第11話:水と暴力
「明日、私がご案内しましょう」
コンサルタントの木下健吾は、完璧な笑顔でそう言った。その申し出に、陸は一瞬、誘いに乗って情報を引き出すべきか迷った。だが、隣にいる橘の目が、かすかに「やめておけ」と合図を送っているのに気づく。
「ありがとうございます、木下さん。ぜひお願いしたいですね。ですが、今日はもう遅いですし、明日の予定もまだ立っていませんで。改めて、こちらの名刺の番号にご連絡させていただきます」
陸は、受け取った名刺を丁寧に懐にしまうと、その場を巧みに切り抜けた。
「ええ、ええ。お待ちしておりますよ」
木下は、少しも気分を害した様子なく、にこやかに手を振って見送った。彼がカフェから去った後、陸と橘は、まるで水中にいたかのように、こわばっていた息を同時に吐き出した。
その夜、宿泊先のビジネスホテルの一室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
陸は、浅野から渡された暗号化スマートフォンで、東京のチームに状況を報告した。
『――木下と名乗る、奇妙なコンサルタントに接触されました。我々の調査内容にやけに詳しい。偶然かもしれませんが、念のためご報告します』
スピーカーフォンから、遠藤の冷静な声が返ってくる。
『木下…? いえ、心当たりがありませんね。ですが、偶然にしては出来すぎている。危険です。すぐに東京にお戻りください』
続けて、浅野が心配そうな声で言う。
『陸さん、どうか深追いはなさらないでください。何かあってからでは取り返しがつきません』
電話を切った後、橘がコンビニで買ってきた缶ビールとウイスキーのボトルをテーブルに置いた。
「まあ、深く考えるな。一杯やろうぜ」
普段なら断る陸だったが、その日は黙ってウイスキーのボトルを受け取ると、備え付けのグラスになみなみと注ぎ、一気に呷った。喉が焼けるような熱さを感じた。
「……もう一杯、もらえますか」
「おいおい、らしくねえな」
橘は少し驚いた顔をしたが、何も言わずにボトルを差し出した。見えない敵、巨大な陰謀、そして味方の中にいるかもしれない裏切り者。二十八歳の青年が一人で背負うには、その重圧はあまりに大きすぎた。
部屋に戻っても、陸は全く眠れなかった。アルコールが、苛立ちと思考の混乱を加速させるだけだった。彼はベッドに寝転がったまま、スマートフォンのゲームアプリを起動した。美しいグラフィックのキャラクターたちが、虚しく画面の中で踊っている。
普段なら絶対に手を出さない、高額な『限定レアガチャ』の表示が目に入る。
「……クソッ」
陸は、何かに取り憑かれたように、苛立ちをぶつけるかのように、次々と課金ボタンをタップしていった。一万円、三万円、五万円。後払いの請求額が膨れ上がっていく。もちろん、欲しいキャラクターなど手に入らない。手に入ったとしても、この心の虚しさが埋まるわけではない。
「こんなことをしても、何も変わらないのに……」
虚脱感と強烈な自己嫌悪に襲われながら、陸はスマートフォンをベッドに投げつけた。
翌日、重い頭痛と自己嫌悪を抱えながら、陸と橘は調査を再開した。鳳ホールディングスに土地を売るのを最後まで拒んでいたという、元農家を探すためだ。役場で得た情報だけでは個人までは特定できない。二人は、地道な聞き込み調査を開始した。
だが、その調査は困難を極めた。
町の商店街で、農協で、二人は話を聞こうと試みた。しかし、よそ者である彼らに、町の人々の視線は冷たい。
「鳳ホールディングスについて、何かご存じありませんか?」
その名前を口にした途端、それまで世間話をしていた人々が、あからさまに顔を曇らせ、口を閉ざす。
「さあな、俺たちには関係ねえことだ」
「余計なことに首を突っ込むんじゃねえよ、兄ちゃんたち」
町全体が、巨大な秘密を隠すように、硬く口を閉ざしていた。何かを、あるいは誰かを、恐れている。その不気味な空気が、じわじわと二人を追い詰めていく。
何軒も回り、何人にも門前払いを食らった。日が傾きかけ、焦りが募り始めた頃、町の外れにある一軒の居酒屋の暖簾をくぐった。
カウンターの隅で、もつ煮を突きながら二人が「お手上げですね…」「これじゃ、ラチがあかねえな」と話していると、店の主人がおしぼりを差し出しながら、声を潜めて言った。
「あんたら、鳳のことを調べてるのかい」
陸と橘が顔を上げると、主人は「やめときな。関わると、ロクなことにならん」と、忠告するように続けた。
橘がすかさず食い下がる。「何かご存じなんですね? 教えてください。俺たちは、不当なやり方に苦しんでいる人たちの力になりたいんです」
主人は、しばらく店の外を警戒するように窺っていたが、やがて諦めたように、重い口を開いた。
「……鳳に逆らった連中は、みんな酷い目に遭ってるんだ。夜中に畑をトラクターで荒らされたり、大事な農機具のオイルを抜かれたりな。陰湿な嫌がらせが、ずっと続くんだ」
主人の声には、恐怖の色が滲んでいた。
「特に、山向こうの宮田のじいさんなんざ、一番しつこく抵抗してたから、一番ひでえ嫌がらせを受けてた。警察に言っても、『証拠がない』の一点張りで、全く相手にされなくてな…」
そこで主人は、さらに声を潜めた。
「だがな、あのじいさんは諦めてねえ。やられたこと、全部ノートに記録してるって噂だ。いつ、どこのナンバーの車が来て、誰に、何をされたか。物置から、写真も撮ってるって話だ…。だから、あんたらもこれ以上関わるんじゃない。あの連中に本格的に睨まれたら、おしまいだぞ…」
その言葉に、陸と橘の目の色が変わった。
宮田老人は、ただの被害者ではない。敵の違法行為の証拠を持つ、この戦いにおける最重要キーパーソンだ。
「行こう、橘さん」
陸は、勘定をテーブルに置くと、決意を込めて立ち上がった。
「何としても、宮田さんに会って、そのノートを見せてもらうんだ」
危険を承知の上で、二人は最後の希望である宮田老人の元へと、車を走らせた。
山向こうの道を進み、宮田という表札のかかった古い農家を見つけ出す。家の前で声をかけると、作業着姿の初老の男性が、警戒心もあらわに出てきた。
「……何の用だ。うちは、もうマスコミの取材は受けんぞ」
「いえ、我々はマスコミではありません。ただ、少しお話を伺いたくて」
陸が丁寧に頭を下げると、宮田と名乗る男は吐き捨てるように言った。
「あんたらに話して、俺たちに何がある。面倒はごめんだ」
頑なに口を閉ざす男に、橘が一歩前に出た。
「親父さん、あんたはこのまま泣き寝入りするのか。あんたたちが先祖代々守ってきた土地を、得体の知れない連中に二束三文で買い叩かれて、それで満足なのかよ。俺たちは、あんたたちの味方だ」
橘の熱意が通じたのか、宮田は一瞬、表情を緩めた。そして、何かを言いかけた。
「鳳ホールディングスの連中はな、ヤクザまがいの汚ねえやり方で……」
その瞬間だった。
土埃を上げながら、数台の黒いワゴン車が猛スピードで農家の前に乗り付け、急停車した。陸たちの退路を塞ぐようにして、車からぞろぞろと大柄な男たちが降りてくる。その目つきと雰囲気は、堅気のものではなかった。
リーダー格と思われる、刺青の覗く男が、ゆっくりと陸に近づいてきた。
「おら、旅行者はとっとと帰んな」
男は、陸の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。
「ここはアンタらが、首突っ込む場所じゃねえんだわ。分かったか?」
アルコールと暴力の匂いが、鼻をつく。陸は、恐怖で体が金縛りになったように動けなかった。一触即発。ここまでか、と思ったその時。
「おいおいおい、手荒な歓迎だなあ!」
橘が、少しも怯むことなく大声を張り上げた。その手にはスマートフォンが握られ、カメラがこちらに向けられている。
「今、俺のチャンネルで全国30万人のフォロワーに、この様子を完全生中継してるぜ! タイトルは『北海道の美しい町で、心温まる暴力的なおもてなし!』ってのはどうだ!」
ライブ配信。その言葉に、ゴロツキたちの顔色が変わった。リーダー格の男は、陸の胸ぐらを掴んでいた手を、バツが悪そうに離す。
「……ちっ。ネット弁慶が」
男はそう吐き捨てると、仲間たちに顎で合図し、ワゴン車に乗り込んで嵐のように去っていった。
「はあ……はあ……」
陸は、その場にへたり込みそうになるのを、必死でこらえた。
「橘さん、すごいですね。本当に、配信を……?」
「馬鹿言え、ただのハッタリだ。ブラフだよ」
橘は、平然とスマホをポケットにしまいながら言った。
「だが、奴らが一番ビビるのは、警察よりネットでの炎上だ。今の時代の常識だろ。それより、土産がある」
橘は、陸に一枚の写真を見せた。それは、去っていくワゴン車を、騒ぎの最中に彼がこっそりと撮影したものだった。
「見てみろ。フロントガラスの隅に貼ってある、駐車許可証だ。発行元の会社名は……」
陸は、写真に写った文字を読んで、息を呑んだ。
『新亜総合開発 株式会社』
その名前に、見覚えがあった。
東京の事務所で、父のノートと共に解析したマイクロSDカードのデータ。伊達と繋がる中国系フロント企業のリストの中に、その名前は、確かにあったのだ。
暴力的な土地買収の実行部隊。その背後にいるのは、やはりあの連中だった。
「水源地の謎」と「インフラ法案の謎」が、暴力という名の線で、はっきりと繋がった瞬間だった。
陸は、敵の計画の根深さと、手段を選ばないその非情さに、改めて戦慄した。
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