第16話:辞職勧告
八月、東京は茹だるような熱気に支配されていた。
アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪ませ、耳を劈く蝉時雨が、まるで世界の終わりを告げる警報のように、朝から晩まで鳴り響いている。
地検特捜部の家宅捜索という名の嵐が過ぎ去った高遠 陸の事務所は、その熱気と喧騒から切り離された、静かな廃墟と化していた。押収品を示す赤いテープだけが、空になった書庫に痛々しく残り、壊れたままのエアコンからは、生ぬるい風が虚しく吹き出すだけだった。
事務所の片隅に置かれた大型テレビには、音声が消されたまま、涼しげなスタジオで微笑む瑞樹 秀の姿が映し出されていた。彼が情熱的に語る『新しい家族の形を支援する法律案』は、連日メディアを席巻し、国民的な一大ムーブメントとなりつつあった。
画面には『多様な生き方を認める社会へ!瑞樹議員に若者からの支持、爆発的に』というテロップが躍っている。まるで、陸のスキャンダルという「汚れ」を洗い流すかのように、世間は瑞樹のクリーンな「正義」に熱狂していた。
「陸さん、お気を確かに」
浅野が、青ざめた顔で麦茶の入ったグラスを置く。その額には、玉のような汗が浮かんでいた。
「遠藤です。メディアからの取材依頼は、すべて私が断っています。今は何を話しても、彼らに都合よく切り取られるだけです」
遠藤は、この蒸し風呂のような部屋の中でも、少しも汗をかかず、常に冷静だった。その動じなさは、陸ににとって希望に思えた。
その日の午後、一本の内線電話が鳴った。浅野が受話器を取ると、その顔がこわばった。
「……幹事長室からです。陸さんに、至急、党本部へ来るように、と……」
「幹事長……」
民自党幹事長、倉田 茂。彼は、党内最大派閥を率いる伊達 正宗の、長年の腹心として知られる男だ。
「これは、罠です。行ってはいけません、陸さん」
浅野が、悲痛な声で制止する。
「いえ、浅野さん」
遠藤が、その言葉を遮った。
「党からの正式な呼び出しを無視すれば、それこそ除名処分の口実を与えてしまいます。行くしかありません。私が、同行します」
その言葉は、どこまでも正論だった。陸には、もはや断頭台へ向かう罪人のように、その呼び出しに応じる以外の選択肢は残されていなかった。
党本部の応接室は、外の猛暑が嘘のように、冷房が効きすぎて肌寒いほどだった。そこには、倉田幹事長をはじめとする、党の長老たちが、まるで裁判官のように居並んでいた。伊達の姿はない。だが、この部屋全体が、彼の見えない威光に支配されているのが、肌で分かった。
「高遠くん」
倉田が、氷のように冷たい声で口火を切った。
「君が、党の顔にどれだけ泥を塗ってくれたか、分かっているのかね」
「お待ちください、幹事長! これは仕組まれたものです! 私の父の死の真相に関わる、巨大な陰謀なのです!」
陸は、必死に無実を訴えた。だが、倉田は、その言葉を鼻で笑った。
「言い訳は、聞き飽きた。君個人の問題で、我が党全体が、国民の信頼を失うわけにはいかんのだ」
彼らが求めているのは、真実ではない。ただ、党という組織を守るための「生贄」だった。その冷酷な現実に、陸は言葉を失った。
倉田は、最終通告を突きつけた。
「党として、君に、議員辞職を勧告する」
その言葉は、死刑宣告そのものだった。
「次の本会議までに、自ら身を引くのが、君が党と、そして偉大だったお父上の名誉に対して果たせる、最後の責任だ。もし、それでもその地位に居座るというのであれば……我々は党として、君の辞職勧告決議案に、賛成票を投じることになる。覚えておくように」
事務所に戻った陸を、浅野が涙ながらに出迎えた。
「……申し訳ありません、陸さん。私の力が及ばず……」
遠藤は、ただ、悔しそうに唇を噛み締め、こう言った。
「……残念です。ですが、これが、永田町の現実です」
二人とも、陸の身を案じているように見えた。だが、陸には、もう何も信じられなかった。
西日が差し込む事務所の窓の外では、蝉が最後の力を振り絞るように、狂ったように鳴いていた。
政治家としての、自分の時間が、刻一刻と終わりに近づいていく。
タイムリミットは、次の本会議。
それまでに、全てをひっくり返すだけの、決定的な一手を打たなければならない。
だが、その方法は? 誰を信じ、何をすればいい?
陸は、荒らされ、がらんとした事務所の真ん中で、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
圧倒的な権力を前に、なす術もなく、ただ自分の政治生命が終わりゆくのを待つ。その絶望的な状況に、陸は、ついに膝から崩れ落ちそうになった。
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