宮村との距離
竹ノ内氏の事務所を出てずっと、宮村は黙ったままだった。
昼の1時だというのに、空は若干薄暗くなっている。
見上げればどんよりした雲が広がり、じとっと湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。
雨が降るのかもしれない。
早く帰らなければと思いながら駅の近くまで来た時、彼女は帰路ではなく駅横にあるスターバックスへと向かっていった。
この帰りの道中、宮村とは一言も話していない。
私としてもさっき感じた違和感を尋ねたかったのだが、背中から話しかけるなとオーラを垂れ流しにされては黙るほかない。
まあ、人事は尽くしたのだから、あとは彼女次第なので天命を待ち、もう一つの問題を──。
「おいこら」
「グエ」
このまま無言で別れる雰囲気だったので、スッと駅に向かったら服の襟を宮村に掴まれた。
「ん」
視線を伏せがちに、顔をくいっとスターバックスに向けて宮村が呟いた。
その吐息にも似た一言はついてこいという意味だろう。
仕方なく宮村に着いて行くと店内は混雑しており、かろうじて空いていたのは窓際の席だった。
先行注文式の店なのに、先に座って大丈夫なのだろうか。
「おい、レジに並んでいる人も多いのに大丈夫なのか? 注文してから座るのだろう?」
「こういう場合は先に席を取ってから注文するのよ。店もそう推奨しているわ。ま、スマホでもう注文しといたけどね。あんた、アイスラテでよかったわよね」
「別に構わないが、注文する前に聞いてくれないか?」
「贅沢言うな」
「解せぬ」
どういうことか。
できればフラペチーノとやらにしたかったのだが、強制的にアイスラテにされてしまった。
「……ふん」
心、ここに在らずとはこのような状態をいうのだろう。
何を考えているのかは知らないが、誘ってきた割に宮村はぼうっと窓の外を眺めている。
「お、雨だ」
「そうね」
ポツポツと音が鳴り始め、窓ガラスには水滴が滴り始めた。
次第に雨足は強さを増し、鞄を頭に当てて走るサラリーマンが急いで駅に駆け込んでいく姿を目にする。
今日の天気予報は晴れだったので一過性のものだろう。
とりあえず、ドリンクの用意を待ってから私は宮村に話しかけた。
「で、あれはどういうことなんだ?」
「……あれって?」
「しらばっくれるな。せっかく竹ノ内氏も豚まんを気に入っていたのに」
「ふふ、そうね。あんなに素で驚いた隼人さん、初めて見たわ」
「そうであろう! これで豚まん爆撃の武勇伝も真実だとわかってもらえたようだな」
「それは武勇伝って言わないでしょ」
「え!?」
過去、東京の高校にて蔑まれた私が蔑んだギャル共に一泡吹かせたのだ。
武勇伝で間違いないだろうに。
「はあ、あんたに呆れるその子たちの姿が目に浮かぶわ……ふふふ」
「む、むう……いや笑い事ではないぞ!?」
何がおかしいのか知らないが、せっかくの豚まん爆撃が無駄になってしまったので私だってそれなりに不満を抱いていた。
──しかし。
「そうね、ごめん。あははっ」
屈託なく笑う宮村があまりに綺麗で、毒気を抜かれてしまった。
こんな風に彼女が笑うのは初めて見た。
表情を崩すだけでこんなに豹変するのか思ったところで、見惚れたことに気づく。
『ほう、なんじゃお主。この金髪女に鞍替えしたのか?』
「ぶっっ!?」
突然後ろから声をかけられて驚いたのか、心の浮気を正確に言い当てられて焦ったのかはわからないが、啜ったラテを吹いてしまった。
「ちょっ、大丈夫? 気道にでも入ったの? 布巾もらってくるから」
妙に親切にしてくれる意外な宮村の姿に驚きながら、私が醜態を晒す原因となった犯人を睨みつけようと振り返れば、空中幼女が目を輝かせていた。
『お主も隅に置けんのう! しかし妾としては現れぬ想い人よりも、この金髪美女に行ってもらった方が早く徳を貯めれるのう! さあさあ! はよ接吻の一つでもせんか! ほれ、接吻! 接吻!』
接吻コールを唱え始め、私の周りを漂い始めて空中幼女の頬を両手で挟んで引き寄せる。
『せっぷにゅにゅ、にゃ、にゃにをしゅるのじゃ』
「おいこらどっから湧いて出た?」
『ふん、妾はお主に憑いておると言ったであろう! なればこそ主がどこにいようと目の前に現れることに苦心する妾ではない。おどろけ、これこそ神の偉業……』
「何が神の偉業だ!? それではただの悪霊だろうが!」
『誰が悪霊じゃ! お主だって妾を見送った時はしっかり神に対する作法を守っておったじゃろう!』
それはこいつに頼み事をした時の二礼二拍手のことか。だがあれはそのまましばらく帰ってくるな、なんなら迷子になって帰ってくるなと念を込めた二礼二拍手だ。
「……そうだな」
『おい、なんじゃその態度は。妾に対する謀反とあらば相手になるぞ! しゅっ! しゅっ!』
いつかのようにシャドーボクシングを始めた空中幼女を見て平和の終わりを予感する。
正直、こいつがいないここ数日間は久しぶりに安穏の日々を過ごせていた。
誰かに変人認定されることも減り、まともに他人と接することができた貴重な時だ。
その平穏は今崩された。
早速、宮村にもいらぬ迷惑をかけてしまったしな。
『ほれ、お主に頼まれたものじゃ。この通り、しっかりと完了したぞ!』
「おお、それはありがとう」
空中幼女が自慢げにスマホをかざした。
その姿は宝物を誇らしげに掲げる幼児に他ならない。
微笑ましくもあるのだが、ちょうど宮村が布巾を持って帰ってきたので慌て受け取った。
宮村からしたら、空中にスマホが浮いている怪奇現象にしか見えないだろう。
「ほら、ちょっとコップどかして」
「お、おう……」
どうやら目撃されてはなかったようだ。
私がコップを退けると、長い金髪を耳にかけて彼女は机を拭き始めた。
「あ、それくらいは私が……」
「ん? って、あんた服にもかかってるじゃない。ほっとくとシミになるわよ。ほら」
親切にも宮村は私の胸元を、ポンポンと軽く布巾で叩き始めた。
まだ使っていない布面を水で濡らし、器用にシミを浮かせてとっていく。
──宮村の顔が近いっ!?