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あいかわらずの爽やかな秋空。
平日の午前中。
遠くで響く救急車のサイレンの音と、ときおり風の加減で聞こえてくる電車の音。
公園近くの自販機の前に、女の子と俺は立っていた。
「じーーーーー」
見られている。
カードを読み取らせてください、という音声。やがてピッと鳴ってガコンと飲料が落ちてくる。それを見た女の子が『わーー♡』みたいなちょっとした感動めいた表情を浮かべる。楽しそうでなによりである。
「なにがいい?」
「えっ!?」
出てきた缶コーヒーを取り出しつつ言った。振り向くとなぜか女の子も取り出し口を覗くべく屈み込んでいたが、俺が振り返ったことで、裏返ったような声を上げて起き上がった。リアクションがいちいちでけえ。
「そこまで驚くなよ。奢るって言っただろ。そのつもりでついてきたんじゃないの?」
「いえそれは、えーと……おに、おじ、えっと」
「……もういいよなんでも。おじさんでもおじーさんでも第六天魔王でも」
「だいろく……バス停ですか?」
この子、まちがいなくニュータウン育ちである。つまり地元の子なんだろう。
「うーん……呼びかた……うーん……じゃあパパで!」
「エクストリーム大却下だ」
「なんでですか! なんでもいいって言ったじゃないですか!」
「君、目の前にボタンがあって押すなよ絶対に押すなよって言われたら押すタイプ?」
地雷原で一歩目で大当たり引きそう。パパだけはまじでやめろ。
「押すわけないじゃないですか。押すなよって言われてるのに」
バカ素直だった。そしてこちらの意図はまったく伝わっていない。
「じゃ、じゃあせんせー♡とかはどうでしょう」
「なんでそう、滅びへの第一歩をスキップで踏み抜くようなことばっかり思いつくの? もういいよおじさんで。それが呼びやすいんだろ?」
「はい」
秒で肯定。
わかってたけど、なんかいま俺のなかに虚無が生じた。
「あのですね、おじさんが逃げたりしないかなって思いまして……」
「いまさらしないよ。女子中学生と鬼ごっこして勝てるわけないだろ。もう全力疾走なんて何年してないんだか」
「……」
無言でじーっと見上げてくる女の子。
「なんすか」
「いまのセリフ、おじさんっぽかったです……」
なぜか両手を組んで夢見るような表情。セリフと表情が死ぬほど噛み合ってないんだけど?
「かっこいい……」
「……」
なんだろう。ちょっと怖い。
「甘い、おいしい。甘くて当たりです」
「甘いと当たりなんだ」
「ちがいます?」
と、純粋な疑問の目で言う女の子。カロリーとかいいんだろうか。俺は最近、家系を汁まで完食するのをやめた。
結局、女の子が選んだのはミルクティーだった。ホットで、350ミリリットル入り。さっきのスマホもそうだが、手が小さいと相対的に持っているものが大きく見える。
俺たちは公園のベンチに戻ってきていた。MMOだったら家の敷地の争奪戦が起きそうな公園は、あいかわらずだれもいない。最初のポストの妄想は期せずしてほぼかなったかたちになっているが、いうまでもなく、かなったからといって嬉しいわけではない。むしろなにやってんだ俺、という気分のほうがはるかに強い。
「あの、自販機っていいですよね」
「なに、とうとつに」
「ピッって鳴ってガコンって落ちてくるの、よくないですか?」
「あ、うん。はい」
感性はよくわからんが、よいらしい。
いや、そうでもないか。俺も子供のころはそうだった気がする。
母親は経済観念のない人ではなかった。外で買う自販機の飲料が無駄遣いの筆頭だということはよく理解していたのだろう。子供のころはめったに買ってもらえないものだった。バイトを始めた高校のころは、まだ10円単位の価格差にこだわっていた気がする。
「やっぱ就職してからかなぁ」
「なにがです?」
ひとりごとめいた述懐に律儀に女の子が反応した。
とりたてて意味のないひとりごとに反応する相手がいる、という違和感から、一瞬遅れて俺は言葉を返す。そうだった。ここには会話の相手がいるらしかった。
「……いや、自販機。高校のときは金なかったからさ。いつからなんにも考えずに買うようになったんだろうなと思って」
「わたしは一日いっぽん買います」
野菜汁飲料みたいなこと言い出した。
「学校の売店のとこにある紙パックのやつが、いっぽん80円で安いです」
「まじで安いな」
「カレーヨーグルト味はハズレでした」
「商品化にGOサイン出したバカはだれだ」
そして買ったのか。
俺の高校にもそういう自販機があった。あれはパンの納入業者とかの絡みなんだろうか。ほぼ原価だろうから、差額分は学校が補填しているわけだ。高校のころにはわからなかったことが、いまなら想像はできる。だれかが仕事をして、それがそこにある。この子は、それを知る前の世界にいる。なんとはなしに、それが不思議だった。
「甘くておいしかったです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「あ、いまのもおじさんっぽくてかっこいいです」
「あのさ」
さすがにこれは放置できない。
「そのおじさんっぽくてかっこいいってなに?」
「えっ、それは……えっと……なんかこう……」
ろくろを回し始めた。最近この表現あんまりネットで見かけないな。これがろくろだとしたら、できあがった壺はクラインじみた謎形状をしてる違いない、というくらいに手をわたわたと動かしたあげく、女の子は続けた。
「大人っぽいといいますか……その、えっと、わたしっ、おじさんが好きなんです!」
「……」
「なっ、なんでそんな麦茶だと信じて飲んだ液体がめんつゆだった人みたいな顔するんですか!」
「え、なに。援交? 金銭目当て?」
まあ真っ先に思いついてしかるべきことではあったが、外見があまりにアレなんで無意識的に排除していた選択肢が、ここに来てようやく浮上した。
「そっ、そんなんじゃないです!」
「おっさん好きな女子高生なんて異世界にでも行かないと存在してないでしょ」
「そんなことないもん!」
顔を赤くして手をぶんぶん振り回しての必死の否定である。もはや手の軌跡が火焔型土器だ。ろくろ使ってねえだろそれ。
「とりあえず落ち着こうか」
「それに、わたしなんかとごはん食べてもしょうがないじゃないですか」
「うん?」
あれ。わかってないのか、これ。このレベルの名門女子高だと、援交とかパパ活じたいが都市伝説みたいな存在なのかもしれない。
「援交って知ってる?」
「やっぱり子供あつかいするんですね。それくらい知ってます。おじさんとごはんとか食べておこづかいもらうやつです」
「どこ情報?」
「友だちです」
「その友だち、こんな顔してなかった?」
うんうん。◯◯にはまだ早いよね。この子がやったらパパっていうより祖父活になっちゃう。そのままの◯◯でいてね。
という思いを込めて、なまぬるい表情で女の子を見てあげると、反応は顕著きわまりなかった。
「あーーっ、それです! 凛さんと同じ顔してます!」
リンサンだれや。まあ友だちなんだろうけど。外見だけ見たら赤ちゃんの作りかた知ってるかどうかすら怪しいもんな。ちなみに凛さん(たぶん字はこれだろう)は裏垢持ってるしスカートの下は黒ストッキングだと思う。成績だけはちゃんといい。昨今のラブコメならそういう設定である。そして援交は知識でしか知らない。義理の兄が好き。盛りすぎだ。
「あとさっき、どさくさにまぎれて女子中学生って言ったのちゃんと気づいてます」
どこまで遡るんだよ。思い出すのに一瞬時間かかったぞ。
そのまま会話が途切れた。
なぜなら他人だからだ。会話が続いているうちはいい。しかし途切れれば、ついさっきまで知らないどうしだった、という事実が立ち上がってくる。こうなると、なぜさっきまでまともに会話ができていたのか、逆にわからなくなる。
結局、女の子がなぜ俺に声をかけてきたのか、その目的は不明なままだ。しかし、知ったところでどうなるものでもない。潮時というやつだ。
早くに亡くなった父親方の親戚とのつきあいはほぼ絶無。母親方はそもそも親戚の顔すら知らない。学生時代の友人とはもう縁が切れている。20年近く、いわゆる天涯孤独というやつをやってきた俺としては、一人で生きていくことに関して持論めいたものがある。それは、孤独を飼いならすことだ。それは、厳然としてある。人間が社会的動物だからとかそういう理由付けはどうでもいい。とにかく、人間にはそれがある。空腹と同じだ。それに任せて行動すれば結果は体重と体脂肪率になって返ってきて、人の健康を損なう。
面倒ごとは避ける。
人間の過剰摂取は控える。
一人で生きていく人間がメンタルを維持するのなら、これが秘訣だと思う。
しかし人間とは不思議なものだ。この奇妙な出会いの終わりが近づいていることを、どうやら女の子も皮膚感覚で共有している。そのことが俺にもわかる。
女の子は、ぱっと飛び跳ねるようにベンチから立ち上がると、くるりと俺のほうに向いて言った。
「あの、おかしい子だって思ってますよね」
「うん」
「即答!?」
「自分に嘘はつけないタイプでね」
「あ、いまのもおじさんっぽいです。心のなかで、嘘つけ、いま嘘ついてるだろ、とか思ってたら満点です」
「……」
意外にやなこと言うな。護身が完成してるからってメンタルが鋼なわけじゃねえんだぞ。
「昨日読んだ小説に出てきたおじさんが、そういうこと言ってました」
「そっすか」
それからまたくるりと。俺に背を向けて、広がる景色を眺めている。弱い風にスカートの裾が揺れている。やっぱこの長さはダサい。全身ファストファッションおじさんがなに言ってやがるという話だが。
「わたしね、引っ越すんです」
俺に背を向けたまま、女の子が言った。
小さな背中だ。そして不意に思った。
この小さな背中にも、15年か16年、それだけの時間が積み重なっている。
それは、ほんとうに説明のしようのない感覚だった。駅の雑踏という不可算名詞の群れのなかから、とつぜん知り合いが飛び出してきたような、そんな驚き。モノクロだった静止画に色がつき、動画として動き出す。動画にはいつしか音声が加わり、まるで現実のように動き出す。
ああ、奇跡なんだ。
脈絡なくそう思った。ひとりの人間が生まれ、15年の時間を過ごし、意志を持つ存在となる。それだけなら雑踏の一部でしかないのに、なんの因果か、この女の子はいま俺とこうして話している。
「この街で生まれて、この街で暮らしてきました。そこを離れるんです」
「そうだな」
「わたしね、きっと一人になったことなかったんだと思うんです。えっと、もちろん登下校のときは一人だったりしますけど、そういうことじゃなくて。今日、担任の先生に挨拶をしてきて、それで、校門を出て、そしたら――空が、すごく青かった」
「ああ」
見上げる。
いちばん純粋な空の色はどの季節のどのタイミングに存在するのか。
それはたぶん今日だ。
「それで、一人で駅に向かって、そこで、おじさんのポストがおすすめに流れてきたんです。そこにはこう書いてありました」
今日は死ぬのに最適な日だ。どこかの詩人はきっと空を見上げてそう言った。そのときの空はこんな色だったんじゃないだろうか。海碧の青さでどこまでも無限に広がる。その美しさを共有できないとき、人は歌ったり書いたりする。そんな言葉や声を吸い上げでもしなければ、こんな青にはならないはずだ。
駅を出たときに投稿したものだった。
「わたし、なんだかすごく……えっと、ほんとによくわからないんですけど、それを見ただけで涙が出てきて、ほんとに、ほんとうに空がきれいだなって思って、それで、この人に聞いてほしくなったんです」
女の子は、こちらを振り向いて手を広げた。この景色を見てください。そう言いたいかのように。
「この街のことを。わたしが過ごした時間のことを。この街を離れて、いつかは新しい街にも慣れて、だれにも共有されなかったわたしの記憶が薄れてしまう前に。この文章を書いた人に、聞いてほしくなりました。それが、わたしの『どうでもいい話』です」
女の子はあらためて俺に向き直って、ぺこりと頭を下げて言った。
「わたしの話を、聞いてくれますか?」
「……」
ああ、参ったな。
これで断れるやつがいるんだろうか。
遠く響く音につられて景色を見る。派手な色彩の電車が走っている。もしやと思って、スマホのカメラで限界まで拡大して写真を撮った。
「……アニメのラッピング電車、一日一本って言ってなかったか?」
「すいません。ハッタリでした」
どうやら見た目よりはしたたかなようだった。
今日は退屈しなさそうである。