表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

 泥のような眠りというものが得られなくなったのはいつごろからだっただろう。どすんというとつぜんの轟音に叩き起こされて最初に思ったのはそれだった。いま俺は泥のように眠っていたのではないか。そうか。これがそうだったのか。だからいま俺は死ぬほど眠くて朦朧としているのだ。38歳ともなるとこれほどの深い眠りは貴重なのだ。

 などと考えてから猛然と腹が立ってきた。なんだいまの音は。地獄の残業シリーズ明けでようやく得た有給の朝の惰眠をよくも中断させてくれたな。なにしろ半分寝ぼけているものだから、怒りは簡単に殺意まで到達してしまい、それから『そっちの角いいかー』『おーけー』などというやりとりが聞こえて、少し冷静になった。引っ越しらしい。ここでようやく頭が回り始めた。いくらなんでも眠りを中断されただけでブッ殺してやるは沸点が低すぎる。

 とはいえ、いらだちがそう簡単に収まるものでない。なんとはなしに枕元のスマホを取り上げると、時間は午前9時。昨夜は夜の10時すぎに帰宅して、1クール分と新番組分がまるごと溜まってるくらいのアニメも見ずに、そのままスーツ姿でブッ倒れるように寝たので、これでも11時間睡眠である。それでいてなおこの眠気。いっそ明日の朝まで32時間睡眠にでもチャレンジするか。

「……いや、起きるか」

 スマホ画面の時間のみならず日付が目に入って、俺は頭を小さく振った。

 10月23日。

 母親の命日だった。


 シャワーを浴びて、冷蔵庫のなかの残りものでてきとうに朝食を済ませる。だれに会うわけでもない。服装はカジュアルで充分だ。

 外に出ると、ここ最近では珍しいほどの快晴だった。まぶしい。気温は涼しいの下限という感じ。パーカーだと暑いがTシャツだけだと微妙に寒い。

 さきほど俺を極楽のような快眠から一気に現実に引き戻しやがった引っ越しの業者たちは、毛布にくるまれたどでかい物体を2人一組でえっちらおっちらと運んでいる。ルートはすべて階段だ。そう、俺の住んでいるアパートはとんでもない崖の上にある。駅から徒歩5分。2DKが7万。この地域では破格を通り越してイカレている家賃だが、ものごとには裏がある。その徒歩5分はほぼすべて階段なのである。家賃に惑わされてホイホイと食われにきた素人が、毎日階段通勤という現実に直面してすぐに引っ越していく。10年も住んでいるとそんな光景は何度も見かける。まじ定着率低すぎ。必要な体力づくりの一部だと割り切ればそこまで苦にはならないと俺は思うのだが、それでも昨日の夜みたいに疲労のピークだったりすると、さすがに恨めしくも感じられるときもある。なお段数は数えたら負けだと思って一度も数えていない。

 不揃いでぐねぐねと曲がった石段を降りて駅まで徒歩5分。いつもの駅のホームは、通勤時間帯とズレているせいで閑散としている。最近新しくなったホームのベンチに座るとスマホが通知を知らせるべく震えた。手に取って画面を確認すると婚活相手からのお断りメール。

 ああ。

 俺は手で目を覆って声もなく呻いた。38歳。後がない。




 墓参り以外では来ることのない駅で下車。ご存知、熾烈な通勤ラッシュと沿線のハイソさでおなじみの某路線である。こんなところに墓地などあるのかというと、意図的に残されたのか、地主の抵抗で残ったのかは知らないが、駅からそんなに離れていない場所に風致地区めいたところがあり、そこに、里山、水田などとセットで寺もあるのである。父親の系譜をたどると、このニュータウンが開発される前の地主だったようで、その縁で、俺が幼少のころに死んだため記憶すらまともに残っていない父と、就職が決まったと同時に死んでしまった母親とが眠っている。

 駅舎を出ると、ちょっとしたバスロータリーがあり、排ガスまじりの生ぬるい空気が押し寄せてくる。駅前を歩いているのは老人が多い。どこの街でもそうだ。

 駅はすり鉢の底のような場所にあり、駅からはどの方向に進んでも上り坂である。道沿いには低層のビルが立ち並び、一階部分は軒並み路面店。おしゃれなカフェやヘアサロン、雑貨屋、動物病院。街路樹の雰囲気もあいまって、全体的には世帯収入の高さを思わせるが、それでもせんべろを謳うチェーン店などもある。

 駅前通りを途中で右に折れてしばらく歩くと、いきなり視界が開ける。

 公園だ。

 住宅街の斜面を覆い尽くすように広がる圧倒的ないちめんの緑。計画的につくられた街だからこそ実現できた「完全になにもない公園」である。しいていうなら、敷地を縁取るちょっとした樹木、そして点在するベンチ。それくらいしかない。そのベンチのうちのひとつに腰掛けて空にスマホを向けた。

 今日の空は青い。それも、ばかげて青い。

 そのままSNSにアップする。


 38歳、独身。これといって特徴のない人間だと思う。履歴を列挙すれば、高校までは公立、大学はそれなりにがんばってそれなりの国立に。女手ひとつで俺を育ててくれた母親には頭が上がらないが、いくらなんでも死ぬまでがんばることはない。決して丈夫な人ではなかった。バイトと奨学金をフル活用してなお生活は楽ではなかった。臨終のベッドで先に死んじゃってごめんねと繰り返し謝罪されてもこちらとしては対応のしようもない。むしろ息子一人なんてコストばかりが嵩んでメリットが少ないと責めてくれたほうが実態に即していた。いまとなっては下げる頭の向かう先もなければ恩返しのしようもない。

 その母親の命日を、16年目にしてうっかり忘れた。

 もう一度スマホを空に向ける。SNSにアップしようとして、ふと言葉を添えた。人には空がやけに青く見えるときがあるという。ひょっとしたらそれは今日かもしれない。

 いくつかのいいねがついた。俺に特徴があるとしたら、このアカウントがそれかもしれない。フォローは0、フォロワーは8000ほど。内容は写真やそのときどきのひとりごとだけで、もう15年ほど運用している。交流はいっさいしない。オフで人と会ったこともない。今日も駅からの道すがら、いくつか投稿していた。

 つらつらと思い出す。たぶん、3回目だ。最初は大学の合格発表を見た帰り道。あの日はやけに寒くて最高気温が3度だった。朝にニュースを見た母親が『路面の凍結に注意してね』と道路の標識のようなことを言い出したのでよく覚えている。番号があるのを確認したその帰り道、ふと見上げた空が、いっそ金属の光沢を思わせるような青さで青かった。

 二度目は、火葬場。

 人間の遺体を焼き尽くすには時間がかかる。そのため遺族の待合室があるのだが、さほど距離の近くない親戚たちが交わす雑談が存在する空間に耐えられずに外に出た。

 振り返った火葬場の煙突から広い煙が立ち上っていた。

 それが母親のものであったかどうかはわからない。ただ、このあいだまで病床で弱々しく笑っていた母親の肉体が、いま炎に包まれているのだということを痛烈に実感した。足元に穴が空いたような気分だった。

 そして今日。たぶん、三度目なのだろう。

 なぜ今日、空がそんなに青く見えたのか。その「なぜ」をいま追求する気は起きなかった。ただ、索漠としていた。このまま透明な煙のようなものになって、あの空に吸い込まれても、現在の俺は文句ひとつないだろう。

 空を仰ぐ。

 多くの大人たちと同じように、俺にはこんな話をする相手はいない。だとしたら、SNSにでもつぶやくしかないのだろう。たぶん文章というのは、その人のだれにも共有されなかった部分がそれを書かせるのだ。

 何度か書いては消し、やがて、まじめに書くようなことでもないという結論に至った。


『今日は消えるのに最適な青空なので、学校をサボった概念の女子高生にどうでもいい話とかされてこの世に繋ぎ止められたい。お誂え向きにここは公園であり、ベンチがあり、自分は有給で、平日だ。すべて整っている』


 結果として出てきた文章がこれだ。我ながらどうなんだ。そして怒涛のごとくつくいいねの数々。いいかげんにしろ。俺はそういう芸風ではない。

 でもまあ、そんなもんだ。こんな行き場のない感情はさっさと意味のないものと投げ捨てて歩くに限る。消しきれない憂鬱は、この世はきらきらしたものにあふれているのだといわんばかりに話しかけてくる女子高生の話に相槌を打っているうちに雲散霧消する。……まあ、最近の高校生、そんなにヌルくなさそうだけどな。あと高1だとそれくらいの娘がいてもおかしくない。ギャフン。真の絶望が俺を支配しようとしたそのときだった。

「あのっ」

 と、アニメ声がさらに裏返ったような素っ頓狂な声が背後から聞こえてきた。なにごとかと思って振り返ると、一目でそれとわかる名門女子高の制服を着た女の子が両手を握りしめて仁王立ちしていた。

「ごっ、ご注文の女子高生です! どうでもいい話をします!!」

「……」

 俺氏、無言。

 無言のうちに、ざわりと背中にいやな寒気が走った。

 やらかした。

 完全にやらかした。

 握りしめた拳に力が入りすぎているのか、ふるふると全身を震わせ、もはや涙目になりかけている女の子は、引きつった声で高らかに宣言した。

「たっ、対よろ!!!」

 春風を思わせるやさしい風がふわりと、俺と少女のあいだを吹き抜けた。

 ……どこでこんなの覚えてきたんだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ