第21話:協力者
「――そもそも、瑞樹 秀という人間は、本当に『存在する』のか?」
陸が放った、背筋が凍るような仮説。
橘は、最初、その言葉の意味を理解できなかった。だが、陸が語る「キャラクターのバックストーリー」という、ゲームデザイナーならではの視点を聞くうちに、その表情から血の気が引いていくのが分かった。
記録はある。だが、記憶は曖昧。存在はしている。だが、実感がない。
まるで、とってつけたような、薄っぺらな過去。
「……正気か、お前」
橘が、ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
「だが、もし、もしお前の言う通りだとしたら……証明できるのか? 人間一人の存在を、まるごと『無かった』ことになんて…」
「証明します」
陸は、きっぱりと答えた。
「どんなに完璧なゲームでも、どこかに必ずバグや、仕様の穴はある。俺たちが見るべきなのは、アルバムの写真じゃない。彼というキャラクターを構成している、最も根本的なデータ。……彼の、戸籍です。それも、コンピューター上のデータじゃない。全ての始まりである、紙の、一番最初の『原戸籍』です」
陸と橘は、再び動き出した。ターゲットは、瑞樹の戸籍謄本の原本。
遠藤には、別のダミー調査を依頼し、事務所に釘付けにしてある。浅野には「過去の法案について、父の考えを改めて知りたい」と伝え、国会図書館での資料集めを頼んだ。裏切り者の正体は分かっていても、気づかれないよう、ごく自然に振る舞う。その演技は、陸の神経をすり減らしていった。
橘の情報網を駆使し、瑞樹の戸籍が保管されている横浜の法務局に狙いを定める。だが、すぐに巨大な壁にぶつかった。
「ダメだ、陸」
セーフハウスに戻ってきた橘が、苛立ちを隠さずに言った。
「瑞樹の戸籍謄本、特に原戸籍の閲覧請求に、ブロックがかかってる。それも、法務省の上層部から、直接『特別管理指定』を受けてるらしい。俺のツテを使っても、デジタルデータにすらアクセスできねえ。完全にプロテクトされてやがる」
伊達の権力が、司法の根幹にまで及んでいる証拠だった。
「やはり、俺の仮説は……」
陸が、確信を深めたその時だった。
橘のポケットで、使い捨てのプリペイド携帯が、短い振動音を立てた。メールの受信だ。差出人は、ない。
それは、コインロッカーの鍵を知らせてきた、あの『名もなき役人』からの、二度目のメッセージだった。
『横浜法務局 本牧書庫 地下三階。明日15:00、防災訓練。スプリンクラー作動テストのため、同階層のセキュリティシステム一時オフライン(5分間)。西側非常階段の警報装置、同時間帯、メンテナンスにより作動せず』
「……嘘だろ」
橘が、画面を見ながら呻いた。
それは、もはやヒントではなかった。政府の内部にいる「見えざる味方」が、陸たちに仕掛けた、大胆不敵な協力依頼。スパイ映画さながらの、潜入作戦への招待状だった。
「……行きます」
陸は、即答した。
「5分。5分あれば、十分です」
翌日の午後三時。
横浜法務局に、けたたましい火災報知機のベルが鳴り響いた。茹だるような夏の暑さから逃れるように、職員たちが正面玄関から屋外へ避難していく。
その喧騒に紛れ、清掃業者の制服に身を包んだ陸と橘は、ビルの裏手にある西側非常階段の扉を、静かに開けた。
中は、薄暗く、僅かばかりカビ臭い空気が漂っている。二人は、足音を殺しながら、地下三階の書庫を目指した。
『地下三階 特別書庫』と書かれた、重厚な鉄の扉。防災訓練のため、その電子ロックは解除されていた。
中は、迷宮のように入り組んだ、巨大な書架の森だった。古い紙の匂いが、鼻をつく。スプリンクラーの作動テストが始まり、「シュー」という水の噴射音が、不気味に響いていた。残り時間は、あとわずか。
橘が、懐中電灯で書架の番号を照らし出す。瑞樹の戸籍の管理番号は、事前に調べてあった。
「あったぞ、陸! この一角だ!」
二人は、目的のファイルボックスが収められた書架に駆け寄る。ボックスには『特別管理』の赤いシールが貼られ、厳重に封印がされていた。
橘が、躊躇なくその封印を破り、中から古びたファイルを取り出した。
瑞樹家の、原戸籍。
橘が、スマートフォンのカメラで、猛烈な勢いで書類を撮影していく。陸は、その横で、書類の内容を食い入るように見つめた。
そして、彼は、ついにその「バグ」を発見した。
「……これだ」
陸が指さしたのは、瑞樹の両親とされる人物の、死亡届だった。その死亡日が、瑞樹が日本で生まれたとされる日よりも、一年も早くなっていたのだ。
死んだ人間から、子供が生まれるはずがない。
完璧に偽装された経歴の、あまりに初歩的で、しかし決定的な綻び。
「橘さん、もう一枚、何か入ってます」
ファイルの底に、一枚だけ、薄紙で包まれた別の書類が挟まっていた。
表面には、血のように赤い『極秘』のスタンプ。
それは、かつての『友情の橋・特別人材交流計画』に関する、一枚の内部メモだった。
『対象No.7(コードネーム:蝉の幼生)に関する最終報告』
協力者家庭(ファイル201-B参照:高橋一家)による生活記録の植え付け、完了。対象は指定地区(横浜市)の小中学校課程を終了し、地域社会に「瑞樹 秀」として初期の記憶痕跡を残すことに成功。
しかし、対象に日本社会への過剰な同化傾向、および任務への疑問が見られるため「失敗資産」と認定。高校卒業のタイミングで、本国に召還、再教育プログラムへ移行。
後任として、特別訓練課程を修了したエージェント『李 傑』が来日。「瑞樹 秀」の身分と経歴を完全に引き継ぎ、大学進学をもって最終浸透段階に入る。以降の活動は、彼に一任する。
ゴオオオッ、という音と共に、スプリンクラーの作動テストが終わった。静寂が戻り、遠くから職員たちの話し声が聞こえ始める。タイムリミットだ。
二人は、ファイルを元の場所に戻すと、再び闇の中を駆け抜け、誰にも気づかれずに法務局を脱出した。
セーフハウスに戻り、橘のスマートフォンに写る、証拠の数々を見ながら、二人は言葉を失っていた。
「……冗談じゃねえぞ、おい」
橘が、乾いた声で呟いた。
「こいつは、ただのスパイの話じゃねえ。人間を『製造』して、戸籍ごと社会に埋め込む、国家ぐるみのプロジェクトだ。瑞樹一人の話じゃねえ。メモにあった『対象No.7』ってことは、少なくとも、他に6人はいるってことだ。いや、この計画が何十年も続いてるなら……」
橘の言葉に、陸は戦慄した。
「ええ……。そして、その『協力者家庭』も、日本中に散らばっている。瑞樹の過去を曖昧に記憶していた、あの先生や、大家さんのような普通の人たち…。彼らは、知らず知らずのうちに、国家を侵略するための舞台装置の一部にさせられていたんだ」
陸は、ホワイトボードに書き出された、伊達、瑞樹、そして無数の「蝉」たちの名前を睨みつけた。
「父さんが戦っていたのは、伊達官房長官や、一人の工作員だけじゃなかった。この、何十年もかけて、日本の社会そのものに寄生してきた、巨大なシステムそのものだったんだ……」
陸は、自分たちが戦っている敵の、本当の姿を垣間見た気がした。
それは、特定の個人ではない。顔も、名前も持たない。だが、確実にこの国を蝕んでいる、巨大で、底知れない、恐るべき侵略のシステム。
その正体に、陸は、夏の日陰の生ぬるい空気の中で、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
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