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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夢は見ないと決めていたのに

 貧乏伯爵家で貴族間の付き合いも少ないわが家が、数年ぶりに、父の友人のカントリーハウスへ招待された。


 両親はものすごく張り切っていた。

 なにしろ一人娘の私、エレシア・クロックフォードは26歳。

 貴族令嬢の結婚適齢期は過ぎている。


 だが、父の古い友人であるアサートン卿が所有するカントリーハウスは王都から遠く離れており、一度行けば通常、招待客たちは一週間程度は現地に滞在する。

 そして、この夏の招待客はわが家を入れて8組であり、その内の数組には結婚適齢期の独身の貴族令息がいた。

 私が一週間のあいだにその内の誰かから運よく求婚されることを、両親は期待していた。


 中でもずば抜けて条件がいいのは、このお方だ。


 ライオネル・ブラッドバーン(29)。

 公爵家の三男で、文武両道、容姿秀麗。

 しかも、王家を守護する黒獅子騎士団団長。


 会ったことはないが、賭けてもいい。

 今夏カントリーハウスへやって来る令嬢たちは、ほぼ全員この人が目当てだろう。


 そして、お金もない伯爵家の娘で、地味な茶色い髪と目をした、口下手で、読書しか趣味のない26歳の私など、騎士団長のライオネル様は見向きもしないはずだ。

 絶対にもっと若くてかわいい令嬢か、ものすごくお金持ちの令嬢を選ぶはずだ。


「いいかエレシア、お父様たちは全力でお前を応援する。どんな低い身分の男でもいい。とにかく捕まえてくるんだ」

「そうよエレシア、なにも高望みをする必要はないわ。冴えない人でもいいじゃない。あなたと話が合う、社会的にまともな人ならそれで。だから、がんばるのよ」

「え、ええ……」


 お父様とお母様が身もふたもない言葉で叱咤激励してくるけど、これまで幾度もの社交シーズンをがんばってもどうにもならなかったから、私は今も一人なのだ。


 何度も現実に打ちのめされてきたから、もう夢は見ないと決めている。


 私には士官学校の寮へ入っている優秀な弟がいるから、家の存続は問題ない。

 だから結婚はせずに、そのうち、田舎にいる独身で裕福な伯母様のところへ行き、彼女の話し相手(コンパニオン)として、読書をしながら生きていくつもりだった。

 コンパニオンは少ないとはいえ「お手当(給金)」が得られるし、伯母は、知識だけは豊富な私のことを気に入っているから。


 けれど、まだ私が結婚すると期待している両親に、そんなことは言えなかった。



 ***



 予想通り、騎士団長のライオネル・ブラッドバーン様はカントリーハウスに到着早々、令嬢たちに囲まれていた。


「ライオネル様、こちらで一緒に紅茶をいただきましょう」


 18歳のコートニー・メイスン侯爵令嬢が、ごく自然な流れでライオネル様に話しかける。

 彼女はきれいな上に積極的だった。

 ライオネル様の横を自分の定位置と決めたらしく、ことあるごとに話しかけたり、さりげなくボディータッチをしたりしている。


 お前も行け、と、両親の期待をこめた視線が私に突き刺さる。

 だが、もともと口下手な私は、年下のかわいらしい令嬢たちに交じって騎士団長にアピールする強心臓など持ち合わせていない。


 お金がなくお洒落に興味もない私は、他の令嬢達よりもかなり地味で流行遅れのドレスを着ていたので、よけいに気後れしてしまった。

 どうせ見向きもされないのだから……と、はなから諦めたりせず、無理してでも新しいドレスを仕立てて来ればよかったと後悔したがもう遅い。


 他の男性たちに話しかけることもできず、私は両親の視線を避けるように、静かに読書ができそうな庭園へ出た。


 庭園は少し暑く、ひとけがなかった。

 大きなイチイの木の下のベンチが涼しそうだったので、そこへ向かう。


 すると、庭師の格好をしたおじさんが大きなじょうろを抱え、よろよろと歩いてくるのが見えた。

 なんだか、腰が痛そうだ。

 口下手とはいえ、年輩の人が相手なら比較的普通に話せる私は、心配になって声をかけた。


「……あの、どこか具合でも悪いのですか?」

「あ、ああ……すみませんね、お嬢さん。お客様にみっともないところをお見せしてしまって……ちょっと、昨日腰を痛めてしまって、こんな有様で」

「まあ大変。よかったら、代わりにお水をあげておきましょうか?」

「いやいや、お嬢さんにそんなことをさせるわけには……いたたっ!」


 じょうろを抱え直した瞬間、おじさんは悲痛な叫び声を上げた。

 お父様も時々ぎっくり腰になるので、こういうときは安静が第一だと知っている。

 私は奪うようにしてじょうろを受け取った。


「私がやります! おじさんはどこかで休んでいてください。あのバラに水をあげればいいんですよね?」

「……どうも面目ない。それでは、すみませんがお言葉に甘えて」

「ええ、任せてください。お大事に」


 私は笑みを浮かべた。

 おじさんは腰に手を当てながら何度も礼を言い、つんのめるように歩いて去って行った。


 私はじょうろを持ってバラの花壇へ行った。

 先日読んだ園芸書には確か、「バラには土が乾いたら十分に水を与える」と書かれていたっけ……。

 暑さで土はカラカラに乾いていた。

 私は何度も井戸と花壇を往復して、たっぷりと水をやった。


「これくらいでいいか。読書も、たまには役に立つわね」

「なぜ君が水やりをしている?」

「っ!?」


 水やりの達成感にひたっていると、突然背後から声をかけられ、驚いて振り向いた。

 暑さで幻でも見ているのだろうか?

 私は自分の目を疑った。


 そこには、黒獅子騎士団団長ライオネル・ブラッドバーンが立っていた。


 長身で堂々とした体躯に、爽やかな金色の短髪。

 海のように澄んだ(みどり)色の瞳。

 ほれぼれするほど整った顔立ちは、間近で見ると、現実の人間とは思えないほど格好いい。


「あ、え? え? あの…………」


 私はたちまち赤くなり、口ごもった。

 口下手な私が、この美形の男性に一瞬でこの状況を順序だてて説明することなど、到底不可能だ。

 相手が不意打ちで登場し、けげんな顔でこちらを見ているのだから、なおさら何も言えなくなってしまう。


 彼は少し困った顔をした。


「いや……すまない。怒っているわけではないんだ。ただ、どうしてかと気になって……」

「……あの……申し訳ありません……」

「だから、君があやまる必要は……どうも口下手で困るな。すまない……」

「い、いえ、こちらこそすみません……」


 なぜか騎士団長とあやまり合っている。

 ……ライオネル様も口下手?

 それなら、私と同じだわ。


 そう思うとずいぶん気が軽くなって、私はたどたどしくも状況を説明した。


「さ、さっき、ここに、庭師の方がいて……その……腰を痛めているようでしたので、わ、私が代わりに水をあげておくと、申し出たのです」


 言えた!

 これならわかってもらえただろう。


「なるほど……それでご令嬢なのに水やりをしていたというわけか」

「はい」


 騎士団長はなぜか難しい顔をして、あごに手を当てている。

 何か、まずかったかしら……?

 逮捕とか、されないわよね……?

 はらはらしながら見守っていると、彼は顔を上げた。


「ああ、紹介が遅れて失礼した。俺はライオネル・ブラッドバーン。黒獅子騎士団の団長をしている」


 知ってます!

 とは言えずにうなずき、こちらも自己紹介をした。


「わ、私は、エレシア・クロックフォードと申します」

「エレシア嬢というのか。クロックフォード卿は、たしか、アサートン卿のご友人だったかな」

「はい。父とアサートン卿は、大学の学友だったそうで……同じ文学部で、ブライトンの詩を研究していたそうです」

「ブライトン?」


 彼が興味深そうに聞きかえしてきたので、私はつい調子に乗ってしまった。


「はい。月と湖を賛美した詩で有名なロマン派の詩人で、桂冠詩人でもあります」

「えっ? ……ああ、詩人か」


 おかしそうにクスッと笑われてしまい、私はふたたび赤面した。


 ああ、またやってしまった……。

 口下手なくせに、知っている知識は披露せずにいられないのだ。

 今までこれでさんざん失敗して、私の話になど誰も興味がないと知っているはずだったのに、よりによって騎士団長を相手に……。


 けれども彼は、弁解するように言った。


「……すまない。詩人を馬鹿にして笑ったわけじゃないんだ。ただ、黒獅子騎士団の初代団長にもブライトンという有名な人がいてね。まさか、あのいかつい団長が月と湖の詩を書いていたのかと勘違いして……」

「あっ……その方、知ってます! 『白髭のブライトン閣下』ですね!」


 しょうこりもなく、私は声を弾ませた。

 黒獅子騎士団の伝説の団長。

 ブライトン団長の伝記を読んだことがあるから、巻頭に載っていた肖像画もよく憶えている。

 とても立派な白い口髭を生やした、目つきの鋭い、本当にいかめしい人だ。


 あのブライトン団長が、夜な夜なロマン派の詩を書いていたら……などと考えるだけで、私も笑いがこみあげてきた。

 別に騎士団長が詩を書いていたって、ちっとも構わないのだが。


 ライオネル様も、くしゃっと笑った。


「ああ、その閣下だ。君は騎士団の歴史にも詳しいのかな?」

「あ、いえ……それほどでも……ただ、王国にある四つの騎士団の歴史書と団長たちの伝記は、全部読んだというだけです」

「っすごいな! 騎士団員ですら一冊も読んでないと思うぞ」


 今度は彼は目を丸くした。

 ころころと表情が変わる。

 思ったよりも親しみやすい人だ。


「い、いえ……私なんて、家で本を読んでいるばかりなので……実際に剣を振り、誰かを守る騎士様たちのほうが、ずっとすごいです」

「そうかな? ……そう言ってもらえるとうれしいな」


 ライオネル様がほほえむ。


 なんだかここには、ゆったりと居心地のいい時間が流れているように感じる。

 私は不思議に思った。

 他人と一緒にいると極度に緊張してしまい、うまく話せなくなる口下手の私が、なぜ女性に一番人気の騎士団長様と楽しくおしゃべりできているのだろう?


 けれど、ライオネル様も似たような状況だったようだ。


「俺は男兄弟しかいないし、士官学校では剣ばかり振っていたから、女性と話すのは苦手なんだ。だがたまには社交もしろと、今回は父上に無理矢理つれてこられてしまって……正直に言うと、女性たちから逃げるために庭へ出て来たんだ」

「まあ」


 こんなに強そうな騎士団長が女性から逃げてきたなんて……と、私は笑みをこぼした。


「あ、でもそれなら、私がここにいたらお邪魔だったでしょうか? 私も社交が苦手なので、ここへ本を読みに来たのですが……」

「君も? 意外だな」


 ライオネル様がひゅっと眉を上げる。

 私は赤くなり、しどろもどろに説明した。


「く、口下手なので……」

「そうか」


 彼はそれ以上は詮索せず、優しく言った。


「それなら、邪魔をして悪かった。俺はしばらくその辺を歩いてから屋敷に戻るから、君は気にせず読書をしてくれ」

「あ……はい…………」


 ライオネル様と別れ、当初の目的通り、イチイの木の下のベンチに座って本を開く。

 だけど庭園の向こう側を歩く彼が気になって、ずっと目の端で追ってしまい、とても文章に集中するどころではなかった。


 しばらくして館に戻ると、やはり、ライオネル様は女性たちに取り囲まれていた。


「ライオネル様、明日は皆でキツネ狩りをするのですって。楽しみですわね」


 コートニー様はすでに婚約者になったかのように堂々と彼の横をキープし、明るく話しかけていた。

 私もあんな風に大勢の前で軽やかに話せたら……と、うらやましさで一杯になる。


 周りにいる他の令嬢達も負けず劣らず、若くて華やかな女性たちばかりだ。

 それを見ると気が引けて、私はそばに近づくことさえできなかった。

 

 だが晩餐のテーブルで、離れた席に座るライオネル様と私は、一瞬だけ目が合った。

 そのとき、手の届かない一等星のような彼が、地上の石ころのような私にほほえみかけてくれた……ような気がした。



 ***



 次の日も、私は本を抱えて庭に出た。


 天気が良いので、他の人たちはみんなキツネ狩りに出かけたようだ。

 私も儀礼的に誘われたけれど、狩りは苦手だったので、やんわりとお断りした。


 そして、今日も庭園で庭師のおじさんに出くわした。

 痛そうに腰を曲げながら、じょうろを抱えてぎくしゃくと歩いている。


「……なぜそんなに無理をするのですか?」

「ああっ、昨日のお嬢さん! これはまたお恥ずかしいところを……いや、ほら、このお天気だろう? バラは今が花盛りなのに、腰が痛いから水をあげないなんて、そんなかわいそうなことできないじゃないか」

「他の方には頼めないのですか?」

「庭師は急病で……ごほんっ、いや、他には誰もいないんだよ」

「もう……腰は体の(かなめ)なのですから、無理をしてはだめですよ」


 そう言いながら、私はひょいっとじょうろを持ち上げた。


「お嬢さん……いいのかね?」

「お水は私があげておきますから、おじさんはしっかり休んでください」

「……わかった。どうもありがとう」


 おじさんは神妙な顔をして礼を言い、戻っていった。

 私はバラの花壇へ行き、水をあげた。


「今日も水やりをしているのか」


 あまりの驚きに、私は思わずじょうろをゴトッと落とした。

 背後に立っていたのは、またしてもライオネル様だった。


「えっ……えっ、な、なぜ…………か、狩りへ行かれたのでは?」

「狩りは好きではないんだ。捕えて食べるわけでもないのにと思うと……」


 やや気まずそうに彼は言った。

 強くあるべき騎士団長なのに、こんなことを言うのはどうかと思っているのだろう。

 けれど、私もまったく同じ意見だったので、拳を握りしめて強く同意した。


「私もそう思います。しかも、獲物を大勢で追いつめてというのが、よけいにやりきれなくて」

「君もか。俺も同意見だ。おおっぴらには言えないが……」

「言えませんよね……」


 狩りを美徳とする貴族社会においては、少数派の意見である。

 だからこそ、そのとき私はライオネル様とのあいだに、精神的なつながりを感じた気がした。


 もしかしたら彼もそうだったのかもしれない。

 そのシンパシーゆえか、ライオネル様はその後の滞在中も折に触れて庭へやって来て、私と言葉を交わすようになったから。


 けれども一度館内に戻ると、彼はやはり、私などには手の届かない存在だと思い知らされた。


 館の中では、美しいコートニー様がいつもぴたりと彼の側に寄り添っている。

 彼女は家格も容姿も、これ以上ないほどライオネル様の結婚相手としてふさわしい女性だった。


 いよいよ騎士団長も身を固めるだろう。

 そんな噂が、そこかしこで囁き交わされる。


 ライオネル様はコートニー様を、常に礼儀正しくエスコートしていた。

 遠くから私と一瞬目が合うこともあるが、他の人たちがいる前で彼から話しかけられたことはない。

 他の令嬢達はコートニー様と張り合うのをあきらめたのか、騎士団長から他の男性へと狙いを変えたようだった。


 私はといえば、両親からどんなにせっつかれても、花婿さがしをしようなどとは思えなかった。


 どう考えても、あきらかに不釣り合いだ。

 両親にも、口が裂けても言えない。


 けれど。


 私はライオネル様に、恋をしてしまった。


 もちろん勘違いなどしていないし、高望みなどしない。

 夢を見たって、現実に戻ったときにつらくなるだけだ。

 単に、少し話が合うだけの私のことなど、ライオネル様は何とも思っていないだろう。


 その証拠に、招待客たちがカントリーハウスを去る日。

 ライオネル様はさよならも言わず、一足先に王都へ帰ってしまった。

 私はせめて一言でも、お別れが言いたかったのに――


 もしも私のことをほんの少しでも気に入ってくれていたなら、用事があって先に帰るとしても、せめて走り書き一枚ぐらいはくれるのではないかしら?


 私に手紙をくれたのは、あの庭師のおじさんだけだった。

 滞在中は結局毎日、私がバラに水をあげていたから。

『おかげで腰もずいぶんよくなった。本当にありがとう』と、私の部屋のドアの下から入れられた手紙には書かれていた。


 私はおじさんに返事を書き、館の侍女に渡した。

 だが侍女はその庭師のことをよく知らないようで、誰のことでしょうかと、しきりに首をかしげていた。


 コートニー様はライオネル様が先に帰ってしまったことを気にする様子もなく、むしろ誇らしげに「公爵家のタウンハウスへ招待されているの」と他の令嬢たちに話していた。


「王都へ戻って、彼の家の夜会へ行くのが楽しみだわ。黒獅子騎士団の方々もたくさんいらっしゃるから、わたくしを彼らに紹介してくださるのですって」

「まあ! それってまさか、婚約者として?」

「うふふ、さあ、どうかしらね? もしもわたくしがライオネル様と結婚することになったら、今回このカントリーハウスにいらした方全員を結婚式へご招待するわ。せっかくのご縁ですもの」


 コートニー様はくるりと私の方を向き、愛らしい笑みを浮かべた。


「そのときはエレシア様も、ぜひいらしてね?」

「あ……」


『はい、楽しみにしております』?

『光栄に存じます』?


 こんな場合の正しい返答が頭に浮かぶ。


 だが、どちらも、心にも無いことだ。

 だって、私はライオネル様のことを……。


 ぴったりな言葉をさがして口ごもっている内に、コートニー様はもう、他の人たちと別の話題に興じていた。



 ***



 滞在が終わり、王都にあるクロックフォード家の小さなタウンハウスに戻ってからも、私は心ここにあらずの日々を過ごしていた。

 大好きな読書をしても、内容が頭に入ってこない。

 何をしても、ライオネル様の影が浮かんでしまう。


「……駄目だわ。全然集中できない……」


 私はため息をつき、読みかけの本を閉じた。


「今日は気分を変えて、外で読書しましょう」


 狭い庭に出て、ガーデンチェアに座り、再び本を開く。

 すると。


「エレシア嬢」


 何度も思い返していたあの声。


 顔を上げると、生け垣の外の歩道から、背の高いライオネル様の顔がひょこっと見えている。


「ライオネル様!?」


 夢でも見ているのだろうか?

 どうしてここに彼が……?

 しかも、長身とはいえ、あんな高い位置に頭があったかしら?


「たまたま馬で通りかかったんだが、ちょうど君の顔が見えたから」

「あっ……騎乗されているのですね」


 どうりで巨人のように見えたわけだ。

 そういえば生け垣の向こうから、蹄の音と馬の息遣いが聞こえる。


「会えてよかった。アサートン卿のカントリーハウスでは騎士団の急務が入って、誰にも挨拶をせずに慌ただしく帰ってしまったから」

「そうだったのですか……でも、お仕事なら仕方ありません」

「礼儀知らずだと思われてないかな?」

「ほんの少しだけです」


 顔を見合わせ、くすっと笑い合う。

 カントリーハウスで一緒にすごした、あの居心地のいい時間が戻ってくるようだった。


 少し迷ってから、私は勇気を出して、ライオネル様を見上げた。


「あの……立ち話もなんですので、もしよろしければ、こちらでお座りになりませんか?」


 言ったとたん、顔が赤くなる。

 私ったら、騎士団長様になんて身のほど知らずなお誘いを……しかも、こんなに狭い庭に!


「喜んで」

「そうですよね、お忙しいですよね……ええっ!?」


 私が驚いている内に、彼は颯爽と馬を駆り、わが家の敷地に入った。

 精悍な黒馬からひらりと飛び降り、慌てて屋敷の中から飛び出してきた使用人に手綱を預けると、私の方へ大股に歩いてくる。


 自然に目が奪われてしまう。

 なんて素敵なんだろう。

 今日は騎士服を身につけていて、それが眩しいくらいに似合っている。


 ライオネル様はガーデンテーブルを挟んだ、私の向かいの席に座った。

 見慣れたうちの庭に、彼と二人で座っているなんて、まるで夢の中にいるようだ。


「いきなりお邪魔して大丈夫だったかな?」

「は、はい。ちょうど、読書に集中できずにいたところだったので……」

「どうして?」

「いえ、あの……ちょっと、考え事をしていて」


 まさか、あなたのことを考えていて何も手につかなかった、とは言えない。

 ライオネル様は生真面目に答えた。


「そうか。集中できないときは体を動かすといい。外を走ったり、筋肉を鍛えたり……そうすれば、頭がすっきりする」


 ぽかんとする私を見て、彼はあわてた。


「いや、ご令嬢にするアドバイスではなかったな……つい、騎士たちに指導するような調子で言ってしまった」

「……いいえ。先日読んだ本にも、適度な運動は作業効率を上げると書いてありました。ドレスでは走りにくいですが、これからは、集中できないときには散歩に行くことにします」


 にっこり笑って言うと、ライオネル様も笑顔になった。


 それからしばらくお喋りをしていたら、突然、屋敷の中から母が大声で叫んだ。


「エレシアー、雨が降りそうだから、外に干してある私のショールを取り込んでおいてちょうだい!」


 ライオネル様が驚いた顔をする。

 私は羞恥で消えてしまいたくなった。


 もちろん貧乏なわが家にも侍女はいるけれど、人数を極限まで削っているので、いつも家で本ばかり読んでいる私は、しょっちゅう母から雑用を言いつけられていた。

 うちの庭に騎士団長様がいるとは夢にも思わない母は、いつも通り、大声で私に洗濯物の取り込みを頼んだのだった。


「…………すみません、ちょっと失礼します」


 赤い顔で腰を浮かしかけた私を、ライオネル様が手で制した。

 彼は立ち上がると、高い木の枝に干してある母のショールを、台も使わずに軽々と取った。

 そして屋敷の方へ歩いて、テラスに顔を出して目をまん丸に見開いている私の母に、優雅に「どうぞ」と手渡した。


「えっ……えっ……? く、黒獅子騎士団の、団長様……!? ええええっ!!??」


 気の毒なほどうろたえていた母が、ライオネル様が帰ったあと、私を質問攻めにしたのは言うまでもない。



 ***



 それから何度か、ライオネル様はうちの屋敷を訪ねてくれた。

 忙しい騎士団長の彼は、王都の巡回後や仕事の空き時間などに、事前の約束などは無しに突然訪れ、私とお喋りをして帰って行く。


 一度などは、手にピンクのバラの花束を持ってやって来た。


「友人に会いに行くと言ったら、家の者がぜひこれを持っていけとうるさくて……迷惑でなければ、受け取ってほしい」

「め、迷惑なんて、とんでもないです。ありがとうございます」


 少し照れた顔のライオネル様から、花束を受け取る。

 とてもかわいらしく爽やかな、たくさんのピンクのバラの花。

 見ているだけで幸せな気分になった。

 喜ぶ私を、ライオネル様は碧色の目を細めて見つめていた。


 花束もさることながら、私は彼から「友人」と言ってもらったことに、心が浮き立っていた。

 これまで一度も恋愛経験のない地味な私が、こんなに素敵な男性の友人になれた。


 ただ話が合うというだけで、本当に、友人以上の意味はないのだろう。


 けれど、それでよかった。

 夢は見ないと決めているから。

 ライオネル様に「友人」と言ってもらえただけで、私のささやかな恋はもう、十分すぎるほど報われていたのだ。


 けれど私の両親は、ライオネル様が私にプロポーズするものと思い込んでしまい、


「いつ婚約するのか」

「向こうの両親は何と言っているのか」

「持参金はいくら持たせればいいのか」

「新居はどこにするのか」


 などと、しなくてもいい心配をしてあわてふためいていた。


 ところが秋が近づき、ある噂が社交界を席巻すると。

 私に気を遣ってか、両親がライオネル様の話をすることはぱったりとなくなった。


 それは、ついにライオネル・ブラッドバーン氏とコートニー・メイスン嬢の婚約が決まった、という噂だった。



 ***



 ブラッドバーン家から私たちクロックフォード家へ、夜会の招待状が届いた。

 父と母は眉を逆立て、ライオネル様を散々にこき下ろした。


「なんて無神経な男だ。うちの純情なエレシアをもてあそんでおきながら……! この夜会であいつとメイスン嬢との婚約発表がされると、もっぱらの噂じゃないか!」

「そうですよ、本当に困ったものだわ。ドレスを新調するお金にも事欠いてるのに、よりによって格式高い公爵家の夜会に招待されるだなんて……ああでも、騎士団の方がたくさんいらっしゃるなら、もしかしてエレシアにも新しい出会いが……」

「そんなものあるわけないわ。それに私、最初からライオネル様とは何でもないって言ったでしょう?」


 両親のいる居間を出て、自分の部屋へ引っ込む。


 夢は見ていないつもりだった。

 けれど、いざ目の前にライオネル様と他の女性との婚約をつきつけられると、どんなに強がっても、胸がつぶれそうなくらい苦しい。


「……でも、友人としてお祝いをしないとね……」


 涙をこらえ、自分の部屋の、大好きな本がぎっしりと詰まった本棚を見上げる。


 私は、ライオネル様に婚約のお祝いの品を買えるようなお金など持っていない。

 ドレスを新調するお金も、うちにはないくらいだ。


 一生に一度しか行けないだろう、公爵家の夜会だ。

 地味な私でも、せめてきれいなドレスを着てライオネル様に会いに行きたかった。

 けれど、仕方がない。


 自分がドレスで着飾るよりも、大切な友人に素敵なお祝いを贈りたいから。

 私を友人と呼んでくれて、それを証明するように貧乏伯爵家であるわが家にも夜会への招待状を送ってくれたライオネル様に、お祝いと、最後のお別れをしよう。


 ブラッドバーン家の夜会に出たら、私は田舎の伯母の屋敷へ行き、そこで一生暮らそうと決めていた。


 本棚から貴重な本を次々に取り出して箱に入れると、古物商を屋敷へ呼び出して、箱ごと買い取ってもらった。

 私は本を売ったお金を持って侍女と町へ行き、ライオネル様に似合いそうな、黒獅子の彫刻が入った美しい飾り剣を買った。

 

 これを夜会で彼に渡し、お祝いの言葉を伝えることができたなら、もう心残りはない。



 ***



 三日後が夜会という日、わが家に平べったい箱が届けられた。

 父は私を呼び、不思議そうに言った。


「お前にだそうだ、エレシア。差出人は……『庭師より』? どういうことだ?」

「えっ……庭師って……」


 庭師の知り合いなど、夏にアサートン卿のカントリーハウスで出会った、あの腰を痛めたおじさんしかいない。


 けれど、なぜあのおじさんが……?


 届いた箱をおそるおそる開けると、とても高価そうなドレスと靴が入っていた。

 ドレスは上品な(みどり)色。

 靴も同色だった。


 同封されていたカードには、こう書かれていた。


「親切なお嬢さんへ。バラの水やりのお礼に、君にドレスを贈ろう。これを着て、ブラッドバーン家の夜会に出てほしい」


 私の頭の中に「?」が飛び交う。


 水やりのお礼?

 ということは、やはりあの庭師のおじさんからよね?

 ……まさかおじさん、実は、とてもお金持ちだったの??


 まるで小説のような出来事に疑問は尽きなかったけれど、とても素敵なドレスと靴であることに間違いはない。

 それに……碧色は、ライオネル様の瞳の色だ。


 なんだか、私の秘めた恋心を見透かされているようで怖かった。

 でもせっかくのご厚意だし、そんな偶然は誰も気がつかないだろうし……。


 ライオネル様に会うのもこれで最後だ。


 私は、そのドレスを着ていくことに決めた。



 ***



 夜会当日。

 私は両親と一緒に馬車に乗りこみ、ブラッドバーン家へ向かった。


 壮麗な公爵家へ着いて早々、人の多さに驚いた。

 とても広いはずのホールは着飾った人々で溢れかえっている。

 天井のシャンデリアには煌々と明かりが灯され、美しい壁に、いくつもの楽しげな影が踊る。


 すでにダンスが始まっていた。

 私は壁際を歩きながら、華やかな中央の舞台で踊る男女の中に、ライオネル様とコートニー様の姿を捜した。

 今夜、間違いなく、二人は一緒に踊っているだろうから。


 歩きながらも、周囲の人たちの噂話が耳に入る。


「とうとう今日が婚約発表ですわね。メイスン卿はさぞ鼻が高いでしょう」

「いやいやどうして、ブラッドバーン公にとっても利のある話ですからな。なにしろメイスン家は金鉱を所有していて……」


 キリリと突き刺されるように胸が痛む。


 私はふるりと首を振った。

 もう決めたでしょう?

 扇の下に隠した贈り物をライオネル様に渡して、婚約おめでとうと言ったら、それでおしまい。


 顔を上げて彼を捜す。

 見つけたのは、招待客がくるくると舞い踊るホールの中央ではなく、隅の方だった。


 人が集まる一角の中に、ひょこっと背の高い、金色の短髪。

 隣にはコートニー様の姿もある。


 あそこへ行き、衆人環視の中で口下手な私が彼に話しかけると思うと、とたんに怖気づきそうになった。

 けれど、自分を叱咤して足を進める。


 大丈夫。

 何度も頭の中で練習はしてある。

 きっと言える。


 ライオネル様のいる集団に近づいて行くと。


 違和感があった。


 彼の近くにいる使用人の挙動がおかしい。


 怪しい目つきでライオネル様の様子をうかがっている。

 しかも、左腕のトーションの下に、何か細長く硬いものを隠しているようだった……たとえば、短剣のようなものを。


 だけど、黒獅子騎士団長であるライオネル様はとっくにそれに気がついているようだった。

 その使用人を警戒しながら、さりげなく、コートニー様を自分の反対側へと移動させる。

 私はほっと胸をなでおろした。


 けれども。

 私は見てしまった。


 怪しい使用人とは別に、もう一人、ライオネル様の後方でごく自然にグラスにワインを注いでいる使用人が。

 上着の下に、隠し武器を忍ばせているのを。


 あ。

 これ、スパイ小説でよくあるやつだわ。

 怪しい方に注意を引きつけておいて、その隙にもう一人が襲いかかるっていう……。


 そう思った矢先、一人目の怪しい使用人が動いた。

 トーションの下の短剣でいきなり斬りかかる。


 だが予期していたライオネル様は長い足で凶器を蹴り上げ、ターンして相手の顔面に肘を入れた。

 ほれぼれするほど鮮やかな動きだ。

 鼻を潰された男は、どさりと崩れ落ちた。


 だがその間に、背後でもう一人の使用人が短剣をすらりと抜いていた。


 ライオネル様は気づかない。

 このままでは刺されてしまう!


 迷う暇もなく、私は大声で叫んだ。


「ライオネル様、うしろっ!!」


 同時に、私は持っていた贈り物と扇をブンッ、と敵に投げつけた。


 ライオネル様がこちらを見る。

 目が合った。


 一秒にも満たない短い時間だったけれど、それはなぜか、永遠のように長く感じられた。


 いきなり物を投げられた使用人は、ほんのわずかに怯んだだけだった。

 だが騎士団長にはそれで十分だったようだ。

 振り向きざまに殴りつけられ、使用人はすごい音を立てながら、グラスや皿やテーブルごと遠くまで吹っ飛んだ。


 なんて破壊力だ。

 私は、黒獅子騎士団長の強さの一端を、ちらりと垣間見た気がした。


 夜会に参加していた騎士団員たちが、素早く駆けつける。

 たちまち二人の使用人は取りおさえられた。


 会場は騒然となった。


「もういやっ、怖い! これ以上こんなところにいたくありませんわっ! わたくし、帰ります!」


 襲撃者たちのすぐそばにいたコートニー様はショックを受けたようで、半泣きでそう叫び、宣言通り帰ってしまった。


「参加者のみなさん、大変申し訳ありませんが、本日の夜会は中止といたします。どうぞお気をつけてお帰りください」


 会場の中心から、堂々とした美声が響き渡った。

 騒がしい会場が、その声で静まっていく。


 それにしても、なんだか聞き覚えのある声だわと思い、その声の主を捜すと――


「……えっ!?」


 なんと、あの庭師のおじさんだった!

 なぜか貴族らしき立派な服を身に纏っている!


 え? え? 夜会の中止を宣言しているのだから、主催者ということよね?

 今夜の主催者はもちろん公爵閣下のはずで…………。


 ええええ?


 呆然とする私に、ライオネル様が近づいてきた。


「エレシア嬢」

「ラ、ライオネル様…………あの、お怪我は」

「無事だ。君のとっさの行動のおかげで助かった。勇気ある行為に心から感謝する」


 私のおかげで助かった……?


 立派な騎士団長様から私が感謝されるなんてありえないような出来事だけど、役に立てたのなら本当によかった。

 彼の笑顔を見ると、強烈な安堵と、遅れてやってきた恐怖を感じ、体中の力が抜けそうになった。


「よかった……ご無事で本当によかったです」


 ライオネル様が、ぽん、と私の頭に手を乗せた。

 大きくて温かな手が、安心させるように私をなでる。

 

 とたんに顔に血が集まった。


 ……こんなことをしたら、婚約者でもないのに、他の人に誤解されてしまうのではないかしら?

 でも招待客は皆、こちらに背を向けて帰っていくところだった。

 私の両親の姿は見えないが、臆病で慎重派の私はすでに会場から出ていると思いこみ、外へ向かっているに違いない。


 ライオネル様は真面目な顔をして言った。


「怖い思いをさせてすまなかった。最近、黒獅子騎士団を狙った反体制派の動きが活発化しているんだ。夏にカントリーハウスから先に帰ったのもそれに早急に対応する必要があったからだし、王都の巡回を強化しているのもそのためだ」

「……そうだったのですか……」

「ああ。だが実行犯を捕らえたから、首謀者を吐かせるのは時間の問題だろう。君のお手柄だよ」

「い、いえ、とんでもございません……!」


 私は両手をぶんぶん振った。

 それから、はっと思い出した。

 今日ここへ来たのは、お祝いを渡して、彼とお別れするためだった、と。


「ライオネル様、ちょっと待っていてくださいね」


 私は襲撃犯に投げつけた贈り物と扇を、急いで拾ってきた。

 べしゃりとつぶれた箱の形をささっと手で整え、何事もなかったかのようにライオネル様に渡した。


「これは……?」

「あ、あの……心ばかりのお祝いの品です。この度は、ご婚約おめでとうございます」

「婚約はしていないが」


 変な顔をするライオネル様に、胸の痛みを隠して、言いつのる。


「ですが、するつもりだったのでしょう?」

「……君と?」

「はい…………って、え、ちが……………………ええっ?」

「俺は今日、君にプロポーズするつもりだった」

「………………………………」


 口下手とかそういう問題ではなく。

 頭が真っ白で、本当に言葉が何も出てこない。


 私に、プロポーズを……?


 見上げたライオネル様の表情は、とても真剣だった。

 彼の目元と耳は、赤くなっていて。

 碧の瞳が、ひたむきに私に向けられている。


 これは冗談などではないと、私にもわかった。


「カントリーハウスから帰ったあとも、君と過ごした時間が忘れられなかった。だから、アサートン卿にクロックフォード家の場所を聞いて、何度もその前を通ったんだ…………もしかしたら、君に会えるかもしれないと思って」


 ……何度も通った?


 うちの庭で本を読んでいたら、ライオネル様に声をかけられたことを思い出す。


 では、あれは偶然ではなかったの?

 私に会いに、来てくれたの?

 全身の血が沸騰するように熱い。


「で、でも……噂では、あなたはコートニー様と婚約すると……」

「噂か。人の噂がどれほどいいかげんなものか、聡明な君は知っていると思うが。コートニー嬢とは、単に家族ぐるみの付き合いがあるというだけだ」


 ライオネル様がげんなりと答える。


 たしかに、本を読んでも実生活でも、人の噂などあてにならないものだと知っていたはずだったのに。

 彼のこととなると、そんなこともわからなくなってしまう。

 恋は盲目と言われる意味を、私は26歳にしてようやく理解した。


「……今日は、最初に君とダンスを踊るつもりで待っていたんだ。コートニー嬢ではなく、君と。そしたらあんなことがあって……いや、結局はよかったのかもしれないな。君が聡明なだけではなく勇敢な、素晴らしい女性だと皆に知れ渡っただろうから」

「い、いえ、私など……地味で、口下手で、本ばかり読んでいて、実家も貧しくて……あなたには、ふさわしくありません」


 真っ赤になって否定すると、突然、背後から朗々とした声が響いた。


「何を言うんだ、お嬢さん? 心優しく、働き者で、度胸もある! 私の末息子である黒獅子騎士団長ライオネルの嫁には、君こそがふさわしい!」


 私はびっくりして振り向いた。

 そこには庭師のおじさ……いや、公爵閣下が、笑顔で立っていらっしゃった。


「こ、公爵、さま……?」

「はっはっはっ。私が精魂込めて育てたピンクのバラは、気に入ってくれたかな?」

「えっ? あのバラは、公爵さまが育てたのですか?」


 いつかライオネル様からいただいた、ピンクのバラの花束を思い出す。


「……父は何より庭いじりが好きなんだ。アサートン卿のカントリーハウスへ行ったときも、わざわざ他人の庭をいじろうとして、そのあげくに重い植木鉢を持ち上げて腰を痛め、君に水やりなどをさせて……申し訳ない」


 頭を抱え、ライオネル様が呟く。

 そんな息子のぼやきなど意にも介さず、すっかり腰が治ったらしい公爵は、胸を張って私にぱちっとウインクをした。


「お嬢さん、そのドレス、とてもよく似合っているよ。私が息子の瞳の色のドレスを贈ったということは、公爵家(うち)が君を花嫁に望んでいるということだ。金銭面を含め、君は何の心配もしなくていい」

「……公爵さま……」

「さあ、あとは二人で決めてくれ。また会えると信じているよ、エレシア」


 公爵が立ち去ると、広い広いホールには、ライオネル様と私の二人だけになった。

 ドキドキと、心臓が激しく暴れている。


 私はたしか、ライオネル様と一生のお別れに来たはずだ。

 それなのに……。


 こんな場合にはどうすればいいのかなんて、今までに読んだどんな本にも書かれていない。


「エレシア嬢」

「……はい」


 ライオネル様はまっすぐ私に向き直り、騎士服の上の、マントを留めているピンブローチを示した。

 ブラウンダイアモンドだろうか……美しい、茶色の宝石だ。


「君の色を身につけたんだ」

「っ!」


 私は息を呑んだ。

 突然の殺し文句に、文字通り息の根が止まるかと思った。


「……その碧色のドレスを着ている君を見たとき、刺客に襲われているというのに、一瞬、目が離せなくなった…………君が……とてもきれいで……俺の色を身につけてくれていると思うと、うれしくて……………………君のことが、好きなんだ」


 少しぎこちないけれど、ライオネル様は彼の言葉で、真摯に気持ちを伝えてくれる。

 私も真摯に答えなければいけないと、精一杯の言葉を返した。


「あ、あなたも、とても素敵です……今日も……いつお会いしても、とても…………私も、あなたと過ごす時間が一番楽しくて………………あなたが、好きです」

「エレシア…………」


 ライオネル様は愛おしむような眼差しを私に注ぎ、ぎゅっと私の手を握ると、ひざまずいた。

 碧色の瞳が私を貫く。


「俺と結婚してくれますか?」


 胸がいっぱいで、どきどきして、返事の声が震える。

 でも、震えた声でも構わないと思えた。

 彼はちゃんと聞いてくれるから。


「はい」


 ライオネル様はまぶしいほどの笑顔を見せた。

 そして立ち上がると、私の顔に手を当てて上を向かせ、キスを落とした。


 少し前の私は、夢にも思わなかっただろう。

 まさか自分のファーストキスが、獅子に優しく口づけをされるような、こんなに素敵なキスだなんて。



 ***



 先にタウンハウスに帰っていた私の両親は、夜遅くなっても私が帰ってこないことを非常に心配していた。

 そして、ライオネル様に捨てられた私が、傷心のあまり失踪したと思い込んでいたようだった。


 当局に私の失踪届をいつ出すかという問題で両親が侃侃諤諤(かんかんがくがく)していたところに、ライオネル様が黒馬に乗って私を送り届け、さらにはその場で結婚の申し込みまでしたので、父は泡を吹き、母は気を失ってしまった。




 ライオネル様と私の婚約発表を聞くと、コートニー様はあっさり他の男性と婚約したそうだ。

 王都の仕立屋でばったり会ったときに「あら、エレシア様。ご婚約おめでとうございます」と、彼女の方から話しかけてきたのだ。

 元々親のすすめでライオネル様を狙っていたのだけど、顔はとても好みだが10歳以上も年上だし話は合わないしで、ちょっと悩んでいたとのことだった。


「それに、騎士団の方ってあんな危険な生活をしてるんですもの。わたくしにはとても無理。それに引きかえ、エレシア様は勇敢でしたわね! どこからあの勇気が出てくるんですの?」

「あ、ええと、スパイの小説にそんな場面があったので、とっさに……」

「スパイの小説? 何それ面白そうですわ、タイトルを教えてくださいませ! わたくし、小説を読むのが趣味ですの。危険なことはご遠慮したいけれど、小説でしたら大歓迎ですわ!」

「っもちろんです! おすすめの本を何冊か、お屋敷にお送りしますね!」


 私は心の中で歓喜雀躍した。

 そして、ありったけの勇気を出して、コートニー様に言った。


「…………あ、あの、コートニー様、よかったら私にも、ドレスについて教えていただけませんか? どんなドレスを仕立てたらいいかよくわからなくて」

「まあ、喜んで! 以前からエレシア様の柔らかそうな茶色い髪には、ふんわりした素材のドレスが似合うと思ってましたのよ。たとえば、こんな生地はいかがでしょうか?」


 コートニー様と私は意外と気が合うようで、それからもたまに会って、お茶をするようになった。




 黒獅子騎士団が夜会の襲撃者たちを尋問したところ、過激派のメンバーは首謀者も含めて芋づる式に捕えられ、組織は壊滅したらしい。

 私は摘発に協力した功績をたたえられ、騎士団から表彰された。

 屈強な騎士たちがずらりと整列する中で、騎士団長であるライオネル様から直々に、美しいメダルをいただいてしまったのだ。

 かなり気恥ずかしかったけれど、表彰式に招待され参列した両親が涙を流して喜んでくれたから、よかったのかもしれない。

 騎士団に飾られている初代団長「白髭のブライトン閣下」の巨大な肖像画も、いかめしい顔つきで祝福してくれているように見えた。




 黒獅子の彫刻の入った飾り剣は結局、私たちの婚約記念の贈り物として、ライオネル様に差しあげた。

 彼はとても喜んでくれた。

 代わりに何か贈ると言ってくれたのだが、ライオネル様と婚約したこと自体が私にとっては最高の贈り物だったので、何もいらないと答えたら。


「…………君という人は、本当に………………なんてかわいい…………」


 熱っぽく見つめられてそんなことを言われ、私は赤面して口ごもった。

 こういうときには一体どんな風に返事をすればいいのか、今度、コートニー様に教えてもらおうと思う。


 それから彼は、「こんなことくらいしかできないが」と言いながら、私をブラッドバーン家の図書室へと連れて行った。


 その広い部屋は、高い壁の天井までがすべて本棚だった。

 しかも、まるで図書館のように、定番、名作、新作……と数多くの種類の本が揃えられている。


「ここにある本はどれでも、自由に読んでくれて構わない」

「えっ……ほ、本当ですか……!?」


 私はさっそく本棚を見て回った。

 その目つきは、空を旋回する鷹のように鋭かっただろう。


 ……信じられない。

 断腸の思いで売り払った本は全部ここにあるし、読みたかったタイトルも、両手に収まりきらないほどある。


 私は満面の笑顔でお礼を述べた。


「最高の贈り物をありがとうございます、ライオネル様!」


 ライオネル様は、端正な顔をほころばせた。

 それから私を抱きよせると、とびきり甘いキスをした。




 夢は見ないと決めていたのに。

 夢よりも夢のようなライオネル様との日々が、これから始まる。

お読みいただきありがとうございました!

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あさぎかな様より素敵なコラージュファンアートをいただきました。ありがとうございました♪
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