第19話:『目』の炙り出し
窓の外では、夕立が過ぎ去った後のアスファルトの匂いが、むっとした熱気と共に立ち上っている。
陸と橘は、例のUSBメモリの解析結果が記されたホワイトボードを前に、向かい合っていた。
「伊達の『原罪』は分かった」
橘が、ウイスキーグラスを揺らしながら言った。
「だがな、陸。これは20年前の話だ。これを今、表に出したところで、『過去の話だ』と揉み消されるのがオチだ。奴を完全に沈めるには、現在進行形の国家反逆…インフラ法案と、お前の親父さんの死の真相を、直接結びつける証拠がいる。だが、俺たちの動きは、奴らに筒抜けだ」
橘の視線が、鋭く陸を射抜く。
「まず、俺たちのチームに巣食っている、敵の『目』を潰す。それが最優先だ」
陸は、強く頷いた。そして、この数時間、ずっと頭の中で組み立てていた、危険な罠の設計図を、唯一の共犯者である橘にだけ打ち明けた。
翌日、陸は覚悟を決めて事務所へ向かった。テレビのワイドショーは、相変わらず瑞樹の『新しい家族の形法案』を、さも素晴らしいことのように垂れ流している。だが、昨夜のニュースで報じられた「法案の技術的問題」をきっかけに、一部のコメンテーターが、わずかだが慎重な意見を述べ始めていた。世論という巨大な生き物は、ほんの少しだけ、風向きを変えようとしているのかもしれない。だが、陸自身の状況は、絶望的なままだった。
陸はまず、浅野を応接室に呼んだ。
ドアを閉め、盗聴を警戒して小型のジャミング装置を作動させる。その物々しい雰囲気に、浅野は緊張した面持ちで姿勢を正した。
「浅野さん」
陸は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなただけを信じて、私の覚悟を打ち明けます。次の本会議を待たずして、私は動く。父が遺したこの証拠の核心部分を、明朝、東都新聞の社会部デスクにリークします。長年、父と付き合いのあった、唯一信頼できる記者です」
陸の言葉に、浅野は息を呑んだ。
「陸さん、それは……あまりに危険すぎます! もし、その情報が漏れれば、あなたは……伊達官房長官に消されてしまいます!」
「覚悟の上です。浅野さんには、万が一のことがあった場合の後処理と、私の母のことを、お願いしたい」
「そんな……私一人に、その重責を背負わせるおつもりですか……」
浅野の肩が、かすかに震えていた。それは、あまりに重い役目を託された忠臣の動揺にも、自らの裏切りが暴かれることを恐れる罪人の戦慄にも見えた。
次に、陸は遠藤を呼んだ。浅野との密談とは打って変わり、その場の空気はビジネスライクな緊張感に満ちていた。
「遠藤さん。あなたの力が必要です」
陸は、一枚の企画書のような書類をテーブルに置いた。
「一つ、シミュレーションをしてもらいたい。もし仮に、『私が橘さんのルートを使い、「水源地」に関する証拠を、週刊実話という雑誌にリークする』という情報が敵に漏れた場合、どのような反応が予測されますか。そして、その際に敵の動きを捕捉できるよう、考えうる限りの監視体制を構築しておいてほしいのです」
あくまで、仮定の作戦分析の依頼。それは、遠藤の専門能力を信頼しているからこその、極めて自然な指示に見えた。
「……なるほど。興味深いシミュレーションです。敵の反応パターンを予測し、我々が取りうる対抗策を洗い出す、と。承知しました。早速、必要なパラメータを設定し、モデルを構築します。監視体制についても、万全を期しましょう」
遠藤は、冷静な目で、しかし確かなプロフェッショナルとしての意志をもって頷いた。
二つの密談を終え、陸は事務所の自席に戻った。時間は、ゆっくりと、しかし確実に進んでいく。
浅野は、自分のデスクで、時折、思い詰めたような表情で受話器を握りしめては、ため息と共にもとに戻す、という行動を繰り返している。その姿は、陸の無謀な計画を止めようと葛藤しているようにも、あるいは、どこかへ報告すべきか迷っているようにも見えた。
やがて、彼女は意を決したように席を立つと、遠藤に気づかれないよう、オフィスの隅にある給湯室へと向かった。そして、スマートフォンを片手に、誰かに短い電話をかけている。その横顔は、緊張でこわばっていた。
(……浅野さん、あんたなのか……?)
陸の心臓が、嫌な音を立てて脈打った。父の代から、誰よりも忠誠を尽くしてくれた彼女が、裏切り者だというのか。信じたくない。だが、あの不自然な行動は、どう説明すればいい?
夜になった。
陸と橘は、再びセーフハウスにいた。約束の時間まで、あと数時間。遠藤に細工をしてもらった(と、浅野には伝えてある)ダミーの資料を、陸はテーブルの上に置き、ただ時が過ぎるのを待っていた。
外では、熱帯夜に最後の力を振り絞るかのように、蝉が鳴いていた。
「……本当に、いいんだな」
橘が、グラスの氷を鳴らしながら言った。
「ええ。もう、引き返せません」
二人の間に、重い沈黙が流れる。
陸は、橘のノートパソコンを借り、匿名回線を通じて、ギルド『蝉時雨』の作戦掲示板にログインした。もし、裏切り者が動けば、必ずここに痕跡が残るはずだ。
F5キーを、何度も、何度も押す。画面に変化はない。
一分が、一時間のように感じられる。息が詰まるような時間が、ただ過ぎていく。
やはり、考えすぎだったのか。浅野さんは、ただ俺を心配して、誰かに相談の電話をかけていただけだったのかもしれない。そう思いかけた、その時だった。
画面が、切り替わった。
掲示板のトップに、新たな投稿が表示されていた。
投稿者:観測衛星『目』
件名:【要警戒】ターゲットのメディア・リーク計画
本文:
『目』より報告。ターゲット、ジャーナリスト(橘)のルートを使い、『水源』関連の証拠を、週刊実話にリークする計画あり。断固阻止せよ。広報班は、同誌編集部への圧力を開始。
陸は、モニターに映し出された**「水源」「週刊実話」**という文字を、ただ、呆然と見つめていた。
頭が、真っ白になる。
浅野に伝えたのは、「東都新聞」のはずだ。
では、なぜ。なぜ、敵は「週刊実話」へのリーク計画を知っている?
――その答えは、一つしかなかった。
陸の脳裏に、数時間前の、遠藤との密談が蘇る。
あの時、自分は遠藤に、あくまで「シミュレーションの依頼」として、「水源地」「週刊実話」の名前を出した。その情報を知るのは、この世で、遠藤ただ一人。
「……分かってたさ」
陸の声が、誰もいないセーフハウスに、虚しく響いた。
「分かっては、いたんだ。でも、信じたかった……」
父が信じた男。冷静な分析で、何度もチームを救ってくれた男。その男こそが、自分たちの全てを敵に売り渡していた、観測衛星『目』。
その冷酷な真実が、陸の心を、完膚なきまでに叩き潰した。
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