第26話:『鷹』の圧力
二世代スパイの衝撃的な真実を知ってから、五日が経過していたが、今だに空気は張り詰めていた。
父が遺した興信所の報告書。それは、綾小路誠之介という男の、おぞましい正体を暴き出す、決定的な証拠だった。
「この報告書は、綾小路の『動機』を証明する、最強のカードだ」
橘は、ホワイトボードに書かれた綾小路の名前を指で叩いた。
「だが、奴を社会的に、法的に完全に抹殺するには、この報告書と、今、俺たちに降りかかっている火の粉を、直接結びつける証拠がいる。お前の潔白を証明し、奴らが『現在進行形』で犯罪に手を染めていることを、白日の下に晒すんだ」
陸は、固く頷いた。
「俺の潔白を証明する証拠は、三つ必要です」
陸は、ホワイトボードに、新たな文字を書き出した。
「一つ、橘さんの逮捕が、伊達官房長官の圧力による、不当なものであったことの証明」
「二つ、その罠を実行した男が、瑞樹の息のかかった人間であることの証明」
「そして三つ、俺たちのチームの『目』…遠藤が、その陰謀に加担していたことの証明」
三つの証拠。その全てが揃った時、初めて反撃の狼煙は上がる。
「一つ目の証拠は、俺に心当たりがある」
橘は、そう言うと、懐からあの使い捨てのプリペイド携帯を取り出した。
「俺を釈放に追い込んでくれた、公安内部の『名もなき役人』。あいつが、最後の置き土産をくれるかもしれねえ」
橘は、その携帯から、一度だけ使った暗号化通信アプリを起動した。そして、短いメッセージを送る。
『礼を言う。だが、まだ足りない。伊達の「声」が、直接聞こえる証拠が欲しい』
しかし、返信は来なかった。
半日が過ぎ、一日が過ぎても、携帯は沈黙を続けた。セーフハウスの空気は、日に日に重くなっていく。
「……ダメか。俺たちの存在がバレて、手を引いたのかもしれねえな」
橘は、テーブルに置かれたままの携帯を睨みつけ、吐き捨てた。陸も、浅野も、言葉を発することができなかった。最後の希望が、絶たれようとしていた。
その時、陸の携帯が震えた。浅野からのメッセージだった。
『遠藤が先ほどから頻繁に個人の携帯で通話しています。相手は不明ですが、様子がおかしいです。何か焦っているように見えます』
陸は、メッセージを橘に見せた。
「遠藤の野郎、何を企んでやがる」
橘の表情が険しくなる。
重苦しい空気の中、気晴らしにつけたテレビの討論番組が流れていた。そこには、「蝉」の一人だと特定した、大物経済評論家の関根恭一が出演していた。
関根は、いつものように巧みな弁舌で「中国との連携こそが、今後の日本の経済を救う唯一の道だ」と語る。
だが、その時。これまでなら相槌を打つだけだったはずの、対立陣営の若手エコノミストが、鋭く切り返した。
「関根先生のおっしゃる経済指標には、意図的なデータの切り取りが見られます。こちらの最新の統計によれば、先生の理論はすでに破綻している」
若手エコノミストは、具体的なデータをスクリーンに映し出し、公然と反論したのだ。不意を突かれた関根は、一瞬、狼狽し、しどろもどろになる。それは、ほんの数秒の出来事だったが、陸と橘は見逃さなかった。
「……見たか、陸」
橘が、わずかに口の端を上げた。
「奴らの完璧な情報統制に、ほんの少しだが、穴が開き始めた。風向きが、変わりつつあるのかもしれねえ」
その小さな綻びが、陸たちの心に、まだ希望は捨ててはいけない、と微かな勇気を与えた。
翌日、陸は、辞職勧告の件で弁護士と会うため、やむを得ずセーフハウスを出て、人通りの多い新宿へ向かった。橘も、目立たないように後方から彼を援護する。
打ち合わせを終え、駅のコンコースの雑踏の中を歩いていると、向かいから来た一人のサラリーマン風の男が、不自然なほど強く、陸の肩にドンッとぶつかってきた。
「すみません」
男は、感情の読めない目で陸を一瞥すると、謝罪の言葉とは裏腹に、すぐに人混みの中へと消えていった。
陸は、舌打ちしながらジャケットの乱れを直した。しかし、その時、彼はポケットの中に、今までなかったはずの、小さな硬い感触があることに気づいた。
彼は、すぐにトイレの個室に駆け込み、ポケットの中を探った。そこに入っていたのは、キーホルダーも何もついていない、剥き出しの、一本の小さなUSBメモリだった。
陸は、息を呑んだ。『名もなき役人』は、デジタルな返信が危険だと判断し、スパイ映画さながらのやり方で、最後の証拠を託してきたのだ。
セーフハウスに戻った陸は、橘にUSBメモリを見せた。
「……とんでもねえ野郎だ、あんたの味方は」
橘は、呆れと感心が入り混じった顔で言うと、スタンドアロンのPCを起動した。
「ウイルスかもしれねえ。慎重に開けるぞ」
USBの中には、一つの暗号化された音声ファイルと、短いテキストファイルが入っていた。
橘がテキストファイルを開くと、そこにはこう記されていた。
『これが最後だ。君たちが失敗すれば、私も終わる。だが、この国に正義が残っていることを、私は信じたい』
音声ファイルの名前は『KOKUTAI(国体)』。
遠藤がいない今、解析できるのは橘だけだった。彼は、自前の解析ソフトを使い、幾重にもかけられたプロテクトを、時間をかけて解除していく。
そして、ついに、音声ファイルが開かれた。
橘は、まずヘッドフォンでその中身を確認した。彼の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。
「電話の録音だな。おそらく、公安内部の誰かが、危険を承知で録音したんだろう」
橘は分析した後、ヘッドフォンを外すと、陸に「……心して聞け」とだけ言った。
再生ボタンが押される。スピーカーから流れ出したのは、少しノイズの混じった、生々しい電話の音声だった。
『――桐生だ。例の件、どうなっている』
伊達の首席秘書官・桐生の声。氷のように冷たい。
『……現在、対象(橘)の内偵を進めておりますが、贈収賄に繋がるような、決定的な証拠はまだ…』
警視庁公安部、通称『鷹』の幹部の、歯切れの悪い声が続く。
『まだだと? 時間がないと言ったはずだ。高遠の息の根を完全に止めるには、あのジャーナリストの口を封じるのが、一番手っ取り早い』
『しかし、強引な手法は、後々、問題になる可能性が…』
『問題? 問題だと?』
桐生の声が、一瞬で怒気を含んだ。
『これは、官房長官直々のご指示だ。いいね? 上からの、ご指示だ。あの男が、高遠の件でこれ以上嗅ぎ回るようなら、国益を損なう。これは、『国体護持』のためだ。適当な罪状をでっち上げて、至急、『処理』しろ。分かったな?』
『…………承知、いたしました』
音声が、途切れた。
部屋には、エアコンの低い唸り声だけが響いている。
陸は、全身の血が逆流するような、激しい怒りに襲われていた。
橘の逮捕は、単なる謀略ではなかった。国家の治安を守るべき公安警察が、官邸の意向一つで、一人のジャーナリストを、社会的に抹殺しようとしたのだ。
「……これが、奴らのやり方か」
橘が、静かに言った。その声は、怒りを通り越して、どこか哀しげに響いた。
陸は、ホワイトボードを見つめた。そこには、父の写真が貼られている。
(父さん、あなたが戦っていた相手の正体が、少しずつ見えてきました)
陸は、ホワイトボードに書き出した、一つ目の項目に、赤いマーカーで、力強くチェックを入れた。
☑ 圧力の証拠
「橘さん」
陸は、顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。
「二つ目の証拠を、取りに行きましょう。橘さんを罠に嵌めた、あの男。……瑞樹の『蝉』として動いている証拠を」
その時、陸の携帯が再び震えた。浅野からの続報だった。
『遠藤の通話相手が判明しました。瑞樹議員の事務所の番号です。何か、大きな動きがあるかもしれません。お気をつけください』
陸と橘は、顔を見合わせた。敵も、また動き始めている。時間との戦いが、始まろうとしていた。
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