第一章「魔王の尖兵」(3)
魔神祭が始まり、五日目になった。男連中が狩りを行う日だ。
結局、あの後サクラは人間の商人に詳しい話を聞くことができなかった。
「坊や。旅での野宿にはいつでも危険が付きまとう。だから商談を急がない商人でも、旅中は常に早足だ。またどこかで会うことがあればゆっくり話をしよう。私の名はダリムだ」
と言われて振り切られてしまったのだ。不思議に思ったのは、どうやら商人は興味本位で神聖な石棺に触れたらしく、巫女のアレリィを激怒させたらしいことだ。彼が早足で村を去ったのも、不穏な気配を感じ取ったからだろう。
エアの予想通り、サクラは狩りには参加しないつもりだ。それよりも、祭りの最中も儀式のために祠から動かないアレリィを見ている方がずっと楽しいに決まっているからだ。
祠の中心に石棺がある。その前で祈るアレリィを端から眺めているサクラの肩を叩いた者がいた。男連中でも頭の切れる一人で、狩りに加わらないかと誘ってきた。何か裏があると自分で思いながらも、やはり同性から爪弾きにされるのは少年には耐え難いもので、サクラは乗り気でない自分を装いながら、これを受けた。
案の定、サクラは狩りが始まるや否や他の男達に取り押さえられ、縄で縛られた。
彼の細く小さな体は刃を潰した槍に括り付けられ、まるで八つ裂きにされる前の小猪のように地面に立てられた。サクラはこれだけで、他の男連中の狙いが何であるのかを知った。彼らはすばしっこく逃げるエアの捕獲を早々にして――いや、狩りの始まる遥か前の時点で諦め、サクラを人質に取ることによってエアをおびき出そうとしたのだ。エアがサクラを助けないはずがないことは、当のサクラ本人も確信するほどに、容易に想像できた。
だが、知恵では女連中を遥かに上回ると豪語する彼らは、激怒したエアがどのような行動に出るかまでは予想していなかったようだ。
エアは確かにサクラの前に現れた。だが、草むらの中でそれを見守っていた男達は、次の瞬間絶叫しながら逃げ惑うはめになった。エアが手に持った石を、上手く身を隠しているつもりの男達の背後にある木に投げると、大きな蜂の巣が軽い音を立てて砕け散った。あぶり出されたのは彼らの方だった。エアは罠を軽々と避けながらサクラの前に立つと、
「サクラはアレリィが好きだと思ってたんだけど――」
と、奇妙なことを言いながら、縄を解いた。何処か楽しげなのは気のせいだろうか。
男達は散々な目に遭った。企みというには幼稚すぎるそれを看破したエアが、男達の退路に生えた草を結んで簡易の罠を作ったからだった。獲物であるはずの女達が罠をはるのは完全なルール違反だが、サクラを人質に取るような姑息な真似を辞さない男達に対する制裁のつもりだった。先頭の者が罠に足を引っ掛けて転倒すると、後に続く者は見事に前に倣った。彼らの内の多くは顔が膨れるほどに蜂に刺されたが、仲間に踏み殺された者がいなかっただけでもましと言えた。
エアは哄笑とともに森の中に消えていった。
自分を餌代わりにされたと知れば、サクラはこれ以上狩りに参加するつもりがあろうはずもない。ただ、彼の運の悪さは、滅多に体を鍛えない男達が、肉体的な痛みを与えられて激昂していることだった。唯一傷を負わなかったサクラに矛先が向いた。
狩りの趣旨が完全に変わった。男達は本気でサクラを狩ろうと動き出したのだ。問題は、彼らが刃を潰しているとはいえ、武器を持っていることだった。エアは男達が諦めずに自分を追ってくると思って、森の奥深くに身を隠していたから、サクラの危機を知った時は既に手遅れだった。
他人に自慢できることと言えば、エアに追われて培われた逃げ足の速さだけ――というサクラだが、相手が多いだけに分が悪かった。どうにか村まで帰りついたが、興奮した男達はそこでもサクラに当り散らすことを忘れなかった。ルール違反を犯したのは、いつの間にかサクラということになっていた。
雲が空を覆い始めた。雷雨の予兆があり、広場に並べてあった火人形がしまわれた。
「出て来い! 裏切り者のサクラ! いつもひとりぼっちのサクラ!」
声をそろえて村中を歩き回る集団を、祭りの余興と楽しまんばかりに、大人たちは端から見ているだけだった。サクラが見つかれば間違いなく私刑に遭うことを知りながら、誰も止めようとしないところに少年の孤独があった。掟を破って祭りを台無しにしたのは自分ということになっているから、逃げるしかない。エアの母はこれを信じ、サクラを見つければ男達に突き出すよう、村中の者に命じた。サクラは、血眼になって自分を探す男連中から逃れようと、神事のために一時的に巫女以外は立ち入れなくなった魔王の棺の前にまで行った。村の出入り口をふさがれた今、他に身を隠す場所などない。
侵入者に驚いたアレリィが声を出す前に、サクラは石の棺をこじ開け、中に身を隠した。
「僕が腹をさばかれて祭壇に内臓を捧げられるのを目の前で見たいか?」
サクラは鬼気迫った声でアレリィに沈黙を強いた。
棺の中は冷たかった。妙に香るので、サクラが手でまさぐると、一輪の花があった。商人とすれ違った時に感じたのと同じ香りが鼻についた。
(こんな所に白薔薇が……アレリィが供えた時に間違えて入ったのか? いや……そんなわけがない。ジェベに薔薇は咲かない)
ここから先のことを、サクラは憶えていない。いつの間に寝入ってしまったのか、背中に冷たい石の感触を覚えて身を起こそうとした時、棺の中がわずかに濡れていることに気づいた。最初は雨かと思ったのだが、何かが錆びついたような酸い臭いが鼻に付いた。
風が強いのか、巻き上がった砂が石の棺をせわしなく叩く。外が少し明るい。まさか朝方まで寝こけてしまったのかと、サクラはおずおずと棺から顔を出した。
サクラは目の前で起きている現象を理解できなかった。何を間違えればこのような事態に陥るのか。棺から顔を出した少年を囲むように、村中の者達が平伏していた。明るいと思ったのは松明のせいで、いつの間にか日が沈んでいた。地に額を擦りつける者の中には、先ほどまでサクラを追い回していた男達もいた。
その中で唯一、棺の正面にいたアレリィが、顔を上げてサクラを見ていた。
「王よ……王が甦られた……」
いつもは神前で何やらぶつくさと呟いている印象しかないアレリィが声を張り上げたので、サクラは余計に混乱した。
「白薔薇を赤く染めし者よ。天雷とともに甦りし、荒ぶる王よ!」
涙まで流す彼女をよそに、何人かは明らかに驚いた様子でサクラを見上げた。
「……生きているのか?」
周囲がざわめいた。何が起こったのか今だに理解できないサクラは、彼らをかき分けるように奥から現れたエアを見て、初めて安堵した。
「サクラ……何がどうなっているの?」
どうやら今帰還したばかりらしい彼女は、サクラと同じく状況が理解できないようだ。
「こっちだってわからない。気づけばこうなってた」
「気づけば……って、サクラ。血が出てるじゃない!」
指摘されて初めて、サクラは額に火傷にも似た鋭い痛みを感じた。手で触れてみると、血糊がべったりとついていた。嫌な予感を覚え、棺の底を指でなぞると、黒ずんだ液体がねっとりと付着した。よく見ると火でも焚いたのか、棺が焼け焦げている。サクラは、手に持つ白薔薇を見た。自らの血で真っ赤に染まっていた。
自分の血など見慣れているサクラも、気味の悪さもあってか蒼白になった。
「ちょっと、大丈夫?」
サクラに近づこうとするエアをアレリィが阻んだ。
「王前です。跪きなさい!」
サクラがこの言葉の意味を真に理解した時、彼は既に村にはいなかった。