第一章「魔王の尖兵」(6)
サマル共和国とジェベの国境からわずか南に、ナリアという小村がある。地図の端にあるこの古びた村の名が、サマル全土だけでなく、ジェベや浮遊大陸の人々にまで広く知られているのには理由がある。
魔王伝説の時代に、この村は勇者ナナリスを輩出した。偉大なるナリスという意味でナナリスと呼ばれる伝説期の英雄は、ジェベ地方を征圧中の初代魔王が本拠にしていた第六魔王宮に、わずか五十騎を従えただけで奇襲をかけ、見事に魔王を討ち果たした。第六魔王宮を出ることなく死んだ勇者ナナリスは純粋種による大反抗を見ることはなかったが、その契機をつくった人として後世に語り継がれている。村の名も、ナナリスにちなんでつけられた。
この小さな村に、仲睦まじい三兄妹がいた。根暗に見えて頭の切れる長兄のレテは今年で二十六歳を迎える。次いで兄より四歳年下で、屈強な体格を持ち、かつての英雄と同じ名を持つナリス。そして先月十四歳の誕生日を迎えたばかりで、美しさでは村一番と評判の妹ナナリィは、早くに親を亡くしたこともあってか、村中から愛される兄妹だった。特に次男のナリスは、かつての英雄の再来といわれるほどに勇敢で、魔種の一部族が国境を荒らした際に、村の男を数人引き連れて国境まで迎撃に向かったこともある。戦闘から帰還した彼は、切り取った魔種の長い耳を妹のナナリィに見せて怖がらせた。魔種の耳は国境守備兵の駐屯地に送られ、相応の銅貨と交換された。
ナリアの外れに村を一望できる丘がある。そこに錆び付いた一振りの剣が墓標のごとく地に突き立てられている。勇者ナナリスの愛剣と伝えられており、ジェベの地で死んだ勇者の剣が何故故郷に戻ってきたのかは誰に説明できるものでもないが、サマルの純粋種が剣の丘を訪ね、かつての勇者を偲ぶという意味では、それなりの役割を与えられていた。
勇者の後裔を自負する次兄ナリスは、この丘に詣でるのが日課だった。特に、ジェベの地で魔王が復活したという噂に接して以来、自分がかつての勇者の意志を継いで魔王を討つ――と密かに誓っていた。
そして、伝説にある魔王の尖兵は、この地に降り立ったのである。
第六魔王宮を目指していたはずの尖兵アレリィが、帰還ついでに目に入った村を襲撃したわけではない。今の彼女には、飛ぶだけの気力すらなくなっていた。
アレリィは魔王の唇に己のそれを重ねて以来、徐々に頭の底が寒気を感じるようになり、国境守備兵を壊滅させた頃には視界が真っ暗になった。それでも微かに魔王の温もりを感じ、その方角に向けて飛び立った。彼女にはわかるはずもないが、これまで鋼鉄の剣を弾き返した体表は炭のように黒く変色し、徐々に崩壊を始めていた。口もないのに息苦しくなり、羽を休めようと小高い丘に降り立った。そこに、サマル有数の剣士ナリスがいた。
国境守備兵壊滅から二日。魔王の尖兵が付近の村を襲撃しているという噂は、ナリスの耳に入っていた。顎が四角く、肩幅が異様に広いナリスは、伝説を語っては勇者ナナリスに恋をする乙女の勇者像からは程遠い男だったが、突然目の前に現れた怪物に物怖じすることなく挑んだという意味では、確かに勇敢だった。
末の妹ナナリィは、ナリスの粗暴な振舞いを「勇者ごっこ」といってからかう長男レテに命じられて、薪割りをさぼって抜け出した兄を呼びに剣の丘に向かっていた。
寒い。氷漬けの森と別称されるジェベ地方から近いナリアは、冬は相当な寒気にさらされる。病弱な長兄レテと違って、体の頑健さは次兄ナリスに似たらしいナナリィは、何度か立ち止まって手に息を吹きかけながら、兄の下へと急いだ。
しばらく進むと、丘の方から数人の男達が、悲鳴を上げながらこちらに奔ってきた。
「ナナリィ、逃げろ! 化け物だ。魔王の尖兵がこの村に来た!」
ナナリィは兄のためにと薬湯を汲んだ水筒を落としてしまった。動転した彼女は、しかし兄の命を気遣うことを忘れなかった。頭は良くともどこか冷たいレテとは違って、粗暴ではあっても根は優しいナリスの方に懐いていたこともある。
「ちょい待って。ちぃ兄は? 置いでぎたの?」
逃げ惑う村人の一人の袖をつかんで、ナナリィは問うた。都会の御嬢様なら卒倒してもおかしくない凶報に接しながら、ナナリィは意識を強く保っていた。普段は大人しいが、ふとした時に気丈さを見せる彼女は、長男レテの言葉を借りれば「小さなナリス」だった。
「化け物と戦ってる」
長い黒髪をなびかせて、ナナリィは走った。ふと、レテに知らせるべきか迷ったが、逃げていった者達がそれを伝えるだろうと思い、丘へ向かった。踏みしだいた雪が弾けた。