第三筆
移ろいの森は落ち着きのない森だ。じっと留まっていればいいのに、気まぐれに移ろっては旅人を惑わす。気分屋な森に振り回され疲れ果てた旅人は遂に森を受け入れ今度は順応せんと苦悩するようになるのだ。今日もまた、森に迷い込んだ流れ者を彼らはざわめきながら迎え入れる。
民衆が森に逃げ込んで一つ目の夜が過ぎた。森に逃げ込む際、散り散りにはぐれてしまった彼らが取る選択は様々であった。生き延びようと森に縋る者、在り方を求め羅針盤を探す者、浮かぶに堪えかね永久に救いを求める者。
昨日の事件について、多くは否定的に捉えるのに対し肯定する者もいた。老人もその一人だ。彼は孫と手を繋ぎ森を歩いていた。掌に穴を開けられた少女と。
「チャイ、手は痛まないか」
包帯越しにも少女の手は赤く滲んでいた。痛ましくもあったが包帯が限られる以上多少は目を瞑らざるを得ない。
「まだ痛むけど……おじいちゃんとまた手を繋げて嬉しい!」
少女は気丈に笑顔を振りまいてそう答えた。その姿が健気で老人の胸も痛むばかりであったが彼はそうかと頷き、昨日の出来事について思いを巡らす。
老人は死へ向けて行進する十字架たちの姿を柵の先で見守ることしかできなかった。顔は覆い隠されていたが、十字架の中でも特に背丈の低い孫はすぐ見つけることができた。彼女はどこかふらふらとしており怯えているようにも映った。まだ年端もいかぬ幼子の孫はどれほどの恐怖と重責を負ってあの場に立っているのか、なぜ自分はそれを眺めているだけなのか。すぐにでも柵を越えて連れ去りたいと考えているのに動かない。どこまでも保守に回る自分自身がただ恨めしかった。その時が来たなら溢れんばかりの後悔を持って己を慰めようとでも考えているのか。怒りを自分の拳にしかぶつけられない自分がただただ愚かで情けなかった。
老人はチャイの両手に視線を向ける。掌に深く刻まれた傷跡は生涯残り続けるだろう。老人は三度とあの儀式に屈してはいけない、そして二度とこの子を傷つけぬと心に誓った。
「おじいちゃん、猫ちゃんがいるよ」
チャイは老人から手を離すと横たわる猫のもとへ駆け寄った。
和装に身を包む猫。一見、猫のような見た目をしているが背中が真っすぐ伸びており猫の骨格とは異なる。老人は彼を妖精猫と呼んだ。
「妖精が一匹でいるとは珍しい」
「みんなとはぐれちゃったのかな。それに怪我もしてるみたい」
心配する孫を横目に、ぐったりとした様子の彼を注意深く観察していた老人が妖精の点に気づいた。見間違えかと再度触って確かめるとチャイに猫から離れるよう注意を払った。
「身体から瘴気が漏れている。もしかすると厄子かもしれん」
「厄子って?」
「一言で表すなら化け物のことだ。クフネさまが匣を壊されたときも何体か同じように瘴気を纏った怪物がおった。恐らくクフネさまにやられてここまで来たのだろう」
たとえ見た目が小さな猫の姿であっても、厄子に関わったらどんな恐ろしい目に遭うか。老人は可哀そうだが置いて帰ろうとチャイの背中を押したが、彼女は再び猫のもとへ駆け寄ってじっと様子を伺う。
「でもこのまま置いていったらこの子きっと死んじゃうよ。化け物だって決まったわけでもないし連れて帰ろうよ」
「……触らぬ神に祟りなしという。それに万が一厄子を連れ帰ったと知れれば、今度こそ追い出されるかも分からん」
「でも私はこの子のおかげで助かったかもしれないんだよ」
チャイは手に巻かれていた包帯を解き、傷口を老人へかざしてさらに言葉を続けた。
「この子が出てきてくれたおかげで私は十字架から解放されたかもしれない。なら私はこの子が厄子ならなおさら助けなきゃいけないんだよ」
痛々しい掌を向けられ老人の心が揺れ動く。彼女の言葉も一理ある。どちらも道理が通っているなら自分の大切なものに基づいて選ぶべきだ。私は何を大切にしたい。
――老人は一呼吸をおいて再度彼女に向き合った。
「お前の言う通りだ。その子を連れて帰ろう」
私はこの子の心を尊重したい。命を大切に思うこの子の思いにならば私はどんな不幸をも受け入れられる。最も良いのはこの子も私もそしてこの猫すらも幸福にすることだが。
老人は喜ぶ孫の顔に安堵の笑みを浮かべた。しかし現状は猫が安全であるかも分からない。最善の道を考えながら彼は帰路についた。
「猫ちゃん全然起きないね……」
「チャイ、あまり気は許すな。起きてすぐ暴れるかもしれん」
猫は拠点から少し離れた木の洞に匿うことにした。やはり得体の知れぬ内は、少なくとも目が覚めるまでは危険性を考慮すべきと私が提案した。チャイは老婆心が過ぎるのではと解せぬ面持ちであったが最後には私の気持ちも汲んでくれたようだ。
「ジョンさん、こいつが拾ってきた奴か?」
皆までいかなくとも、これから共に過ごすのであれば多少の協力者がいた方がよいだろう。私は信頼のおける彼にのみ秘密を打ち明けることにした。
「ああ。微かにだが瘴気を纏っているから気をつけてくれ」
アンドアは強かな人間だ。厄子かもしれぬものを連れてきたと言えば普通は狂人の烙印を押したり距離をとってもおかしくないのに、話を聞くどころか相談にまで乗ってくれた。隠し場所についても彼の助言の一つだ。
「すまない。巻き込んでしまって」
「チャイちゃんがこんなに懐いてたら置いてくのも難しいよな。それに、今となっちゃお前にとっても厄子はそんなに悪いもんでもないだろ」
アンドアは微笑を溢しながら目線をくれた。逆の立場であれば、厄子擁護にも取れる言動は憚られるだろうなんて思索を巡らせていると彼は手を振りながら去っていった。
「まあ森を抜けたら珈琲の一杯でも淹れてくれ」
生活圏を奪われた我々が最優先に成すべきは生活基盤の構築だ。そのために最低でも水や食料の確保は必須であろう。次に寒さを堪え凌ぐための火起こしも必要だ。この寒冷の地で体温管理を怠れば死に直結する。体温を保持するという意味では雨風の対策も講じるべきだ。とにかく、問題が山積みである以上は周囲との協調を欠かすわけにはいかない。私が老人で何をやるにも一苦労というのもあるが――
「おじいちゃん喉乾いた……」
――私以上に身体の小さなこの子にとっては命取りになってしまうから。
私たちに対する周囲の評価は悪い。果たすべき役目を放棄し民衆の安寧を奪った罪人といっても過言ではないだろう。彼らと対話すると、言動の端々に憤りや冷ややかな情念が感じられる。悪意というものはいくつ年を重ねようと慣れぬものだ。些か毒気に堪えかねた私は猫の様子でも見にいったん木の洞へと戻った。すると中からすすり泣くような声が聞こえる。私はあまり音を立てぬよう慎重に中へ入り声をかけた。
「チャイ、泣いているのか」
チャイは言葉を返さず、ただ横たわる猫を撫でているだけだった。私はもしやと思い急いで猫の顔を覗いたが猫は変わりなくただ小さく呼吸をしているのみだった。しかしホッとするのも束の間、チャイの方を振り向くとチャイはぐしゃぐしゃの顔で泣きはらしていた。
「チャイどうしたんだ。何か嫌なことでもあったのか」
チャイは隠すように俯き依然として何があったのか語ろうとしなかったが私は不安で堪らずチャイを抱きしめた。そして辛いことがあったのか誰かに嫌なことでもされたのかとしつこく詰問して初めてチャイは口を開いてくれた。
「おじいちゃんは、私に十字架として死んでほしかった……?」
震えながら呟いた彼女の言葉は、私が一番恐れていた言葉だった。私が動転して答えを返せないでいると、チャイは俯きながらつらつらと話し始めた。
「他の子に言われたの。私が十字架としての役目を果たさなかったからおじいちゃんが肩身の狭い思いしてるって。私が役目を果たしていれば、おじいちゃんはみんなと胸を張って話せるのにって。私がいなければ――」
「それ以上言わないでくれ」
私はしがみつくようにチャイを抱きしめた。自分の気持ちを伝えるように強く強く。昂って碌に回らぬ頭が冷えた頃、私は彼女に向けて少し昔の話を語った。
「チャイには言っていなかったが、実はお婆ちゃんも十字架だったんだ」
辛気臭く情けない話だ。本当は話すつもりなどなかったがこれしかチャイには届かないと思った。
「私はどうしても納得がいかなくてね。どうにかならないかと何度も司祭に頼み込んだが遂に首を縦に振ってもらうことは叶わなかった。せめてお婆ちゃんの犠牲は無駄ではないと思いたかったが、私はどうしてもあの儀式に意義を見出せなかった。そしてただお婆ちゃんに会いに行きたくて死にたいと思っていたんだ。そんなときだ。チャイが来てくれたのは」
年甲斐もなく泣き顔を人に晒すのは照れ臭くもあったが私は真っすぐとチャイを見て話した。しっかりと顔を見て伝えたかったのだ。
「チャイが来て私の世界に彩りが戻ってきた。老い先短い命を惜しいと思えるようになった。私にとってチャイはかけがえのない希望なんだよ。だから、死んだ方がよかったなんて二度と考えないでおくれ」
チャイはただ泣いていた。なぜ彼女が心を痛ませなくてはならないのか。私は唇を噛みしめる。
この子にはいつも笑顔でいてほしい。傷つけたくないのに思い通りにいかない。誰が言ったと問いただしたかったが、彼女を傷つけて触れるものではないとしまいこんだ。何より笑顔に向かう彼女に自分の真っ黒な感情をぶつけたくなかった。しかし僅かでもそんな愚かなことを考えたのが悪かったのか。不幸の前触れは私に引き寄せられて訪れた。
「ここにいたのか」
災厄の夜は太陽を引きずり下ろし我々を闇の中へと埋め尽くす。