第34話:人質の国
陸の記者会見から数時間が過ぎ、夜が更けた頃。永田町は、表向きは静まり返っていたが、その水面下では、激しい潮流が渦を巻いていた。
鬼頭剛太郎率いる反伊達派閥は、陸たちが提供した「音声データ」という最強の武器を手に、伊達派の切り崩しを着々と進めている。明日の本会議を待たずして、日本の権力構造は、今この瞬間にも、地殻変動を起こしつつあった。
他方その頃、首相官邸の一室は、陸たちの知り得ない、もう一つの戦場と化していた。
現職の内閣総理大臣・藤堂は、党内最大派閥の領袖となった鬼頭から、伊達と綾小路の「国家反逆」に関する極秘報告を受け、その処遇について、苦渋の決断を迫られていた。
伊達を、切る。党を、そして国を守るためには、それしかない。
藤堂が、非情な決断を下そうとした、その時だった。
首席秘書官が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「総理! 中国の王大使がお見えです」
「今? アポイントはないはずだが」
「それが…『5分だけ』とおっしゃって、既に官邸の中に」
藤堂は、嫌な予感を覚えた。深夜の、アポなし訪問。それは、通常の外交儀礼を、完全に逸脱している。
官邸の特別応接室。藤堂は、たった一人で、中国特命全権大使・王毅と向き合っていた。王は、にこやかな笑みを浮かべている。だが、その目の奥は、一切笑っていなかった。
「総理、夜分に失礼いたします。我が国は、現在の日本の政治状況を、大変、憂慮しております」
その言葉は、丁寧な外交官のそれだった。しかし、内容は、紛れもない脅迫だった。
「特に、我が国の古くからの友人である、綾小路誠之介議員が、謂れのない疑惑をかけられていることに、我が国の政府、そして人民は、深い悲しみと、強い憤りを覚えています」
王は続けた。
「我が国は現在、日本国債を約150兆円保有しています。もし、万が一にも、綾小路議員が刑事訴追を受けるようなことになれば、これを一斉に売却する、という選択肢も、現実味を帯びてくるでしょう」
「……円は暴落し、金利は急騰。日本経済は、壊滅的打撃を受ける」
藤堂が、苦い顔で続けた。
「聡明な総理には、お分かりのはずです」
王は、静かに、しかし、有無を言わさぬ響きで、告げた。
藤堂は、屈辱に唇を噛んだ。だが、国家の宰相として、ここで引き下がるわけにはいかない。「司法の独立は、我が国の根幹です」と、彼が反論しようとした、その時だった。
首席秘書官が、再び、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「総理! 緊急ニュース速報です!」
秘書官が、壁の大型モニターのスイッチを入れる。全てのチャンネルが、同じ速報を伝えていた。
『速報:中国・上海にて、大手自動車メーカー「トヨサン自動車」の日本人役員、スパイ容疑で拘束』
画面に映し出された役員の顔写真を見つめる藤堂の顔が、みるみる青ざめていく。
「田中君は……私の大学の後輩だ。家族もいる……」
アナウンサーが、緊張した面持ちで原稿を読み上げる。
「……本日深夜、上海に出張中であった、トヨサン自動車の田中健二副社長が、中国の国家安全当局に、スパイ容疑で拘束された模様です。中国外務省は、先ほどの緊急会見で、『中国の国家安全を脅かす、重大な容疑である』との声明を発表しました」
王大使は、テレビ画面を見つめながら、まるで他人事のように呟いた。
「おっと、それは我が国の国内問題ですな。日本の内政とは、一切関係ありません。……ですが、スパイ容疑は、我が国では極刑もあり得ますからね」
大使が去った後、藤堂は、一人、執務室で頭を抱えていた。
経済を人質に取られ、そして今、国民の生命までもが、人質に取られた。
彼は、震える手で、党の実力者である鬼頭剛太郎に、電話をかけた。
「鬼頭君……我々は、とんでもないものを、敵に回してしまったようだ」
藤堂は、王大使からの脅迫、そして、テレビに映る「人質」の全てを伝えた。電話の向こうで、百戦錬磨の鬼頭も、言葉を失った。
そして、二人の政治家は、国家を救うための、最も屈辱的で、苦いディール(取引)を受け入れざるを得なかった。
電話を切った後、藤堂は窓の外を見つめた。国会議事堂が、夜の闇に浮かび上がっている。
(これが……今の、日本の政治力の限界なのか)
彼は、苦い薬を飲み込むように、決断を下した。
「……伊達君と瑞樹君は国民への生贄として切り捨てる。だが……」
藤堂は、絞り出すように言った。
「綾小路君の刑事訴追は、、、、、見送る……!」
その決断の重さが、官邸の長い夜を、支配していた。
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