第2話 ボンボンの議席
父の死から三日後、高遠家の広大な邸宅は、黒いスーツと線香の匂いで満たされていた。
通夜が執り行われ、喪主として玄関に立つ高遠 陸は、感情を消した能面のような顔で、ひっきりなしに訪れる弔問客の波を受け流していた。
「この度は、誠にご愁傷様でございます。高遠先生には、我が党も、そしてこの国も、大きな恩を受けました」
そう言って深々と頭を下げたのは、テレビで見ない日はない与党の幹事長だ。だが、その目が陸の全身を値踏みするように舐め回しているのを、陸は見逃さなかった。彼だけではない。訪れる政治家や官僚、財界の大物たちの誰もが、儀礼的なお悔やみの言葉の裏で、同じような視線を向けてくる。
『父親を失った二十八歳の息子』としてではなく、『巨大な政治的遺産を相続する可能性のある商品』として、自分が見られている。その事実が、陸の神経を苛んだ。
(親父は、死ぬ直前、誰かと激しく口論していた……)
浅野から聞いた言葉が、弔問客たちの偽善的な顔を見るたびに、頭の中で反響する。父の死は、本当にただの病死なのか。あの無数のカメラの前で、悲痛な面持ちで父を悼んでみせた男たちの中に、父を死に追いやった人間がいるのではないか。
疑念は、一度芽生えると、とめどなく膨らんでいく。
人の波が少し途切れたのを見計らい、陸は息苦しさから逃れるように、父の書斎へと向かった。重厚なマホガニーの机と、壁一面を埋め尽くす法律や歴史の専門書。陸にとっては、子供の頃から近寄りがたい場所だった。
革張りの椅子に腰を下ろすと、ふいにドアがノックされた。
「陸さん、少しよろしいかな」
入ってきたのは、父の地元後援会『誠心会』の会長を務める、島津 義弘だった。丸顔に人の良さそうな笑顔を浮かべているが、その奥にある眼光の鋭さは、長年、父の地盤を支えてきた古狸ならではのものだ。島津は、陸の向かいのソファにどっかと腰を下ろした。
「陸さんも、お疲れだろう。だが、大事な話だ。単刀直入に言おう。お父上の後を継いで、補欠選挙に出ていただきたい」
やはり来たか。
陸は内心で舌打ちした。父が死んだ瞬間から、いや、病院の廊下で値踏みするような視線を浴びた時から、こうなることは分かっていた。
「お断りします」
陸は、間髪入れずに答えた。
「島津さん、ご存じでしょう。俺は政治に興味はない。親父とも、そのことでずっと対立してきた。俺には、ゲームプランナーという、自分の人生を懸けてやっている仕事があります」
「ゲーム……かね。陸さんが優秀な作り手であることは聞き及んでおるよ。だが、これは君個人の問題ではない」
島津は、諭すような口調で続けた。
「高遠先生が命を懸けて守ってこられた、この地盤。これを、みすみす他の派閥の連中に明け渡すわけにはいかんのだ。先生の死で、すでに何人ものハイエナが嗅ぎつけて動き出しておる。この議席を守れるのは、高遠先生のご子息である、陸さん、あなたしかいない」
「俺には無理です。知識も、経験も、覚悟もない。そんな人間が議員になるなんて、有権者を馬鹿にしています」
「知識や経験は、我々が全力でサポートする。必要なのは、高遠家の血、その看板なのだよ」
血、看板。その言葉に、陸は腹の底からこみ上げてくる怒りを覚えた。俺は、俺という個人ではなく、ただの血統書付きのサラブレッドか。
「嫌です。俺は、あんたたちの道具になるために生まれてきたんじゃない」
陸が吐き捨てると、島津の人の良さそうな笑顔が、すっと消えた。代わりに現れたのは、獲物を追い詰める狩人のような、冷徹な表情だった。
「……では、このままお父上の死を、ただの『激務による心不全』で終わらせてしまっても、いいのかね?」
その一言は、槍のように陸の胸を貫いた。
島津は、知っている。あるいは、感づいている。父の死が、単純なものではないことを。
「どういう、意味ですか」
声が震えそうになるのを、必死でこらえる。
「高遠先生は、巨大な敵と戦っておられた。その志半ばで倒れられた。我々後援会は、そう信じておる」
島津は、テーブルに身を乗り出した。
「陸さん。もし、お父上の死に何らかの作為があったのだとしたら、その真相を突き止めるにはどうすればいいと思うかね。一介のゲームプランナーに、何ができる? 警察が本気で動くとでも? だが、国会議員なら話は別だ。国政調査権という武器も使える。何より、敵と同じ土俵に立つことができる」
島津の言葉が、陸の心を乱す。
そうだ。父の死の真相を知りたいのなら、傍観者でいては何も見えてこない。渦の中、それも中心に飛び込むしかないのではないか。
浅野秘書から聞いた「最後の口論」。父が誰かと激しく対立していたという事実。そして、島津が語る「巨大な敵」。
それらの断片が、一つの道筋となって結びついていく。
「……お父様の無念を、晴らしたくはないのかね?」
島津の最後の一言が、決定打となった。
無念。
そうだ、父は無念だったに違いない。電話の向こうの相手と口論し、受話器を握りしめたまま、たった一人で死んでいったのだ。
親としては、最低の男だった。だが、父が一人の政治家として、何かを懸けて戦っていたのだとしたら。その戦いの意味を、息子の自分が知らずにいていいはずがない。
これは、政治家になるための決意じゃない。
父が遺した、最後の謎を解くための、潜入捜査だ。
そう自分に言い聞かせると、不思議と腹が据わった。ゲームの仕様を決める時のように、頭の中で思考がクリアになっていく。目的は『父の死の真相究明』。そのための手段として、『国会議員になる』という選択肢を、今、選ぶ。
長い沈黙の後、陸は顔を上げた。
「……分かりました。やります」
その目には、もう迷いはなかった。ある種のゲームプランナーとしての探求心と、息子としての意地がない混ぜになった、覚悟の光が宿っていた。
島津は、満足げに深く頷いた。
それから数週間、陸の日常は激変した。
会社には長期休職を届け出た。健太は「マジかよ」と驚きながらも、「まあ、お前ならやれるだろ」と背中を叩いてくれた。
陸は、島津と浅野が組んだカリキュラム通り、分厚い資料を読み込み、スピーチの練習をし、有力者の元へ挨拶回りに明け暮れた。まるで、新しいゲームのルールを叩き込むように、永田町の常識を頭に詰め込んでいく。
そして、補欠選挙の告示日。
真新しい選挙事務所の壁に、刷り上がったばかりのポスターが貼られた。
高級なダークスーツに身を包み、プロのヘアメイクを施され、カメラマンの指示通りに作った、ぎこちない笑顔。そこには、高遠 陸ではない、見知らぬ男が写っていた。
『故・高遠誠二の遺志を継ぎ、日本の未来を切り拓く。』
キャッチコピーが、やけに白々しく見える。
そのポスターを見上げた瞬間、強烈な吐き気が、胃の底からこみ上げてきた。陸は慌てて事務所のトイレに駆け込み、便器に向かってえづいた。だが、出てくるのは苦い胃液だけだ。
冷たい水で顔を洗い、鏡を見る。
そこに映っていたのは、憔悴し、目の下に隈を作った、見慣れない「政治家・高遠 陸」の顔だった。
「クソ……」
これが、これから俺が演じる『アバター』か。
陸は、鏡の中の自分を睨みつけた。
この先に待つのが、どんな理不尽なクソゲーだったとしても、クリアしてやる。そして、必ず突き止めてみせる。
親父、あんたを死に追いやったのは、一体誰なんだ――。
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