第七筆
厄子との一戦から数刻経つが、チャイの容態は一向に治らず、薄く吐息を漏らして苦痛に耐えている様子であった。
「お前から見てどうだ」
猫がアンドアに問いかけた。軽薄な部分はあれど観察眼には目を見張るものがあると買っていたからだ。
「……今まで厄子になった奴らは瘴気を発して自制が効かなかったが、チャイちゃんの場合はそこまで進行していない。とはいえここから回復するかも分からないって感じだな」
ふと道中の記憶を振り返る。アンドアが厄子となった人間を弄り回す場面があり悪趣味な奴としか思っていなかったが、認識を改める必要がありそうだ。
「本当なら元気になるまで看病してあげたいところだが流石に疲れたな。交代で仮眠とりながら看るか?」
「いい。俺が治るまで看る」
猫はチャイの隣に座りじっと彼女を見つめる。誰よりも動き回ってぶっ倒れそうなほど消耗しているはずなのに。彼は痛みを共有するように傍らを守っていた。
「……なあ、どうしてそこまで必死に守ろうとするんだ?」
アンドアが問いかけた。猫の行動は恩人に対する恩返しにしては度が過ぎておりもはや強迫観念に近い。ずっと一緒に暮らしてきた家族でも親友でもあるまい彼らをなぜ過激に助けようとするのか彼が疑問を抱くのは自然であった。猫は数秒考え、分からないと答えた。
「理由は思い出せないがずっとやってきたことだ」
回答に納得したわけではないが、無理やり問いただすことでもない。彼はそうかと寝支度を終えて横になった。
アンドアの灯した薪が夜の静寂に熱を音を光を与えてくれる。洞は柔らかな暖色に包まれ、張りつめた不安が少しずつ和らいでいく。猫は自らの影に覆われる彼女の顔を眺めていた。
漂う瘴気が薄れていくにつれて険しい眉はほぐれ、口元も緩んできた。苦しみが消えずとも癒えてきたのだろう。快方に近づいていると意識すればたちまち疲労がこみ上げ、彼女はそんな彼の裾をそっと引いた。
「猫ちゃん、ありがとう」
祖父ばかり呼んでいた声が自分に変わり驚く。静かに首を振る猫を見てチャイは笑顔を見せた。
もうすぐ夜が明ける。背負うべき罪はあれど、一緒に朝を迎える人がいることがとても嬉しかった。嬉しいはずなのに、いつまでも纏わりつくこの胸のざわつきはなんだ。あと一歩で掴めそうなのに、どうしようもなく足を引っ張るこの感覚はなんだ。
予感はしていた。世界はやがて崩れ落ちる。
浮かび上がった深奥の欠片に気を取られた一瞬、目の前が赤く染まった。次に視線を奪ったのはチャイの腹を突き破って現れた奇怪な血の化身だった。
チャイの叫び声に我を取り戻す猫。その間にも血の化身は彼女の腹を捻りながら大きくなっていき、遂に主である彼女に牙を向いて顔面を殴った。
切っても血を飛び散らせながら復元する化身。血で形作られた腕を大きく上げて振るわれた二撃目を猫は白法紙の面で捉え弾き返した。しかし化身はチャイから血液を絞り上げて修復をしている。
「十字架は厄災さまに捧げられるべきなのだ……」
化身はそう呟いていた。どこかで聞いた覚えがあれど思い出せない。
「チャイちゃんの手を切り落とせ!」
遠くでアンドアが急かし叫ぶ。猫にその意図を汲み取る余裕は無かったが、それが意味するものは彼にとって受け入れがたい未来であった。
「これ以上チャイちゃんを傷つけたくないなら早くやれ!」
猫はチャイの顔を見た。チャイは表情を歪めて酷く苦しんでいた。どれだけ慮ろうが彼女の筆舌に尽くしがたい苦痛を想像することもできないだろう。彼女が彼の苦痛を理解できないように。
「おじいちゃん、猫ちゃん……」
「早く!」
「十字架は厄災さまに捧げられるべきなのだ!」
極限にまで追い詰められた猫の取った選択は、血の化身よりも早く彼女に介錯を施すことであった。チャイの手が切り落とされると化身の拳はびたりと止まり、化身は血の池となって広がった。
「おらお前の獲物がこっちにいるぞ」
アンドアが転がっていた死骸の手を掲げると、血の池から現れた何かは一直線に死骸へ向かっていった。よく見れば死骸の手のひらには大きな穴が開いている。
「十字架は厄災さまに……十字架は厄災……十字架……」
死骸に乗り移った何かはぶつぶつ呟きながらガンガン頭を打ちつけていく。アンドアが火を放とうがしばらくは持てる力で暴れまわっていたが、突然こと切れたように突っ伏した。
「次から次へと化け物揃いかよ。こりゃさっさとこんな森抜け出さねえとな」
悪態を吐きながら洞の中を見渡して他に死体が無いか探すアンドア。くるくると回って、最後に中央の死体へ視線を送る。亡き朋の忘れ形見であった死体を。
燃え尽きた焚火の灰を冷え切った風がさらっていく。空が白んで、間もなく世界は朝を迎える。
落ち葉、枯れ枝、土砂、猫は血混じりとなった自然の残骸を彼女の腹へ戻していた。虚空を望む黄金色の眼が見据える先はいずこ。繰り返し繰り返し腹を満たそうとかき集める。
「何をしているんだ?」
アンドアが問いかける。猫は呟くような声で生き返らせると答えた。
「そんなことをしたって生き返らねえよ」
「……生き返る。ずっとそうしてきた」
「生き返らねえんだよ」
アンドアは猫の手を掴んで言った。視線の先でチャイの顔が目に映る。辛く苦しい地獄の中で散っていった無念の顔。視線を戻し、彼は力無い猫の手を握りしめて語りかける。
「いいか。死んだ人間は生き返らない。お前のしんどくて仕方ないその重みは一生背負っていかなきゃいけねえんだ」
激情をアンドアへぶつけようとする猫。しかし彼の表情を目の当たりにした途端、自然に怒りは引いていった。アンドアはでもなと話を続ける。
「別れがあれば出会いがあるもんだ。お前とチャイちゃんが出会えたように」
アンドアにつられて洞の出口へ振り向く。気づけば日が昇り、外はすっかり明るくなっていた。穏やかな日差しに混ざって小さな影がこちらを覗いている。
「ちょうどいいや。こいつ落ち込んでてさ、励ましてやってくれよ」
アンドアは小さな影に駆け寄るとそのまま連れてきた。編み笠を被った妖精は明らかに困惑した様子であったが彼はお構いなしに話を進める。
「俺この後用事があってさ。こいつのこと頼んだぜ」
「あ、あの、えっと……」
編み笠がまごまごしている間に、アンドアは全てを任せて去ってしまった。
「良さそうな洞を探していたらあなたたちを見つけて、妖精同士仲良くなれないかなって思ってたんですが、そんな空気じゃないですね……」
編み笠が懸命に話しかけるも猫が応じず重苦しい緊張感が流れる。けれど編み笠は場を離れることもせず、きょろきょろと周囲を一瞥しながら猫に歩み寄った。
「厄子にやられたんですね」
答えが来ずとも、凄惨な一幕があったことは少女の姿を垣間見れば想像がつく。それよりも気がかりなのは彼の様子だ。まるで少女の後を追ってしまいそうな雰囲気に編み笠は
あれこれ考えながら話しかける。
「急に外から来た僕にあなたの気持ちは分からないかもしれませんが、気持ちを吐き出せば楽になることもあると思います。だから何があったか話してくれませんか」
編み笠は彼の手をぎゅっと握りしめたまま真っすぐな眼差しを送ってくる。猫は彼に目を合わせて問いかけた。
「……死んだら全てが終わるのか?」
猫の鋭い目に編み笠の目が泳ぐ。何て答えたらいいか、なんて考えていたらダメな質問だ。編み笠はもう一度猫の視線に合わせて、それから目を伏せて感じるまま答えた。
「僕は死んだら全部終わりだと思います。でもその人の全てが消えるわけじゃない。生きている人たちに繋げることができる。だからみんな伝えようとするんだと思います。ここに自分がいたって証明したいから」
「……俺にも伝えられるか。こいつがここに生きていたって」
猫はチャイへと視線を向ける。死の間際、彼女は命を尽くして感謝を伝えていた。祖父と自分ともう一人、クフネという人物へ。
猫が立ち上がると編み笠は嬉しそうに頷いていた。そして洞を出ようとする猫を呼び止める。
「連れていってあげてください。あなたの旅路に」
編み笠が猫へ手渡したのはチャイの赤ずきんであった。猫はそっと受け取ると自らへ身に着けて洞を旅立った。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。僕の名前は全書と言います。あなたの名前はなんですか?」
名前、遠い昔に師匠から授かったものがある。呼ばれなくなって久しいが彼がその名を忘れることはなかった。彼は自らを訴訟と名乗った。