第3話 永田町という名の戦場
熾烈を極めた補欠選挙は、最終的に陸の辛勝という形で幕を閉じた。
「故・高遠誠二」という父の巨大な看板、そして後援会『誠心会』の鉄の組織力。それらがなければ、政治経験ゼロの“ボンボン”が勝てる戦いではなかった。陸は、選挙期間中、ただひたすら島津と浅野に言われるがままに頭を下げ、当たり障りのない演説を繰り返す操り人形に徹した。その結果が、国会議事堂へと向かう黒塗りの車の中にいる、今の自分だ。
「陸さん、お疲れに見えます。昨夜は眠れましたか」
助手席から、秘書として再び陸に付くことになった浅野 恭子が気遣わしげに声をかけてくる。
「ええ、まあ。人生で一番、自分の名前を書いた一ヶ月でしたから」
軽口を叩きながら、陸は窓の外に目を向けた。高くそびえる国会議事堂。これから自分が足を踏み入れる場所。それは、陸にとって、最新のグラフィックで描かれたゲームのラストダンジョンによく似て見えた。荘厳で、歴史の重みを感じさせるが、どこか現実感がない。
車が議事堂の敷地内に入ると、空気が変わった。SPや衛視の鋭い視線、せわしなく行き交う黒服の秘書たち。正面玄関の重厚な扉をくぐり、赤い絨毯が敷かれた廊下を歩く。受け取ったばかりの議員バッジが、やけに重い。
「高遠先生!」
背後から声をかけられ振り返ると、人の良さそうな笑みを浮かべた年配の議員が立っていた。
「お父上には、昔ずいぶんとお世話になったもんだ。君の活躍、期待しているよ」
「ご指導、よろしくお願いいたします」
頭を下げながら、陸は考える。この男は、父の派閥の人間か、それとも敵対派閥か。誰が味方で、誰が敵か。この魔窟では、笑顔ですら信用できない。
議員食堂で昼食をとっていると、周囲の会話が自然と耳に入ってきた。話題は、ある一つの法案に集中していた。
「また瑞樹の奴が、テレビで吠えてたな」
「まったく、あんな法案で国会を空転させおって。アイツは国を引っ掻き回すことしか頭にないのか」
瑞樹 秀。
今、最も国民的人気の高い、野党・新生党の若きエースだ。彗星の如く現れ、その卓越した行動力とクリーンなイメージ、そして巧みな弁舌で、メディアの寵児となっていた。
その彼が国会に提出した『新しい家族の形を支援する法律案』、通称「新しい家族法案」が、今、永田町最大の争点となっていた。伝統的な家族観を重んじる与党・民自党と、多様な生き方を認めるべきだと主張する野党。両者は真っ向から対立し、国会審議は連日紛糾。テレビのワイドショーやネットニュースは、この話題で炎上していた。
事務所に戻り、テレビをつけると、ちょうど国会中継で代表質問に立つ瑞樹の姿が映し出されていた。
「――総理にお尋ねします! 時代がこれほど変化しているにもかかわらず、なぜ我が国は、古い家族観に国民を縛り付けようとするのですか! これは、国民一人ひとりの幸福追求権を侵害する、重大な人権問題であります!」
爽やかなルックスから放たれる、力強く、扇動的な言葉。彼の言葉に、SNSでは賛同のコメントが爆発的に増えていく。だが、陸の目には、その光景がどこか白々しいものに映った。
まるで、計算され尽くした舞台劇だ。
プレイヤーの感情を煽り、特定の方向に誘導する。それは、陸がゲームを設計する時に、最も腐心する部分でもあった。瑞樹 秀という男は、超一流のゲームデザイナーなのかもしれない。この永田町という名の、巨大なゲームの。
その日の午後、陸は党本部で開かれる新人議員向けの研修会に出席するため、廊下を歩いていた。その時だ。向かいから、十数人の秘書や官僚を引き連れた一団が、まるでモーゼの十戒のように人をかき分けながら進んでくるのが見えた。
その中心にいる人物を見て、陸は息を呑んだ。
柔和な物腰、白髪交じりの髪を上品に撫でつけた、紳士然とした男。
内閣官房長官、伊達 正宗。
与党最大派閥の領袖にして、この国の事実上の最高権力者の一人。そして、父・高遠 誠二の、長年の盟友だったはずの男。
すれ違うだけかと思った。だが、伊達は陸の目の前で、ふいに足を止めた。取り巻きたちも、ぴたりと動きを止める。
「……君が、高遠誠二先生の息子さんか」
穏やかな、バリトンの声だった。
「はい。高遠 陸です。この度は、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます」
緊張で、声が上ずる。陸が深々と頭を下げると、伊達は「ああ、楽にしたまえ」と手を差し出してきた。陸は、おそるおそるその手を握り返す。肉厚で、温かい手だった。
「当選おめでとう。大変な選挙だったろう。君が後を継いでくれて、天国のお父さんも、きっと喜んでおられるだろう」
伊達は、好々爺然とした笑みを浮かべている。その瞳は、心から陸の当選を祝福しているように見えた。
だが、握手を解き、伊達が陸の肩を軽くポンと叩いて通り過ぎようとした、まさにその一瞬。
陸は、見てしまった。
伊達の目に宿った、氷のように冷たい光を。
それは、祝福や期待の色などでは断じてない。邪魔な小石でも見るかのような、無機質で、底知れない昏い光。ほんの一瞬のことで、すぐにまた柔和な政治家の笑顔に戻っていた。だが、陸の網膜には、その氷の光が焼き付いて離れなかった。
一団が去った後も、陸はその場に立ち尽くしていた。
全身の血が逆流するような、得体のしれない悪寒が背筋を走る。
(……あの目だ)
確信があった。父の最後の電話の相手は、あの男だ。父は、あの男と口論し、そして死んだのだ。
事務所へ戻る道すがら、陸は隣を歩く浅野に、努めて平静を装って尋ねた。
「浅野さん。親父は、伊達官房長官とは、本当に仲が良かったんですよね?」
浅野は、一瞬、足を止めかけた。その表情が、わずかに曇る。
「……ええ。お二人は、若い頃から苦楽を共にしてこられた、長年の盟友でいらっしゃいました。誰よりも、お父様のことを理解しておられたはずです」
そう答える彼女の声は、いつもより硬く、どこか歯切れが悪かった。
陸は、もう何も聞かなかった。だが、腹の底で決意が固まるのを感じていた。
自分の本当の戦場は、瑞樹が繰り広げる華やかな論戦の場ではない。
この永田町という名の魔窟の、もっと深く、暗い場所だ。
そして、倒すべきラスボスは、日本の中枢に陣取り、柔和な仮面を被った、あの男――伊達 正宗。
その途方もない事実に、陸は恐怖よりも先に、一種の武者震いを覚えていた。
上等だ。
どんなクソゲーだろうと、エンディングまで付き合ってやる。
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