第六筆
円環する四つの翼は中心を覆い尽くすほど大きく、瞬く度、敵も味方も吹き飛ぶほどの強風が巻き起こる。無機質な空気と異彩を放つそれを生物と評すのも似つかわしくないが、あえて何かに形容するのならば、同じく得体の知れぬ厄子と称するのが相応しいだろう。もっともこれまでの厄子とは格の違いを感じるが。
猫は翼の厄子が羽ばたく間を縫って一気に距離を詰めると、一翼目掛けて半紙を全力で切りつけた。しかし強固な羽根に傷つけることは叶わず、猫は瞬きを受けて吹き飛ばされてしまった。アンドアが隙を見て猫を回収する。
「最後にとんでもない門番がいたもんだな」
「もう一回……」
「何回やっても変わんねぇよ。それより聞け。分かったことが三つある」
厄子へ向かおうとする猫を双眼鏡で殴り、そのまま覗くよう促して話を進める。
「一つ目。あの大型の厄子は他の厄子と仲間って訳でも無さそうだ。証拠にあいつの吹き飛ばしに怒った小型が向かっていって返り討ちにあってる」
彼の言う通り、大型は孤立奮闘といった様子で小型の襲撃を受けていた。加えて、分析の視点で観察しているともう一つ特徴に気づいたが先にアンドアが二つ目として挙げた。
「二つ目。大型は自分から攻撃はせず、敵が向かってきたときだけ迎撃を行う。付け加えれば、迎撃は一度きりで深追いはせずあの場から動こうとしない」
猫はアンドアの話しぶりに少し違和感を覚えた。淡々と説明しているようで言葉の端々に別の意図が窺える。思えば、彼が最初に大型厄子を表した言葉にも示唆を感じる。額を皺める猫にアンドアは三つ目を語る。
「三つ目。洞の中には子供の影一つしか見えない」
猫は双眼鏡を捨てアンドアの方を向いた。
もちろん、画角や明度、考慮すべき条件を全て満たした結論ではないがアンドアはあえて断言する口調を採った。その後もべらべら喋ろうとする彼の話を奪って猫は口を開く。
「お前はあの化け物が爺だって言いたいんだな」
ピタッとアンドアの声が途切れた。猫の表情を窺うと彼は頷いて大型の方を向く。
「……ああ。俺には、どうしてもジョンさんがチャイちゃんを守っているようにしか見えない」
遠くを見つめる視線が何を思うか。つられるままに猫も大型の瞬く光景を追いかける。
「ガキの苦しむ姿を見た。あいつの送り込んだ瘴気にやられているんだ」
「ああ」
「今ならまだ助かるかもしれない。そのために俺はあいつを殺す」
「……そうしてくれ。ジョンさんもそれを望んでいる」
アンドアに授けられた通り、猫は大型厄子が瞬く後静かな足取りで近づいた。大型を刺激しないよう敵意を抑えて――
「――敵意を向けなければ大型に近づくことは難しくない。余計なことは考えず真っすぐ進め」
続いて小型の厄子が大型に牙を向くとき、予想通り瞬きが起きた。風を起こそうと羽ばたく瞬間、翼の合間に僅かな隙が生じる。猫は半紙を地面に叩きつけ、一瞬の内に翼の裏側に回り込んだ。
「瞬きが起きる際、翼と翼の間に少しだが隙間ができていた。体の小さなお前ならそこに飛び込めば奴の内部へ入れる。そこから先は自分で考えな」
大型厄子の中心は驚くほど穏やかな空間であった。外から中を見ることはできないが中から外を覗くことはできるようで、翼の外側では小型の厄子は相も変わらず吹き飛ばされている。
猫が頭を上げれば大きな頭蓋骨があった。それは四つの翼と繋がり、ちょうど脳を閉じ込める部屋に光源が埋められていた。
猫は羽根伝いに登って光源に触れようとした。それは輝かしくも眩くはない奇妙な代物で柔らかな熱を感じる。同時に、これが彼の命なのだと直感した。
強い光を放ちながら無抵抗な命。その気になれば一振り、赤子の手をひねるより容易くこと切れる糸。少し前まで殺意を口にしておきながら改めて事の重みが圧しかかる。カゲを殺すことはあれど人形をこの手で殺めることはなかったからだ。虚空を眺める視界に洞の景色が映りこむ。
チャイの身体に瘴気が漂っている。ぶつぶつと呟いている様子で、道中に仕留めた人型の厄子と同じ気配を纏いつつある。しかし瘴気に憑りつかれたとして全てが終わるとも限らない。老人の全てを終わらせるか、少女の人生を狂わせるか。猫の決断を決めたのは耳に残る老人の核心であった。
「私にとってチャイはかけがえのない希望なんだよ」
猫は光源を切り裂き、少女の元へ駆け寄った。少女は酷く苦しんでいたが呻きながらも正気を保とうとしていた。
「おじいちゃん……苦しい……」
少女を助けるには覚悟が必要であると猫は悟った。核を失った大型はどろどろに溶けた後水蒸気となって霧散していく。消えゆく翼の厄子を一瞥して猫は自らの脚を叩いた。
「お前は俺が絶対に守る」
老人の死を選んだときから猫には決意があった。たとえこの先少女に仇として恨まれようと疎まれようと全て受け止め守っていく。それは自分が背負うべき罪なのだと。
洞の出口を固めるようにぞろぞろと厄子の群れが息を吐いて待っている。猫は少女の前に立つと半紙をはためかした。
「行くぜ白法紙。最後の正念場だ」
己の獲物に語りかけ、猫は鬼気迫る勢いで厄子の群れに飛びかかった。持てる余力の限り厄子の懐に渾身の一撃を叩きこむ。倒れようが噛みつかれようが咆哮を轟かせて息の根を断ちに迫る彼の姿は狂気そのもので、あれほど執着心を曝け出していた厄子でさえ狼狽えるほどであった。
一進一退の戦いの中、一体の厄子が少女に襲いかかる。猫は自らを捨てて一体を屠ったが、間隙を突いた厄子の群れが猫へ一斉に飛び乗り、猫は防戦一方となってしまった。
身体を押さえつけられ成す術が無くなるも、一歩も洞へ進ませまいと威嚇し続ける猫の肉を食いちぎろうとする厄子。文字通り、身が引き裂かれる痛みと生臭い血と涎の臭いに耐えあぐねている中、急に鼻をつんざく臭いが混じり込んできた。鼻腔を刺激するくらくら、けれども甘く華やかな臭い。思考を巡らすのも束の間、猫は身体の芯まで焦がす灼熱の炎に悶え苦しんだ。
猫と同様に厄子の群れも火だるまとなり、蜘蛛の子を散らすように洞から飛び去っていく。対して地面に身体を転がして熱を逃がしている猫の前には聞き慣れた声が現れた。
「勝利の美酒を手放すのは口惜しいが、想像以上に上手くいったな」
アンドアは得意の舌を存分に回して笑みを浮かべていた。