第29話:観測衛星『目』の独白
辞職勧告決議案が上程される本会議まで、あと二日。
セーフハウスの重い空気の中、陸は一つの決意を固めていた。遠藤圭介と、直接、対峙する。この戦いを次のステージに進める前に、どうしても、自らの手で決着をつけなければならない問題だった。
陸は慎重に準備を進めた。橘と浅野には、あえて知らせなかった。これは、父が信頼し、そして自分も信じようとした男との、自分一人でケリをつけるべき問題だったからだ。
陸は、事務所の自席にいる遠藤に、個人の携帯から電話をかけた。
「遠藤さん、今夜、話があります。二人きりで。多摩川の河川敷、六郷橋の下で待っています」
電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。全てを察したかのような、重い沈黙。
『……分かりました』
遠藤もまた、覚悟を決めたようだった。
その夜、多摩川の河川敷は、まとわりつくような夏の夜の空気に包まれていた。川面を渡る生ぬるい風が、遠い対岸の工場の灯りを揺らしている。
橋の下の暗がりに、遠藤は一人で現れた。
「あなたに、見せたいものがあるんです」
陸は、スマートフォンの画面を遠藤に向けた。そこに映し出されているのは、ギルド『蝉時雨』の、あの書き込みだった。『【緊急・最優先】】】ターゲット、坂井の身元特定……口封じを要請する』
投稿者名は、観測衛星『目』。
遠藤の表情が、初めて凍り付いた。完璧なポーカーフェイスに、初めて、明確な亀裂が入る。
「なぜ……あなたが、これを……」
「なぜ裏切ったんですか、遠藤さん」
陸の声は、静かだった。だが、その静けさの中には、裏切られた怒りと、深い悲しみが込められていた。
「父は、あなたのことを『最高の盾だ』と、誰よりも信頼していた。俺も……俺も、あなたを信じていた。なのに、なぜ!」
遠藤は、数秒間、黙り込んだ。そして、ふっと、まるで憑き物が落ちたかのように、全ての表情を消した。
「……生ぬるいからです」
「生ぬるい? 父が?」
「そうです」
遠藤の声には、冷たい軽蔑が宿っていた。
遠藤は、夜の川面を見つめながら、独白を始めた。
「私は、この国を本気で憂いていた。エンジニアとして、官僚として、日本の技術が世界から遅れ、政治家たちが目先の利権争いに明け暮れる姿に、心底絶望していた。そんな時、高遠誠二という政治家に出会った。彼こそが、この腐りきった国を変えてくれる唯一の希望だと、私は信じた。だから、全てを捨てて、彼の元に馳せ参じたのです」
彼の声には、かつての純粋な理想が、確かに宿っていた。
「だが、彼も同じだった! 彼は、古いしがらみや、派閥の論理から、決して抜け出すことができなかった。クリーンな政治家? 違う! 彼もまた、巨大なシステムの、都合の良い歯車の一つに過ぎなかった。私は、彼に幻滅したんです」
遠藤は、ゆっくりと陸に向き直った。その目は、狂信的な光で、爛々と輝いていた。
「そんな時、私に接触してきたのが、伊達官房長官だった。彼は、言った。『この国を本当に変えるには、一度、完全に破壊し、更地にしてから、作り直すしかない。そのためには、外の力…中国の力すら、利用する』と。彼の思想は、過激だ。だが、この淀みきった国をリセットするには、それしかないと、私は確信した。高遠誠二は、ただの改良主義者だ。伊達官房長官こそが、真の革命家だ。私は、より大きな『正義』のために、彼を選んだ!」
金のためではない。弱みを握られたわけでもない。ただ、自らの歪んだ「正義」と「愛国心」のために、彼は国を、そしてかつての主君を、裏切ったのだ。
その独善的な思想に、陸は戦慄した。
「……あんたがやっていることは、ただの国家反逆罪だ」
「歴史が、それを革命と呼ぶでしょう」
遠藤は、そう言い残すと、陸に背を向け、闇の中へと歩き去ろうとした。
だが、彼は一度だけ立ち止まり、振り返った。
「陸さん、一つだけ言っておきます」
その声には、ほんのわずか、人間らしい感情が混じっているように聞こえた。
「あなたの父上は……最後まで、この国を愛していました。その点だけは、私も認めます」
それが、陸が見た、遠藤圭介の最後の姿だった。
セーフハウスに戻った陸は、一睡もできなかった。遠藤の狂信的な目が、脳裏から離れない。
(俺は、正しかったのか? 彼を追い詰めることが……)
後悔と、これから為すべきことの重圧が、陸の心を押し潰そうとしていた。
やがて、ブラインドの隙間から、朝日が差し込み始めた頃。つけっぱなしにしていたテレビから、無機質なチャイムと共に、臨時ニュースが流れた。
アナウンサーが、緊張した面持ちで原稿を読み上げる。
「……本日未明、多摩川の河川敷で、男性の遺体が発見されました。身元は、衆議院議員・高遠 陸氏の政策秘書、遠藤圭介さんと判明。警視庁は、現場の状況から、自殺の可能性が高いと見て、捜査を進めています……」
陸は、言葉を失って、画面を見つめていた。その時、仮眠室から出てきた橘が、ニュースを見て、顔色を変えた。
彼は、すぐさま情報収集を始めた。いくつかの情報源に電話をかけ、短い言葉を交わしていく。そして、受話器を置くと、厳しい顔で陸に言った。
「発見時刻は午前4時。死亡推定時刻は深夜2時頃。陸、お前が奴と別れてから、約3時間後だ」
「……つまり」
「ああ」
橘は、断定した。
「俺たちのどちらかが、尾行されていた。そして、遠藤は、用済みとして『処理』されたんだ」
口封じ。その冷酷な事実に、陸は全身から血の気が引いていくのを感じた。
遠藤は、自らの陣営に、消されたのだ。
自分が、彼の死の引き金を引いてしまった。その重い現実が、陸の肩にのしかかる。そして、敵の非情さと、すぐそこまで迫っている、自らの死の気配を、肌で感じていた。
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