第五筆
暖かな光に満ち溢れた時間は過ぎ去り凍てつく闇が薄く広がっている。毛並みを撫でる薄気味悪い靄とどこからともなく鳴り響く遠吠えが不安や恐怖を増幅させる。
猫は歯向かうものをかまいたちの如く切り刻み、さらに速くさらに遠くへ半紙を打ちつけて駆け抜ける。一つ二つ敵を薙ぎ払い屍を積む彼の素振りは同じ状況を幾度と潜り抜けてきたかのように慣れた手捌きであった。
混乱の渦に巻き込まれる群衆のざわめきが聞こえる。群れの流れに逆らい源流の方へいずれば、道中聞き覚えのある声に足が止まった。アンドアを視野に入れた途端、猫は突進する勢いのまま彼にぶつかり胸倉を掴みあげた。
「赤い頭巾のガキを見たか」
睨みつける視線にアンドアは動じなかった。猫の放つ重厚な空気にも呑まれず平然として応対する。
「お前、ジョンさんとチャイちゃんが匿っていた猫か。てっきり厄子が襲いかかってきたかと――」
「赤い頭巾のガキを見たかって聞いてんだよ!」
苛立ちのまま怒鳴りつける猫。しかし依然としてアンドアは静謐な精神を保ち、遠くから厄子が歩いてくるのを一瞥するとにやりと笑みを浮かべた。
「どうだったか、赤い頭巾にも色々あるからな。パーカー、ローブ、コート……もう少し特徴を教えてもらえると助かるんだが」
わざとらしく顎に手を当て、彼が舌を走らせるほどに猫は煩わしさを募らせていく。けれどアンドアは猫の煩わしさなど気にも留めず、その間にも厄子はふらふらとした足取りで彼らの背後に忍び寄る。
遂に猫の怒りが我慢が限界に達しアンドアを怒鳴りつけようとしたとき、彼は大声で猫の意識を刈り取り真っすぐ、つまり猫の後ろを指し示した。
「もしかして、あいつみたいなのか?」
猫が振り向いた頃、厄子は鋭い奇声を叫びながら目の前にまで差し迫っていた。瞬間、猫がパっとアンドアの服を離し厄子の頭突きを半紙で受け止めると、厄子は磁石が反発するように吹っ飛ばされた。怯む厄子に猫がすかさず喉元を掻っ切ると、しばらくの間はじたばたしていたものの動きが止まると瘴気も消え、人間の骸が転がる。
「中々やるねぇ」
猫の手際にパチパチと賞賛を送るアンドア。亡き者の死骸を無邪気に弄る彼を見て、猫は冷ややかな視線を残し去ろうとしたが、アンドアは突如「見ていない」と答え注目を集める。
「チャイちゃんは見ていないが、どこにいるか見当はつくぜ」
背後を許しながら不敵に笑うアンドアに猫はくるりと翻して近寄った。群衆は遥か彼方へ消え、辺りには木々が揺れる音、薪に燃え盛る火の音、そして風に乗って流れてくる不気味な声が響いている。混ざり合う波に紛れ、猫は彼の首に半紙を振るう。
「どこにいる」
首元に添えられた半紙を伝って猫の気迫が感じられるもアンドアは冷静であった。気にも留めぬといった態度で会話をけしかける。
「その前に一つ聞かせろ。チャイちゃんとは何ではぐれたんだ?」
「どこにいるかだけ答えろ」
「……大方、洞から飛び出したチャイちゃんをお前が必死に探してるって状況なのは察しがつくがこれだけじゃ材料が足りねぇ。早く見つけたいなら何が起きたか全部話せ。それともこのだだっ広い森をぐるぐる駆けずり回るか?」
未だ背を向けた状態にも関わらず堂々とした振る舞いに猫は矛を収めた。元々この男を殺すことは目的ではない。猫は朧気ながら自身が目覚めてから起きた事柄を彼に伝えた。老人を襲うカゲを仕留めたこと。その最中に少女が洞を出て行ってしまったこと。
誘導しつつ猫からあらましを聞き出すとアンドアは早速チャイの居所について自論を述べた。
「――このぐらいで十分か。お前、帰巣本能って知ってるか?」
「結論だけ話せ」
「まあ聞けよ。人間には自分の居場所に帰りたくなる性質があるんだよ。じゃあこの森においてのチャイちゃんの居場所はどこだ?」
「結論だけ話せ。三度目は無いぞ」
「……チャイちゃんにとっての居場所はジョンさんだろうな。逃げた後もチャイちゃんはジョンさんの元に帰りたかったはずだ。しかし帰るにもチャイちゃんにはお前という脅威が残っていた。さてチャイちゃんが次にとった行動は何か――」
猫の半紙を取り出す動きを見てアンドアは上ずった声を戻し語を繋げる。
「――といえば脅威であるお前が洞を出るまで見張っていただろうな」
「つまり脅威が去った今、ガキは爺の元に戻っているってことか」
得心づいて赴く猫を引き留めるアンドア。話を続けながらゆっくり猫に近づいていく。
「洞に戻る気か?」
「ああ」
「厄子の数が増えている。無事なら別のエリアへ避難しているだろうし、そうじゃないなら今から行っても手遅れだろ」
「関係ない。俺には二人を守る道しか必要ない」
一切の迷いもなく言い切る眼にアンドアは初めて気圧された。その言葉からは、まるで自分がどうなろうと目的は成すといった彼の危うくも強い想いが感じられる。取ってつけた思いつきでは決して曲げられぬ誇りに賭けた信念が。
アンドアは静かに笑みを浮かべる。
「そっか。じゃあちゃっちゃと済ませなきゃな」
「……なぜお前も行こうとしている」
打って変わるアンドアの応対に戸惑う猫。アンドアはまるで当然かのような物言いで首を傾げた。
「お前と話してたらすっかりみんなとはぐれたからな。ほら、お前としても守る奴が固まってた方が守りやすいだろ」
アンドアの意見にこみ上げる怒りもあるが、最も優先すべきは二人の安否だ。彼の推測が当たっている保証もない。猫は脚を小突いて弾みをつけると、眉をひそめつつ急ぎ駆けていった。
立ち込める濃霧はざらつく面紗となりて月影を遮る。連なり、容赦なく押し寄せる厄子の群れに猫は疲弊、けれども力強い一振りを持って制していく。
「おい撃ち漏らしてるぞ!」
松明の明かりに従い、また一体襲いかかる敵を払う。
「もう十体は倒したか。この辺に限って異常に密集してやがんな……」
数も質も、野営地に現れたものとは段違いの上に力を増していく厄子。洞よりなだれる瘴気をその身に重畳させ、より強い野性の執着を帯びて食らいつく。一方でアンドアを庇いながらの攻防に猫の傷は増えるばかりだ。
一筋縄ではいかぬ敵に対して悪戦苦闘の状況が続く。しかしここが意地の見せ所とアンドアは松明を振りかざして檄を飛ばした。
洞の方角から舞い込む凍てつく向かい風はただならぬ気配と雄叫びを運んできた。呼応するように、厄子たちは二人を袖にして洞へと帰っていく。
厄子を惹きつける何かへ全身が警鐘を鳴らす。しかし猫はおろかアンドアさえも引き返そうとはしない。かじかむ手を握りしめ着実に歩を進めていく。
煌々と彼らを照らしていた月が沈み、禍害を招かんと色濃く染まりし闇を仰げば、不安を煽る風が松明の灯を消し去った。同時に、暗闇の中で強烈な存在を放つ光に目を奪われる。洞穴を塞ぐように、それは自らから溢れ出る瘴気を巨躯な四つの翼で吹き飛ばし悠然と佇んでいた。