていた。
そして、夜明けの国を守るための、新しい、そして、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
そして今、新たな物語が始まろうとしている。
日本の、本当の夜明けを迎えるために。
(第一章 完)
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