第四筆
唐突な来訪者は不躾に洞へ侵入するといの一番にチャイの腕を強引に掴み上げ、冷ややかな声で呟いた。
「十字架よ。厄災さまが探しておられる」
そのままチャイを連れて行こうとする男を引き留めようと向き直ったとき、私の眼前に異様な光景が広がった。夜空をさらに黒く塗り潰さんと瘴気が満ち満ちていたのだ。
「今こそ罪を償い我らに福音をもたらしたまえ」
男は一方的にチャイの頭巾を顔が見えなくなるほど覆い被せ、無理やりにでも外へ連れて行こうとしたため、私はやめるよう男の手を掴んだ。
「この子を差し出して事態が収まる保証はないだろう」
男は掴まれた腕を一瞥した後、私と視線が合う。彼は私の手を振り切り、凄む口調で私に圧をかける。
「収まるさ。これまでもそうであっただろう」
「徒労としか思えんな」
「何が言いたい」
男は私の首に手をかけた。激昂した表情からは相当の信心深さが窺える。私もやっとの思いで抵抗するが男の腕を振り払えない。
いつもであれば虫唾の走る教義も聞き流していたであろうに。どうやら私も想像以上の激情に駆られていたらしい。
「貴様、我らのためその身を捧げてきた十字架たちの崇高な信念を愚弄する気か!」
「崇高な信念だと?」
ずっと首元に留めて押し殺してきたのに、締め上げられる苦しさと共に私は衝動を赴くままぶちまける。
「言葉をすり替えるんじゃない。彼らは我々に殺された被害者だ。我々は死の恐怖に苦しむ彼らをおぞましい像の中へ押し込め虐殺した殺人鬼。そのくせあたかも彼ら自身が自らその身を捧げたかのようにのたまう卑怯者でもある。この子じゃない。罪を償うべきは罪人である我々じゃないか!」
「おのれ異端者が!」
男は一層力を込めて私の息を止めにかかる。もう抗う力も無くなってきたが、ずっとしまいこんでいた本心をこの子の前で言うことができてよかった。だが私が倒れればチャイが連れていかれてしまう。私は最後の力を振り絞ってチャイに逃げるよう手振りを示すが、チャイは私の指示に従うことなく私を助けようとしていた。思考もぼんやりとして身体の力が抜けてきた。そして意識の遠のくと感じたすんでのところで男の手が離れた。
一瞬の内にせき止めていた力が無くなり私の頭にも酸素がなだれ込んでくる。首元を確かめて咳払いを数回、ようやく何が起きたか確かめようとするくらいに意識が戻ってきた。男の悲鳴を耳にして私が声の方へ顔を向けた頃、彼はひたすら猫に滅多打ちにされていた。
被毛をなぞりようやく視認できるほど僅かな瘴気であったのが、今はまるごと彼を隠しきるほど包み込んでいた。猫はまるで悪魔に憑りつかれたかのように拳、いや手に持つ何かで彼を殴打している。チャイがあまりの恐怖に洞を飛び出してしまったが私はただ茫然と男が殴られ続ける様を眺めていた。
打音は始めこそ鈍く低い響きであったが、皮膚を裂き中身に到達すると水分を多量に含む高い音へ変化していく。その不快な悪い音と鼻をつんざく血生臭い匂いは私を陰鬱で満たし次の一歩を塞いでしまうに十分であった。
男を殴る猫の手が止まったのは突然であった。うめき声を漏らし頭を抱えたかと思ったら彼は大きな声で苦痛を訴え始め、彼の苦しみに呼応するように瘴気は色濃く噴き出した。男が垂れ流した血だまりに構うことなく横たわりじたばたする猫の様相に、私まで苦しくなってしまい静かにうずくまる。
気分が悪い。思えば過酷な環境に逃げ込んでからというもの、常に気を張っていたように感じる。加えて窒息するほど首を絞められ自制の崩壊、屍の臭気は意識を掠め取り猫の呻吟は私にあらゆる負の考えを注ぎ込む。遂に心労が限界に達した私は外界の一切を拒み、深い深い自我の園に砦を築き閉じこもろうとした。そのときだ。言葉にならぬ叫び声をあげていた猫が言葉を発し始めた。
「道を見失わないように……」
未だ苦悶の渦中に囚われている猫はたどたどしい口調でそう呟いていた。彼が何度も言葉を反芻し、繰り返されていく内に瘴気は色を無くしていきやがて彼自身の白い毛並みが露わになる。明瞭になっていく彼の姿が一縷の光のように映り、私はひたすら魅了されていた。自分に忍び寄る脅威にすら気づきもしないで。
洞を覗き込んでいた獣は足音も聞こえぬほどゆっくり中へ侵入し、感づいたときには私の目の前まで襲いかかっていた。死の前触れか、私の全身にピリつく痛みが走る。しかしこれを猫は素早い動きで切り伏せ、彼は力強い眼光で私を睨みつけた。
「もっと奥に隠れてろ!」
鈍い月明かりの下、猫はひらひらと舞う紙をその手に操り佇む。瘴気に苛まれ暴れていた時とは打って変わり、荒々しい空気を帯びつつも一本芯が通ったように物静かだ。彼は一振りの内に半紙に纏わりついていた血を払うと私に背を向け構えた。洞の外に蔓延る脅威へ備えるように。
「なぜ私を助けようとするのだ」
私の問いを彼が返すのに時間はかからなかった。彼は依然私に背を向けて答える。
「見ることはできなかったが聞こえていた。あんたは俺を助けようとしていた」
「恩義を果たそうというのなら相手が違う」
猫は私に一瞥をくれたが、すぐに洞の外へ向き直る。そのまま私は彼に語りかけた。
「お前を助けようとしたのはチャイ、赤い頭巾の子だ。私はただあの子にほだされ従ったに過ぎん。恩を返したいのならチャイを守ってくれ」
猫はただ黙っているだけであった。しばしの静寂が私に落ち着きをもたらし、無くしていた役目が浮かび上がってくる。私が彼女を迎えに行こうと起き上がれば、猫は阻むように腕を伸ばした。
「……赤い頭巾のガキだな」
元々二枚持っていたのか、猫は片手で掴んでいたはずの半紙を気づけば両手で握っている。そして私を洞の奥へ突き飛ばすと、彼は一陣の風になって悪夢の空に消えていった。