第31話:狼煙
辞職勧告決議案が上程される、運命の本会議の前日。
橘のセーフハウスは、決戦前夜の司令室と化していた。窓の外では、アスファルトを焼く太陽が容赦なく照りつけ、鳴り響く蝉の声が、まるで出陣の号令のように部屋に響いている。
陸、橘、浅野。三人の顔には、極度の緊張と、しかし、揺るぎない覚悟が浮かんでいた。
ホワイトボードには、複雑な相関図と共に、明日、陸が記者会見で突きつける「三重の証拠」のリストが書き出されている。だが、その前に、やるべきことがあった。
「……時間だ」
橘が、ノートパソコンの時計を見ながら言った。
「陸、いいな?」
「お願いします」
陸は、力強く頷いた。
橘は、セーフハウスの、何重にもセキュリティがかけられた通信回線を使い、一本の電話をかけた。相手は、彼が絶対の信頼を置く、大手ネットメディア『ジャパン・インサイト』の編集長だ。
「俺だ。約束のブツを送る。20年前の、官房長官のクソでかいスキャンダルだ。証拠の裏は、全て取ってある。……ああ、そうだ。日本の夜明けを、お前の手で告げさせてやるよ」
電話を切ると、橘は『名もなき役人』から託されたUSBメモリのデータを、暗号化した上で、編集長に送信した。
そして、午後7時ちょうど。
『ジャパン・インサイト』のトップページに、その爆弾は投下された。
【スクープ速報】伊達官房長官、20年前に中国系企業から10億円の不正献金疑惑!官邸を揺るがす爆弾スキャンダル!
その一報は、まさに狼煙だった。
瞬く間にSNSで拡散され、ネットは、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。陸たちのセーフハウスのモニターには、リアルタイムで更新される投稿が、滝のように流れていく。
「マジかよ、伊達終わったな」
「10億円って…国売ってたのか?」
「だからインフラ法案をごり押ししてたのか、納得」
「#伊達は国賊か」
混乱と怒りが、デジタル空間を埋め尽くしていた。
テレビのニュース速報が、慌ててこのネットニュースを報じ始める。コメンテーターたちは、突然の出来事に言葉を失い、当たり障りのないコメントに終始している。
陸たちの、最初の矢は、確かに敵の心臓近くに突き刺さったはずだった。
だが、その熱狂の中、浅野が不安そうに言った。
「……静かすぎます。官邸からの反応が、まだ何もありません。通常なら、すぐに『事実無根である』というコメントが出るはずなのに…」
「嵐の前の静けさか」
橘が煙草に火をつけた、その時だった。
午後9時。
伊達・瑞樹派と目される、大手新聞社『帝都日報』の電子版が、後追い記事ではなく、全く新しい「スクープ」を放ったのだ。
【独自】故・高遠誠二元大臣にも、中国企業との不透明な関係か。長男・陸氏の疑惑にも、中国の影?
「……なんだと?」
陸は、その見出しを見て、絶句した。
記事には、父・誠二が、大臣時代に中国系の友好団体のパーティーに出席している写真が、さも“密会”であるかのように掲載されている。さらには、その団体から、高遠家の関連政治団体へ、法律の範囲内の、ごく少額な寄付があったことを、「不透明な関係の証拠」として糾弾していた。
それは、あまりに悪質な、事実の切り貼りと、印象操作だった。
「汚ねえ……」
橘が、吐き捨てるように言った。
「俺たちが伊達のスキャンダルを報じると、読んでやがったんだ。そして、このカウンター記事を、あらかじめ用意していた。真実と嘘を混ぜて、全てを『政治家の金と中国を巡る、泥仕合』に見せる。これが、奴らのやり口だ…!」
SNSのトレンドは、一気に様相を変えた。
「どっちもどっちじゃねーか」
「結局、政治家はみんな汚いってこと」
「でも高遠も同じ穴のムジナらしいぞ」
「#高遠親子も売国奴」
テレビのニュース番組は、案の定、この二つのスキャンダルを並べて報じ始めた。
「伊達官房長官の疑惑も問題ですが、高遠議員親子にも、中国との関係が指摘されましたね。一体、どちらが本当のことを言っているのでしょうか」
コメンテーターたちは、意図的に論点をずらし、国民を混乱の渦へと突き落としていく。
「陸さん……」
セーフハウスの隅で、浅野が不安そうな顔で陸を見つめている。
せっかく掴んだ反撃の糸口が、敵の巧妙な情報戦によって、掻き消されてしまいそうになっていた。
だが、陸は、静かだった。
彼は、混乱を極めるニュース画面を、冷徹な目で見つめていた。
「いいえ、浅野さん」
陸は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、絶望ではなく、確かな闘志が宿っている。
「これでいいんです。伊達は、俺たちの矢を防ぐために、自ら土俵に下りてきた。そして、国民は初めて、この戦いの存在に気づいた」
陸は、立ち上がると、まっすぐに仲間たちを見つめた。
「世論が、混乱しているのなら。俺が、明日、その混乱に、終止符を打ちます」
その声には、微塵の迷いもなかった。
「本物の証拠で、本物の裏切り者の息の根を、完全に止めてみせます」
決戦の日は、もう、目前に迫っていた。
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