第一章「魔王の尖兵」(7)
戦士は誇らしかった。伝説にある魔王の尖兵――伝記の挿絵でしか見たことのない化け物を、自分が圧倒している。農家の若者にしか見えない服装をしていながら、たまたま村を訪れた傭兵から博打でまきあげた剣を常に腰に帯びている彼の姿は、兄のレテをはじめ一部の村人から冷笑されたが、その自分が勇者の後裔に恥じない戦果を上げようとしていることに、感動していた。
アレリィは、今まで感じたこともない激痛に、声にならない絶叫を上げた。一時の休息のために降り立った丘で、突然敵に襲われたのだ。
気だるさが熱を帯びて体全体に広がって行くような感覚は、風邪をひいて寝込んでいる時のものに似ていた。大振りなだけで切れ味など考えて作られていない剣が、アレリィを襲った。国境守備兵三千の剣と矢を弾き返した鋼の肉体は、錆び付いた古い鎧のように簡単に表層を剥がされ、鈍い剣刃が食い込むと赤黒い肉ごと千切れ飛んだ。
魔王の尖兵は、明らかに弱っていた。だが、彼女の戦いぶりなど知りようがないナリスは、これが自分の技量によるものだと信じて疑わなかった。片腕を斬り落とされ、膝を砕かれ、遂には立てなくなった化け物に向かって、ナリスは若く猛々しい声で言い放った。
「死ね、化け物め。じきに魔王も送ってやろう」
ナリスの不運は、魔王という言葉に反応したアレリィが最後の反抗を試みた瞬間と、次兄の身を案じたナナリィがその名を呼びつつ丘に現れた瞬間が重なったことだった。
「ナナリィ?」
ナリスは平素から妹を溺愛していた。ナナリィに顔を向けた彼は妹を怖がらせまいと小さな笑顔を作ったのだが、その瞬間に眼下の化け物が動いた。
飛んだ――と思った。次いで、宙を舞っているのが剣を持ったままの自らの両腕であると知ったナリスは、渾身の力で横に飛び退った。誰もいなくなった空間を巨大な爪が襲い掛かり、地面を穿った。
「ちぃ兄! ちぃ兄――!」
ナナリィの絶叫が丘にこだました。
一瞬の不覚で戦況を巻き返されたナリスは、自らの失敗を悔やみつつも、死を覚悟した。彼に残された最後の仕事は、
「逃げろ、ナナリィ。奔れ、奔れ!」
と、妹に向かって叫ぶことだった。
ナリスは目を見張った。ナナリィが自分に向かって走ってきたからだ。
化け物の手が振り下ろされれば、ナリスは死ぬ。走って間に合うはずもないのだが、ナナリィはそのような疑問が浮かぶよりも遥かに早い段階で飛び出していた。自分でも思考が追いつかないほどの行動の早さに驚いていた。それは当然であるとも思った。
ナリスは斬り落とされた両腕から噴き出す血を気遣う暇などなかった。彼は彼で、妹の愚挙を止めねばならなかった。
ナナリィがナリスに、ナリスがナナリィに、そして、魔王の尖兵がナリスの背に向かって飛び出した時、風を切る音と共にその場の空気が一変した。
血まみれの兄に飛びついたナナリィは、自分の頬がいつの間にか涙で濡れていることを知った。後で知らされたことだが、彼女は村人の一人に危急を知らされて以後、ずっと泣いていたらしい。泣きながら走り、泣きながら、兄を救うために飛び出したのだ。
振り返ったナリスは、幾本もの矢に貫かれた巨体を見ていた。逆の方を見れば、たった今駆けつけたばかりのレテを始めとする村人が、化け物に向かって自動弓を構えていた。
「ナナリィ、こっちに来い!」
普段は皮肉っぽい笑みを浮かべるだけのレテが、険しい声色で叫んだ。ナナリィは手首から先のなくなった兄を背後から抱くようにして引きずろうとするが、ナリスの巨体は非力な少女の力では動かない。
化け物は、明らかに怒り狂っていた。昆虫のそれを思わせる真紅一色の目から光が迸り、眼下にいるナリスを睨めつけているらしかった。レテ達の放った矢は確かに効いていたが、絶命させるには時間も数も足りなかった。
ナリスが狂ったように妹の名を呼び、自分を置いて逃げろと叫ぶと、化け物は鋭い爪で彼の首をつかみ、軽々とその巨体を持ち上げた。
「やめで! ちぃ兄放して! 殺すならわだすを殺しなさい!」
爪につかまって反抗したナナリィの手から血が流れ出た。化け物は蝿を振り払うのと同じ素振りで、ナナリィを振り落とした。
(ちぃ兄が死ぬ……)
次の瞬間、新たに放たれた矢が、化け物の肩に刺さった。ナリスに当たるのを恐れて村人達が見守るしかない中、レテが第二の矢を放っていた。
(レテ兄……)
このままではナリスが化け物もろとも殺される。レテはそれをするだろう――とナナリィは直感した。だが、このまま眺めているだけでも、大切なちぃ兄は首をへし折られて死ぬ。そう思った彼女の視界に、幾百年もの間風雨にさらされ続けた錆の塊が映った。
すぐさま起き上がったナナリィは、地に突き刺さった勇者の墓標目掛けて飛び出した。剣は地にこびりついたように固く、抜き取った拍子に尻餅をついた。ナナリィは立ち上がり、化け物に向かって突進した。
「こんのぉぉおお――!」
奇しくも同時に、レテが傍立つ村人から奪い取った自動弓で三の矢を放ち、それが化け物の眉間を貫いた。ナナリィが化け物に向かって突き出した勇者の剣は、永い年月には耐えられなかったのか、もはや頑健とは程遠い皮膚に刺さる前に折れていた。
巨体が地響きにも似た音を立てて、倒れた。剣など手にした事もないナナリィは勢いあまって化け物に抱きつく形で転んだ。
『陛下……いずこにあらせられるのです? 陛下……』
気のせいか、少女のような声がナナリィの頭に響いた。だが次いで聞こえてきたのは、兄や村人達の歓声だった。
共和国元首レギスが、国境付近に現れた怪物が小村の若い兄妹に討伐されたという報に接し、驚きのあまり議長席から転げ落ちる少し前、同じ報告をドミテアから受けたサクラは、一時我を失った。その時は自分で何をしたのかも覚えていないが、後から聞かされた話では、幽霊のようにふらふらと王座から立ち上がり、ドミテアの呼びかけにも応じないまま寝室に篭ったという。魔王のあまりの取り乱しように、後を追ってきたドミテアが、
「アレリィは王の尖兵としての責務を全うしたことを誇って死にました」
といったところを、サクラは鬼のような形相で睨めつけ、
「うるさい、黙れ。お前も化け物にしてやろうか!」
と、叫んだという。化け物になるわけにはいかないドミテアは黙って引き下がった。
何かの聞き間違いかと思っていたが、サクラは達かにアレリィの断末魔を聞いた。自分のことを呼びながら、絶望の中であの子は死んだのだと、サクラは図らずもそのように仕向けた自分を呪いたくなった。
「アレリィ……許してくれ。うぅ……アレリィ……」
魔王が心身打ちのめされ食事も喉を通らなくなったのとは反対に、魔王の尖兵による国境守備兵壊滅の報に、ジェベ全土が熱狂の嵐に包まれた。そして戦闘には適さない冬を越えて、麗らかな陽光が大地の眠気を醒まし始めた頃、真の意味での魔王戦役が勃発する。
第一章「魔王の尖兵」了
第二章「慈悲なき巨人」へ続く