第24話:二世代の裏切り
セーフハウスの空気が、重く淀んでいた。
壁一面に広げられたホワイトボードの中央に、一枚の写真がマグネットで留められている。父・高遠誠二と綾小路誠之介が、満面の笑みで肩を組んでいる、今から二十年前の写真だった。
二人とも、まだ四十代。政界の若手ホープとして、日本の未来を背負って立つ気概に満ちていた頃の一枚だ。
その笑顔が、今は不気味な仮面のように見えた。
「親友を、殺す……?」
陸は、写真を睨みつけながら、絞り出すように言った。拳を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みが、これが現実であることを教えていた。
「一体、なぜだ。金か? 権力か? あの人に、これ以上の何が必要だっていうんだ……」
窓の外では、八月の残暑が容赦なく照りつけている。だが、陸の背筋を、冷たい汗が流れ落ちていった。
橘が、煙草に火をつけた。紫煙が、天井に向かってゆらゆらと立ち上る。
「動機だ」
橘は、煙を吐き出しながら、低い声で言った。その目は、獲物を狙う猟犬のように鋭い。
「俺たちがまだ掴んでいないもの。それは、綾小路が親友を裏切ってまで、国を売るに至った、決定的な動機だ」
橘は、煙草を灰皿に押し付けた。ジュッという音が、静かな部屋に響く。
「奴の人生を、生まれた時から、根こそぎ丸裸にするしかねえ」
三人の視線が、ホワイトボードの中央に書き出された、一つの名前に集まった。黒いマジックで太く書かれたその名前が、まるで宣戦布告のように見える。
『綾小路 誠之介』
翌朝、セーフハウスに集まった三人は、調査方針を決めた。
浅野は議員事務所に残り、遠藤の監視を継続しながら、綾小路派の金の流れを再調査する。陸と橘は、綾小路の「過去」を洗うことになった。
「浅野さん」
陸は、事務所に戻る前の浅野を呼び止めた。朝の光が、彼女の横顔を照らしている。
「父と綾小路先生が、若い頃に一緒に写っている写真はありませんか? どんな些細なものでも構いません」
浅野は、少し考えてから頷いた。
「承知いたしました。誠二先生のアルバムなら、全て保管してあります。個人的な写真も含めて、段ボール三箱分はあるはずです」
「お願いします。特に、二人が政界入りする前後の写真があれば」
陸の真剣な表情に、浅野の顔も引き締まった。
「必ずお探しします。夕方までには、お届けできるかと」
その日の夕刻、浅野から厳重に封をされた書類ケースが届いた。
セーフハウスのテーブルに、陸と橘は向かい合って座った。ケースを開けると、年代順に整理された古いアルバムが、五冊収められていた。表紙には、浅野の几帳面な字で、撮影年代が記されている。
「さすが浅野さんだ」
橘が感心したように呟いた。
陸は、一番古いアルバムから手に取った。表紙を開くと、かび臭い匂いと共に、色褪せた写真が現れる。
若き日の父が、そこにいた。
まだ三十代前半。髪も黒々として、目には理想に燃える光が宿っている。その隣には、必ずと言っていいほど、綾小路誠之介がいた。
派閥の会合、選挙事務所、料亭での宴席。どの写真でも、二人は親しげに語り合い、時には腹を抱えて笑っている。
「本当に、親友だったんだな」
陸の声には、やりきれない思いが滲んでいた。
橘は、黙々と写真を調べ続けた。虫眼鏡を使い、背景に写り込んだ人物や、看板の文字まで、丹念にチェックしていく。
一時間、二時間と時間が過ぎた。窓の外は、すっかり暗くなっている。デスクライトの光だけが、二人の手元を照らしていた。
「……待て」
突然、橘が手を止めた。その声には、獲物を見つけた猟犬のような緊張感があった。
「おい、陸、これを見ろ」
橘が指差したのは、四十年近く前の一枚の集合写真だった。場所は、都内の中国大使館。日中友好促進パーティーの様子を写したものらしい。
写真の中央には、若き日の父と綾小路が並んでいる。そして、その後ろに、もう一人の人物がいた。
「綾小路の親父だ」
橘の指が、威厳に満ちた初老の男性を指した。綾小路源一郎。当時、大物政治家として名を馳せていた人物だ。
だが、橘が注目していたのは、その源一郎と親しげに談笑している、一人の中国人男性だった。写真の隅に小さく写っているが、二人の距離の近さは明らかだった。
「この中国人の顔……」
橘は、眉間に皺を寄せた。記憶の糸を手繰るように、じっと写真を見つめる。
「見覚えがある……」
その時、陸の携帯が震えた。画面を見ると、浅野からのメッセージだった。
『写真の整理、進んでいますか? 何かお手伝いできることがあれば』
陸は、ふと思いついて電話をかけた。
「浅野さん、ちょうど良かった。一つ聞きたいことが」
『はい、何でしょう』
「父は、綾小路先生のことを話す時、何か変わったことを言ってませんでしたか? 些細なことでも」
電話の向こうで、浅野が考え込む気配がした。
『そういえば……』
浅野の声が、記憶を辿るように続いた。
『一度だけ、お酒を召し上がった時に、妙なことを。「誠之介は親父さんの影から出られない」と。でも、すぐに話題を変えられました。私も、親子仲の話かと思って、深く考えませんでしたが』
「親父さんの影……」
電話を切った後、陸は改めて写真を見直した。すると、今まで気づかなかったことが見えてきた。
「橘さん、これ見てください」
陸は、複数の写真を並べた。
「どの写真でも、綾小路先生は必ず源一郎氏の隣にいる。それも、微妙に後ろ、まるで……」
「まるで、『管理』されてるみたいだな」
橘も気づいた。パーティー会場でも、会議でも、常に源一郎が息子の位置を把握できる配置。それは親子の情愛というより、何か別の関係性を示唆していた。
橘は、自身のノートパソコンを開いた。パスワードを入力し、暗号化されたフォルダを開く。そこには、橘が長年の取材活動で集めた、各国諜報機関の人物データベースが収められていた。
「確か、八十年代の東京駐在員リストに……」
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。画面には、次々と顔写真が表示されていく。そして――
「いた」
橘の顔が、青ざめた。
画面に表示された人物と、写真の中国人は、同一人物だった。
「陳建明。表向きは文化担当参事官。だが、実際は……」
橘は、データを読み上げた。
「中国国家安全部第二局、対日工作責任者。八十年代、東京で最も活発に活動していた工作員の一人だ」
陸の背筋に、冷たいものが走った。
綾小路の父親と、中国の諜報員との繋がり。それも、ただの外交儀礼ではない。写真が物語る二人の親密さは、明らかに個人的な関係を示していた。
「それに、この配置……」
陸は、写真を指差した。
「源一郎氏が中国側と話している間、誠之介は必ず傍にいる。まるで『見習い』のように」
「親父さんの影から出られない……か」
橘が、浅野の言葉を繰り返した。
「単なる親子関係じゃねえ。これは『教育』だ。それも、普通じゃない何かの」
陸は、写真を見つめながら考えた。父は、この異常な親子関係に気づいていた。だからこそ、綾小路本人だけでなく、その源流まで遡る必要があると判断したのだ。
「だが」
橘は、悔しそうに言った。
「これだけじゃ、息子の誠之介が裏切り者だという、決定的な証拠にはならねえ。親父が中国と繋がってたからって、息子もそうだとは限らない」
「でも、父は確信を持っていた」
陸は、写真を見つめながら言った。
「『親父さんの影から出られない』という言葉。そして、この異常な密着ぶり。父は、源一郎が誠之介に何かを『継承』させていると見抜いたんだ」
陸は、携帯電話を取り出した。浅野の番号を押す。
呼び出し音が三回鳴った後、浅野の声が聞こえた。
『はい、浅野です』
「浅野さん、夜分すみません。単刀直入に聞きます」
陸は、深呼吸をしてから続けた。
「父が、本当に大事な書類を隠す場所を知りませんか? 書斎以外に」
電話の向こうで、浅野が息を呑む気配がした。長い沈黙が流れる。
『……一つだけ、心当たりがございます』
浅野の声は、慎重だった。
『誠二先生は、ご実家……つまり、陸さんのお祖父様の家の、古い蔵に、本当に重要な書類を保管されていました』
「蔵?」
『はい。先生は、よくおっしゃっていました。「一番見つかってはならないものは、一番古く、誰も気にしない場所に隠すのが一番だ」と』
陸と橘は、顔を見合わせた。
翌朝、まだ朝靄が立ち込める中、陸と橘は車で都心を出発した。
目的地は、都心から車で三時間。関東平野の外れにある、父の実家だった。陸自身、祖父の葬式以来、十年以上訪れていない場所だ。
高速道路を降り、田園風景の中を走る。稲穂が風に揺れ、遠くに山並みが見える。都会の喧騒から離れるにつれ、時間の流れまでもがゆっくりになっていくようだった。
「親父さんは、ここで育ったのか」
橘が、窓の外を眺めながら言った。
「ええ。大学入学まで、ここにいたそうです」
陸は、かすかな記憶を辿った。
「子供の頃、夏休みに何度か来ました。蔵で、かくれんぼをした覚えがあります」
あの頃は、まだ家族が普通に笑い合っていた。父も母も健在で、陸は何の疑いもなく、幸せな日々が永遠に続くと信じていた。
「着きました」
陸がハンドルを切ると、砂利道の奥に、古い日本家屋が見えてきた。
蟬時雨が降り注ぐ中、二人は車から降りた。
緑深い庭の奥に、その家はひっそりと佇んでいた。白壁に瓦屋根の、昔ながらの農家造り。玄関には、「高遠」と書かれた古い表札がかかっている。
「管理人さんには、連絡してあります」
陸が説明した。
「月に一度、掃除に来てもらっているだけなので、中は埃っぽいかもしれません」
家の裏手に回ると、白壁の大きな蔵があった。重厚な観音開きの扉は、年月を経て、所々に染みができている。
「鍵は?」
「かかっていないはずです。貴重品は、全て東京に移しましたから」
陸が扉に手をかけた。ぎい、と重い音を立てて、扉が開く。
中から、ひんやりとした空気が流れ出してきた。埃と、古い木の匂い。そして、どこか懐かしい、時間が止まったような空気。
陸が懐中電灯をつけた。光の輪が、蔵の中を照らし出す。
天井まで届く棚には、古い家具や、先祖代々の品々が並んでいた。桐の箱、漆塗りの重箱、巻物が入った竹筒。どれも、埃をかぶって眠っている。
「宝探し、といきたいところだがな」
橘が、天井に張られた蜘蛛の巣を払いながら言った。その声が、静かな蔵の中で微かにこだました。
「手分けして探しましょう」
二人は、蔵の両端から、丹念に調べ始めた。
棚を一つ一つ確認し、箱を開け、中身を調べる。だが、出てくるのは古い着物や、色あせた写真、使い古された農具ばかりだった。
三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。蔵の中は薄暗く、夏だというのに肌寒い。陸の額には、緊張の汗が浮かんでいた。
もしかしたら、何もないのかもしれない。父は、別の場所に隠したのかもしれない。そんな不安が、胸をよぎる。
その時だった。
「陸、こっちだ」
橘の声が、蔵の奥から聞こえた。
陸が駆け寄ると、橘は蔵の最も奥まった場所にある、古い長持の前にしゃがみ込んでいた。
「この長持、他のと違って、最近開けられた形跡がある」
確かに、蓋の周りの埃が、不自然に払われていた。
二人で蓋を開ける。中には、古い着物や布団が入っていた。だが、橘はそれらを慎重に取り出していく。
そして、長持の底に、陸は見つけた。
黒い革製の、小さな手提げ金庫。
「これだ……!」
陸の手が震えた。間違いない。これが、父が隠した「パンドラの箱」だ。
だが――
「鍵がかかってる」
橘が、金庫を調べながら言った。頑丈な作りで、こじ開けることは不可能だ。
陸は、金庫を見つめた。父なら、鍵をどこに隠すだろうか。
その時、陸の胸ポケットが、微かな重みを主張した。
父の形見として、常に持ち歩いている万年筆。モンブランの最高級品で、父が大臣就任時に、綾小路からプレゼントされたものだ。
皮肉なものだ、と陸は思った。裏切り者からの贈り物に、秘密が隠されているとしたら。
陸は、万年筆を取り出した。重厚な黒い軸に、金のクリップ。キャップを回すと、通常ならインクカートリッジが見えるはずだ。
だが、陸は気づいていた。この万年筆は、妙に重い。
キャップを完全に外し、さらに軸の部分を回す。すると――
カチャリと音がして、小さな金属片が転がり落ちた。
細工の施された、小さな鍵だった。
「親父……」
陸は、鍵を握りしめた。父は、最後まで用意周到だった。そして、息子である自分を信じて、この鍵を託したのだ。
震える手で、鍵を金庫に差し込む。カチリという音と共に、金庫が開いた。中には、一冊の分厚いファイルだけが入っていた。黒い表紙に、金文字でこう記されている。
『興信所 極秘調査報告書:対象 綾小路源一郎・誠之介』
陸と橘は、顔を見合わせた。
父は、綾小路本人だけでなく、その父親にまで調査の手を広げていたのだ。
「ここじゃ暗い。外に出よう」
橘の提案で、二人は蔵を出た。庭の縁側に腰を下ろし、陸は報告書を開いた。蝉の声が、夏の午後の静寂を破っている。
最初のページには、調査を依頼した日付が記されていた。今から三年前。父が、綾小路への疑念を抱き始めた時期と一致する。
ページをめくる。そこには、綾小路源一郎の経歴が、詳細に記されていた。出生、学歴、政治家としての軌跡。そして――
「見ろ、これを」
陸の指が、ある箇所で止まった。
『1981年より、頻繁に訪中。表向きは日中友好議員連盟の活動だが、実際の行動は不明な点が多い』
さらにページをめくる。金の流れ、交友関係、そして中国との関係が、執拗なまでに調査されていた。
特筆すべきは、源一郎と誠之介の異常なまでに密接な関係だった。
『源一郎氏は、長男・誠之介氏を常に同行させ、中国要人との会合に同席させている。これは一般的な親子関係を超えた、何らかの「訓練」と推測される』
陸は、浅野の言葉を思い出した。「親父さんの影から出られない」――父の直感は、正しかったのだ。
興信所の調査員は、命がけで情報を集めたのだろう。ところどころに、「情報提供者A」「政府内部関係者B」といった記述が見られる。
そして、報告書の中盤。陸の目が、一つの写真に釘付けになった。
それは、北京で隠し撮りされたと思われる、不鮮明な写真だった。ホテルのロビーで、綾小路源一郎が、数人の中国人と密談している様子が写っている。
写真の下には、こう注釈があった。
『1983年6月、北京。中国国家安全部幹部との極秘会合。録音は不可能だったが、「友情的橋梁」という単語が複数回確認された』
「友情の橋……」
陸と橘は、同時に呟いた。
報告書は、さらに続く。綾小路源一郎の不審な行動、説明のつかない収入、そして息子・誠之介への「教育」の異常さ。
全てが、一つの恐ろしい仮説に収斂していく。
だが、決定的な証拠は、報告書の最後に待っていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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