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【国家反逆罪】ボンボン二世議員、政界の闇に立ち向かう  作者: 九条ケイ・ブラックウェル
第一章「永田町の死角」
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第23話:父のカルテ

アスファルトを叩きつけるような蝉時雨が、低く響いている。八月の東京は、まるで巨大な蒸し器の中にいるようだった。じっとりと汗ばむ首筋を、生ぬるいエアコンの風が撫でていく不快感に、陸は顔をしかめた。

窓の外では、真夏の太陽が容赦なく照りつけている。だが、この部屋の中の空気は、外の暑さとは別の重苦しさに満ちていた。

陸は、テーブルを挟んで向かい合う浅野恭子の顔を、じっと見つめた。彼女の瞳には、覚悟の色が宿っている。今から告げる真実が、彼女の世界を根底から覆すことを、陸は知っていた。


「浅野さん」

陸の声は、静かだが重かった。

「これから話すことは、信じがたいかもしれません。でも、全て真実です」

浅野は、背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねた。その指先が、かすかに震えているのを、陸は見逃さなかった。


「遠藤が、敵の『目』です」

その瞬間、浅野の顔から血の気が引いた。瞳孔が開き、唇が小さく震える。彼女は何か言おうとして口を開いたが、声にならない。

「そんな……」

ようやく絞り出した声は、かすれていた。

「遠藤さんが……あの、いつも冗談ばかり言って、でも仕事は誰よりも真面目で……」

浅野の目に、涙が浮かんだ。それは悲しみなのか、怒りなのか、それとも裏切られたショックなのか。おそらく、その全てだった。


陸は続けた。瑞樹が中国によって作られた『幽霊』であること。そして、父が遺した三重の戦場の存在。一つ一つの真実が明かされるたびに、浅野の表情が変化していく。驚愕、恐怖、そして最後には、静かな怒りへと。


長い沈黙が流れた。エアコンの低い唸り声と、遠くから聞こえる蝉の声だけが、部屋に響いている。

やがて、浅野は深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、もう迷いはなかった。

「……承知いたしました」


彼女は、深々と頭を下げた。その動作は、まるで侍が主君に忠誠を誓うかのように、凛としていた。

「あの人が……遠藤さんが、裏切り者。信じがたいですが、陸さんがそうおっしゃるなら、そうなのでしょう。これより、私は陸さんの、ただの手足ではありません。共に戦う、同志です」

浅野は顔を上げ、陸の目をまっすぐに見つめた。

「誠二先生の無念を晴らすため、この身、いかようにもお使いください」

その言葉に、陸は力強く頷いた。隣で聞いていた橘も、満足げに腕を組む。

陸、橘、そして浅野。ここに、裏切り者のいない、真のチームが結成された瞬間だった。三人の間に、言葉にならない絆が生まれたのを、全員が感じていた。そして、父の最期への疑問も。


翌朝、セーフハウスの空気は昨日とは打って変わって引き締まっていた。テーブルの上には、父・誠二に関する資料が山のように積まれている。新聞の切り抜き、公式発表、医療記録のコピー。

陸は、父の死亡診断書を手に取った。『心不全』の文字が、まるで嘲笑うかのように見える。

「これほど巨大な陰謀に気づいていたのなら、なぜ、父はあんなにもあっさりと……」


陸の声には、苦渋が滲んでいた。

「『心不全』などという、あまりに平凡な死を迎えたのか」

橘が、煙草に火をつけながら口を開いた。

「確かに妙だ。お前の親父さんほどの切れ者が、無防備に死ぬはずがない」

浅野も、眉間に皺を寄せて資料を見つめている。

「誠二先生は、亡くなる数ヶ月前から、ひどくお疲れのご様子でした……」


彼女は、記憶を辿るように目を閉じた。

「そういえば、あの頃から、先生は定期的にどこかへ出かけられるようになりました。秘書の私にも、行き先を告げずに」

「どこへ?」

陸が身を乗り出した。

浅野は、手帳を取り出し、過去のスケジュールを確認する。指でページを辿りながら、ある日付で手を止めた。


「ここです。綾小路議員からのご紹介で、赤坂の高級クリニックに通い始められました。政治家御用達の、完全予約制の場所です」

綾小路。父の盟友にして、最も信頼していた人物。陸の脳裏に、父と綾小路が肩を組んで笑っている写真が浮かんだ。


三日後の午後、橘が興奮した様子でセーフハウスに駆け込んできた。真夏の日差しの中を走ってきたのか、額には汗が光っている。

「陸、大変なことが分かった」

橘は、鞄から分厚い資料を取り出した。医学専門用語が並ぶ、素人には理解困難な文書。

「医療関係の知り合いに、親父さんの処方薬を調べてもらった。そうしたら……」

橘の表情が、みるみる険しくなる。

「このクリニックで処方されてた精神安定剤、それ自体は普通の薬だ」

彼は、資料の一部を指差した。

「だが、お前の親父さんが長年、心臓の持病で服用していた薬と、こいつを併用すると……極めて高い確率で、致死性の重い不整脈を引き起こす。医学界じゃ、禁忌中の禁忌とされてる組み合わせだ」

陸の手が、震え始めた。資料を掴む指に力が入る。紙が皺になる音が静かな部屋に響いた。


「父は……毒を盛られていた」

その言葉を口にした瞬間、陸の中で何かが弾けた。怒り、悲しみ、後悔。様々な感情が、濁流のように押し寄せてくる。


父は、知っていたのだろうか。自分が少しずつ殺されていることに。もし知っていたとしたら、なぜ何も言わなかったのか。なぜ、息子の自分に、何も……。


翌日の朝、陸と橘は赤坂の高級クリニックに向かった。八月の太陽は容赦なく、アスファルトから立ち上る陽炎が、景色を歪ませている。

クリニックは、表参道から一本入った静かな通りにあった。ガラス張りの瀟洒な建物は、一見すると高級ブティックのようだ。自動ドアをくぐると、冷えた空気と消毒液の匂いが鼻を突く。

受付で名刺を出し、田所医師との面会を求める。待合室で待つこと十五分。ようやく診察室に通された。

田所は、五十代半ばの小太りの男だった。高級そうなスーツに身を包み、愛想の良い笑顔を浮かべている。だが、その目は笑っていない。

「高遠誠二先生のご子息ですね。お父様のことは、本当に残念でした」

田所の声には、形式的な哀悼の意しか感じられなかった。


陸は、単刀直入に切り出した。

「田所先生。あなたが、私の父にこの薬を処方しましたね」

処方箋のコピーを、田所の目の前に置く。田所の眉がピクリと動いた。

「これは、一体どういうことです?」

しかし、次の瞬間、田所の表情は余裕に満ちたものに変わった。彼は、ゆっくりとパソコンの画面を陸たちの方に向ける。

「ご覧ください。私が処方したのは、こちらの安全な精神安定剤です」

画面には、別の薬品名が表示されていた。

「もし高遠先生が飲んでいた薬が違うものだったとしたら、それは調剤した薬局のミスではないですか?」


田所は、白衣の胸ポケットから眼鏡を取り出し、ゆっくりとかけた。

「私を殺人犯のように疑うとは、心外だ。証拠もなしに、医師を脅迫するおつもりですか?」

その余裕綽々の態度に、橘が舌打ちをした。陸も、拳を握りしめる。今は、引き下がるしかない。

クリニックを出た二人は、灼熱の太陽の下、しばらく無言で歩いた。


「くそっ」

橘が、苛立たしげに呟いた。

「デジタルの記録なんて、いくらでも改竄できる。だが、必ず尻尾を掴んでやる」


それから一週間、橘は田所の身辺を徹底的に洗った。朝から晩まで、時には深夜まで、執念の調査が続く。そして、ついに橘は重要な情報を掴んだ。セーフハウスに戻った橘は、疲労の色を濃く浮かべながらも、目は獲物を狙う獣のように光っていた。

「田所の野郎、多額のギャンブル負債を抱えてる。それも、半端な額じゃない」

橘は、調査資料をテーブルに広げた。

「さらに面白いことが分かった。親父さんの政策で公共事業を潰された反社会的勢力『黒龍会』と、密かに接触を繰り返してたんだ」

陸の目が、鋭く光った。

「それでも、まだ証拠が足りない」

橘は、テーブルを拳で叩いた。

「デジタルの記録は改竄できる。だがな、法律で保管が義務付けられている『紙』の記録は、そう簡単には消せないはずだ」


彼は、立ち上がった。

「処方箋を調剤した薬局を落とす。俺が、必ず証拠を掴んでくる」

橘が特定した薬局は、赤坂の一等地にある大手チェーンだった。ガラス張りの店舗は、清潔感に溢れ、白衣の薬剤師たちが忙しく立ち働いている。最初、橘は正面から取材を申し込んだ。だが、予想通り、「守秘義務」の一点張りで、にべもなく追い返された。

だが、橘は諦めなかった。

翌日から、彼は薬局の向かいにある喫茶店に陣取った。朝の開店から夜の閉店まで、来る日も来る日も、薬局を観察し続ける。コーヒーを何杯も飲み、ノートに薬剤師たちの特徴を書き込んでいく。

三日目には、薬剤師たちの顔と名前が一致するようになった。五日目には、彼らの性格や勤務パターンまで把握した。そして一週間後、橘はターゲットを一人に絞った。

山田という名の、まだ三十代前半の男性薬剤師。真面目そうな顔立ちで、患者への説明も丁寧だ。何より、その目の奥に、まだ理想の光が消えていないのを、橘は見逃さなかった。

橘は、山田の退勤時間を見計らい、最寄りの駅で待ち伏せた。夕暮れ時の駅は、仕事帰りのサラリーマンでごった返している。

「突然すみません」

橘は、山田の前に立ちはだかった。

「私、ジャーナリストの橘と申します。高遠誠二元大臣の、最後の処方箋について、調べています」

山田の顔に、明らかな警戒の色が浮かんだ。彼は、橘から距離を取ろうとする。

「守秘義務がありますので」

「分かっています。でも、あなたも薬剤師として、あの処方箋に違和感を覚えませんでしたか?」

橘の言葉に、山田の足が止まった。

「医師の処方を、薬剤師が疑うことはありません」

だが、その声には、わずかな迷いが含まれていた。橘は、そこに賭けた。

「本当にそうですか? あなたは、プロフェッショナルだ。危険な薬の組み合わせを見逃すはずがない」

山田の表情が、わずかに曇った。

「ただの医療ミスで片付けて、本当にいいんですか。一人の偉大な政治家が、不審な死を遂げたというのに」

橘は、一歩前に出た。駅の雑踏の中で、二人だけの世界が生まれる。

「このまま真実を闇に葬って、あなたの良心は、本当に痛まないんですか」

山田は、唇を噛んだ。その目に、苦悩の色が浮かぶ。

「私は……」

「お願いします。真実を、教えてください」

長い沈黙が流れた。駅のアナウンスが、機械的に電車の到着を告げている。

「……考えさせてください」

山田は、そう言い残して、人混みの中に消えていった。


それから三日間、山田からの連絡はなかった。橘は、諦めかけていた。

だが、週末の土曜日の朝、橘の携帯が鳴った。画面には、見知らぬ番号が表示されている。

「……橘さんですか」

電話の向こうの声は、震えていた。山田だった。

「あなたの言う通りです。あの処方箋は、どう考えてもおかしかった。見過ごすことは、私にはできません」

橘は、受話器を強く握りしめた。

翌日の日曜日、二人は都内の公園で落ち合った。朝早い時間のため、人影はまばらだ。朝露に濡れた芝生が、朝日に輝いている。

山田は、震える手で、茶封筒を橘に差し出した。

「調剤録のコピーです。院外秘ですが……」

彼の顔は、一晩で歳を取ったかのように疲れていた。

「私も、薬剤師です。人の命を守るのが、仕事です。それなのに、私は……」

山田の目に、涙が浮かんだ。

「ありがとうございます」

橘は、深く頭を下げた。

「あなたの勇気に、心から感謝します」

封筒の中には、調剤録のコピーが入っていた。そこには、危険な薬の名前が、消えることのないインクの文字で、はっきりと記されていた。


「紙の証拠」を手に入れた陸と橘は、再び田所の元を訪れた。今度は、逃げ場はない。

診察室で、陸は調剤録のコピーを田所の前に置いた。田所の顔から、みるみる血の気が引いていく。

「これでも、しらを切るつもりですか」

陸の声は、氷のように冷たかった。

田所は、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。額には、大粒の汗が浮かんでいる。

そして、観念したように、全てを語り始めた。

ギャンブルで作った多額の借金。その弱みを『黒龍会』に握られたこと。借金の帳消しと引き換えに、処方箋を偽造したこと。そして……。


「娘が、海外留学していまして……」

田所の声は、涙で途切れた。

「もし断れば、娘に危害を加えると……」

陸は、複雑な表情で田所を見つめた。憎むべき相手。だが、同時に、巨大な陰謀の歯車の一つに過ぎない哀れな男。


事件は、表向き「父の政策を逆恨みした反社会的勢力による、医師を利用した計画殺人」として処理された。田所は逮捕され、『黒龍会』の幹部も次々と検挙された。

だが、陸の胸の中で、違和感は消えなかった。

「動機が単純すぎる。これは、大きな何かを隠すための、巧妙なカモフラージュだ」

しかし、捜査の線は、ここで完全に途切れてしまった。

その頃、議員事務所では、浅野恭子が一人、深夜まで残っていた。

オフィスの明かりは、彼女のデスクライトだけ。その光の下で、浅野は膨大な資料と格闘していた。企業の登記簿謄本、過去の新聞記事、流出したタックスヘイブンの法人リスト。

PCの画面には、複数のウィンドウが開かれ、エクセルのシートには、複雑な相関図が描かれている。ホワイトボードには、マジックで書かれた無数の矢印と名前が、まるで蜘蛛の巣のように広がっていた。

「誠二先生なら、必ず金の流れを追うはず……」


浅野は、目をこすりながら、コーヒーを口に運んだ。もう何杯目か分からない。苦いコーヒーが、疲れた頭を覚醒させる。


遠藤のようなIT技術はない。だが、彼女には、父・誠二に仕える中で培われた、金の流れを読む鋭い嗅覚があった。そして、何より、膨大な資料の中から一点の矛盾も見逃さない、驚異的なまでの几帳面さがあった。


一日目、二日目と、成果は出なかった。目は充血し、肩は凝り固まっている。それでも、浅野は諦めなかった。

「必ず、どこかに綻びがあるはず……」

そして、三日目の朝方。東の空が白み始めた頃、浅野の目が、ある書類で止まった。

『黒龍会』のフロント企業が利用していた、無名のコンサルティング会社。その会社の顧問会計士の名前。


「この名前……どこかで……」

浅野の脳裏に、かすかな記憶が蘇る。彼女は、慌てて別のファイルを開いた。父が管理していた、過去の政治資金パーティーの招待者名簿のデータバンク。

震える指で、検索窓にその会計士の名前を打ち込む。

エンターキーを押した瞬間、画面に結果が表示された。


「まさか……」

浅野の顔が、蒼白になった。

その会計士は、綾小路議員個人の顧問会計士と、同一人物だったのだ。


浅野は、震える手で、暗号化通信アプリを立ち上げた。セーフハウスの陸に、緊急連絡を入れる。

『陸さん、見つけました。とんでもない、繋がりを……!』

三十分後、陸と橘は議員事務所に駆けつけた。朝日が差し込むオフィスで、浅野は興奮した様子で、発見した証拠を説明した。

「この会計士、綾小路議員の個人顧問なんです。そして、同時に『黒龍会』のフロント企業の顧問でもある」


浅野は、ホワイトボードに新たな線を引いた。

「つまり、綾小路議員と『黒龍会』は、この会計士を通じて繋がっているんです」

陸と橘は、戦慄した。

父の親友であり、善意の紹介者に見えた綾小路。クリニックを紹介したのも、彼だった。


「まさか、最初から……」

橘の言葉を、陸が引き取った。

「医師を脅し、暴力団に罪を被せるという計画そのものが、綾小路によって仕組まれた、壮大な隠蔽工作だったんだ」


陸は、ホワイトボードに貼られた写真を見つめた。父と綾小路が、満面の笑みで肩を組んでいる、古い写真。政界の盟友として、長年支え合ってきた二人。

その笑顔の裏に、これほどの闇が潜んでいたとは。


父は、この真実に気づいていたのだろうか。もし気づいていたとしたら、どれほどの孤独と絶望の中で、戦っていたのだろうか。信頼していた友に裏切られ、誰にも相談できず、たった一人で……。

「……許さない」

陸の口から、氷のような声が漏れた。それは、静かな呟きだった。だが、その声には、地の底から湧き上がるような、深い怒りが込められていた。

「絶対に、許さない……!」


朝日が差し込む議員事務所で、陸の瞳が、復讐の炎に燃えていた。その炎は、父の無念を晴らすまで、決して消えることはないだろう。窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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