第17話:帰還と追跡
党本部から、事実上の「政治的死刑宣告」を突きつけられてから数日が経った。
陸は、荒らされた事務所に一人、閉じこもっていた。辞職勧告決議案が上程される本会議の日が、刻一刻と近づいてくる。圧倒的な無力感が、鉛のように全身を支配していた。
その時だった。
事務所のドアが、遠慮がちにノックされた。どうせまたメディアだろう、と陸は無視を決め込んだ。だが、ドアの向こうから聞こえてきたのは、予想もしない声だった。
「陸さん、私です。浅野です。……お連れしたい方が、おります」
その声には、困惑と、そしてわずかな安徳の色が滲んでいた。陸が重い体を起こしてドアを開けると、そこに立っていたのは、浅野とそして――。
「……よう。ずいぶん、ひでえ顔になっちまったな」
橘は、額の汗を手の甲で拭いながら言った。
「外は地獄みてえな暑さだ。蝉の声で、頭までおかしくなりそうだったぜ」
数日間の拘留でやつれ、無精髭を伸ばした橘 蓮司が、皮肉っぽく笑っていた。
「橘さん……!」
陸は、思わず声を上げた。その声に、奥の部屋から遠藤も顔を出す。
橘の帰還。それは闇の中に差し込んだ、あまりに細く、しかし確かな一筋の光だった。
「橘さん…! ご無事で……本当に、よかった……」
浅野のプロフェッショナルな仮面が、一瞬だけ剥がれ落ちた。その目には安堵の涙が浮かんでいる。だが、彼女はすぐに我に返ると、ハッとしたように陸と橘の間に割って入るように立ち、声を潜めた。
「陸さん、お気持ちは分かりますが、まずはお話を伺うのが先です。ここはまだ安全とは限りません。奥の応接室へ」
その行動は、陸の身を案じる忠実な秘書のそれにも見えたし、二人の自由な会話を遮り、状況を自らの管理下に置こうとする監視役の動きにも見えた。
一方、遠藤は、椅子からすっと立ち上がった。その表情に驚きはあったが、すぐに鋭い分析官の顔に戻っていた。彼は感情的な言葉を口にする代わりに、核心を突く質問を投げかけた。
「橘さん。ご無事で何よりです。単刀直入に伺います。今回の件で、何か掴めましたか? そして、あなたは『尾行』を連れてきてはいませんね?」
その問いかけは、チームの安全を最優先に考える、極めて有能な参謀の言葉にも聞こえた。だが同時に、橘がどこまで情報を得たのか、そして自分たちの監視網に気づいていないかを探る、内通者の冷徹な尋問のようにも、陸の耳には響いた。
応接室に移り、橘は重い口を開いた。
「まず、何があったか、だ。あれは、完璧な罠だった」
橘は、あの夜の出来事を語り始めた。彼の視点を通した、生々しい回想だった。
――夜の公園。情報提供者を名乗る男は、終始おどおどしていた。俺は、情報提供の対価として用意した現金入りの封筒を、男との間のベンチに置いた。「これで、あんたの知ってることを全て話してくれ」と。男の指が、封筒に触れようとした、その瞬間だった。
世界が、閃光と怒号で満たされた。
「警視庁公安部だ!動くな!」
茂みから、ベンチの影から、スーツ姿の男たちが雪崩のように現れた。情報提供者だった男は、途端に「うわあ、助けてくれ!この男に無理やり金を渡されそうになったんだ!」と、白々しい悲鳴を上げた。完璧な脚本、完璧なタイミング。俺は、贈賄の現行犯として、なす術もなく拘束された。
取り調べは、陰湿で執拗だった。彼らが知りたかったのは、贈賄の事実じゃない。俺の背後にいるお前、高遠 陸のことを、根掘り葉掘り聞き出そうとしてきやがった。だがな、一人だけ、妙な奴がいた。他の連中が俺を犯人扱いする中で、そいつだけは、ただ黙って、俺と他の公安刑事のやり取りを観察しているようだった。まるで、この茶番劇そのものを、分析しているかのように…。
そして昨日、俺は「嫌疑不十分」で、何の説明もなく、あっさりと釈放された。――
「……そういうわけだ。公安の中も、一枚岩じゃねえのかもしれん」
橘は、そう締めくくった。そして、「だが、本題はここからだ」と、くたびれたジャケットの内ポケットから、一通の茶封筒を取り出した。
「アパートに戻ったら、これが郵便受けに無造作に突っ込んであった。差出人は、ない」
橘が封筒を逆さにすると、中から一本の、古びたコインロッカーの鍵が滑り落ちた。タグには、こう記されている。
『新宿駅 C-5』
「罠か、それとも蜘蛛の糸か」
橘の目が、鋭く光る。「どっちにしても、行くしかねえだろ。時間がないのは、お互い様だ」
陸は、強く頷いた。
新宿駅へと向かうタクシーの中、陸の心臓は激しく波打っていた。遠藤からのリアルタイムの交通情報を頼りに、運転手は裏道を駆使して進む。
「おい、陸」
橘が、サイドミラーを睨みながら低い声で言った。
「黒のセダン。さっきから、ずっと付いてきてやがる。俺たちは、まだ監視されてるぞ」
「運転手さん、まいてください! 金はいくらでも払います!」
陸の言葉に、運転手は一瞬戸惑ったが、すぐにプロの顔に戻ると、ハンドルを急に切った。狭い路地を猛スピードですり抜ける、短い、しかし心臓が止まるようなカーチェイス。なんとかセダンを振り切った二人は、駅の少し手前でタクシーを降り、雑踏の中へと紛れ込んだ。
世界最大級の迷宮、新宿駅。人の波をかき分け、二人はコインロッカーが並ぶエリアへと向かう。
「あった……Cブロックだ」
目的の場所が見えた、その時だった。
「危ねえ!」
橘が、陸の腕を強く引いた。その直後、ぶつかり屋のような大柄な男が、陸がいた場所を通り過ぎていく。ただの人違いか、それとも…。
「……あそこだ」
二人は、ついに『C-5』のロッカーの前までたどり着いた。だが、橘は、再び陸を制した。
彼の視線の先、十数メートル離れた柱の陰で、一人の男が新聞を広げていた。だが、その目は、新聞ではなく、明らかにこちらを窺っている。男は、この5分間、一度もページをめくっていない。
「……監視役か。どうする、橘さん」
「……やるしかねえだろ」
次の瞬間、橘は持っていたカバンをわざとらしく地面にぶちまけた。ペットボトル、充電器、取材ノート。様々な中身が、派手に散らばる。
「ああクソッ! 最悪だ!」
橘の大声に、周囲の通行人と、柱の陰の男の視線が、一斉に集まった。
「陸、今だ!」
橘が作った一瞬の隙を突き、陸はロッカーへと駆け寄った。心臓が激しく脈打ち、じっとりと滲んだ手のひらの汗で滑る指で、必死に鍵を差し込み、回した。
カチャン、という硬質な金属音が、やけに大きく響いた。
陸は、固唾を飲んで、ゆっくりとロッカーの扉を開けた。
中は、空っぽだった。
いや、違う。
だだっ広いロッカーの、冷たい金属の床の真ん中に、ポツンと、一つだけ。
黒く、小さな、一本のUSBメモリが置かれていた。
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