第10話:赤く塗られた土地
翌日、高遠 陸の事務所には、重苦しい緊張感と、わずかな高揚感が混じり合っていた。ホワイトボードには、父が遺した三重の戦場の構図が書き出されている。
【螳螂】インフラ法案と中国のフロント企業
【水源】北海道・富士山麓の土地買収
【蝉】謎の市民団体・インフルエンサーリスト
「このインフラ法案の証拠は、伊達を社会的に抹殺できるほどの破壊力がある。すぐにでも週刊誌にリークして、一気に勝負を決めるべきだ」
腕を組み、ホワイトボードを睨みつけながら橘が言った。ジャーナリストとしての血が、一刻も早いスクープを求めて騒いでいるのが見て取れた。
しかし、その言葉を遮ったのは、ノートパソコンから顔を上げた遠藤だった。
「いえ、橘さん。その証拠は、我々の最後の切り札です。今この段階で使えば、敵は我々の手の内を全て把握し、全力で潰しにかかってくるでしょう。そうなれば、残りの二つの謎を追う術を我々は失う。まだ、敵の計画の全貌が見えていない今、それはあまりに危険な賭けです」
冷静で、的確な分析だった。
「まずは、敵が我々の動きを警戒していないであろう、別の謎から崩していくべきです。周辺から情報を集め、敵の守りを固める前に、少しずつ外堀を埋めていく」
陸は、遠藤の意見に頷いた。
「遠藤さんの言う通りです。俺も、まずは『水源地の謎』から調査すべきだと考えます。インフラ法案に比べれば、まだ相手も油断しているはずだ」
陸がリーダーとして方針を決定すると、橘は「……ちっ、分かったよ。まどろっこしいのは性に合わねえがな」と、しぶしぶ同意した。浅野は、陸の決断を黙って見守っている。
作戦が決まると、遠藤は驚異的なスピードでその能力を発揮し始めた。
「ノートにあった謎の法人『鳳ホールディングス』と『亜細亜興産』の登記情報をたった今、引き出しました。代表者はどちらも日本人ですが、住所は都内のバーチャルオフィス。典型的なペーパーカンパニーです。最初のターゲットは、この『鳳ホールディングス』が大規模な買収を行っている、北海道の真狩別町にしましょう。ここが、リストの土地の中で最も取引が集中しています」
あっという間に次の目的地が決まった。陸と橘が、現地へ飛ぶことになった。
出発の朝、陸が事務所を出ようとすると、浅野がそっと呼び止めた。
「陸さん、どうかご無事で」
彼女は、一台の真新しいスマートフォンを陸に手渡した。
「現地での私達との連絡は、必ずこちらのスマートフォンをお使いください。遠藤さんに、軍事レベルのセキュリティを施してもらった、暗号化通信アプリが入っております。通常回線での通話は、絶対に避けてください」
その手厚いサポートは頼もしかった。だが、陸の心の隅で、わずかな疑念が生まれる。このアプリは、本当に安全なのだろうか。
新千歳空港からレンタカーを飛ばし、数時間。羊蹄山が美しい稜線を描く、真狩別町に着いた。雄大な自然に抱かれた、平和で穏やかな町。この美しい土地が、静かに外国資本に買収されているという現実が、にわかには信じがたかった。
二人はまず町の役場へ向かい、身分を偽って目的の土地の登記情報を閲覧した。父のノートの通り、ここ数年で広大な土地が『鳳ホールディングス』の名義に変更されていることを確認し、役場を後にした。
「さて、次は現場を見に行くか」
橘の運転で、買収された山林の入り口へと向かう。道の途中で、美しい湖畔に佇む一軒のお洒落なカフェを見つけ、二人は休憩のために立ち寄ることにした。
テラス席で、羊蹄山を眺めながら地図を広げていると、隣のテーブルに座っていた男が、にこやかに話しかけてきた。上質なジャケットを着こなした、人の良さそうなビジネスマン風の男だ。
「もしや、東京からお越しの方ですか? いやあ、こんな場所で本土の言葉を聞くと、なんだか嬉しくて」
男は自然な仕草で立ち上がると、陸たちのテーブルに近づき、名刺を差し出した。
『地域振興戦略コンサルタント 木下 健吾』
「私、この辺りの地域振興のお手伝いをしておりまして。お二人は、ご旅行ですか?」
陸はとっさに「ええ、まあ。大学で土地利用の研究をしていまして、その調査で……」と話を合わせた。
すると木下は、待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
「それは素晴らしい! この町は、今まさに大きな変革の時を迎えているのですよ。実は、最近この辺りの土地を買い集めている東京の投資会社さんがありましてね。彼らはここに、環境に配慮した大規模なリゾート開発を計画しているんです。地元としては、雇用も生まれますし、まさに大歓迎でして」
その口ぶりは、あまりに自然で、善意に満ちていた。だが、陸は彼の言葉の端々に、妙な引っかかりを覚えていた。
「その会社…『鳳ホールディングス』のことですか?」
陸が探りを入れると、木下は「おお、ご存じでしたか!」と嬉しそうに頷いた。
「ええ、もちろんですとも。彼らの計画は、この町の未来にとって本当に素晴らしいものですよ。例えば、彼らはまず、この地域の水資源の管理システムを最新のものに刷新し、災害時にも安定供給できるインフラを整備すると言っています。その上で、海外からの富裕層を呼び込むための高級ヴィラを建設する。まさに、一石二鳥の計画です」
水資源の管理システム。インフラ整備。海外からの……。
木下の話は、一見するとただの輝かしい地域振興の話だ。しかし、その内容は、父が警鐘を鳴らしていたインフラ法案のスキームや、「水源支配」という懸念に、不気味なほど符合していた。まるで、陸たちがこれから抱くであろう疑問に対し、「それは心配ありません、むしろ良いことなんですよ」と、あらかじめ答えを用意して、思考を誘導されているかのようだ。
ゲームのチュートリアルで、プレイヤーを特定の行動に誘導するためだけに配置された、親切なNPCのセリフ。陸には、木下の淀みない説明が、それと全く同じものに聞こえた。
「もしよろしければ、先生方」
木下は、完璧な笑顔で続けた。
「明日、私が開発予定地をご案内しましょう。素晴らしい場所ですよ。きっと、先生方の『研究』の、大変良い参考になるはずです」
陸は、木下の人の良さそうな笑顔の裏に、底知れない冷たい意図を感じ、背筋に悪寒が走った。
この男は、誰だ?
本当にただの親切なコンサルタントなのか? それとも、自分たちの思考を絡め取り、真実から目を逸らさせるために、敵が送り込んできた巧妙な「案内人」なのか?
陸は返事ができず、ただ木下の顔を見つめ返した。その答えは、まだ見えない深い霧の中にあった。
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