第一章「魔王の尖兵」(1)
「我が名を書き留めるでない。お前達は無知の中にあるのだ。お前達を家畜のように扱う者どもと同じ過ちを、孤に求めるのか」(ドラカァ族に伝わる初代魔王の口承より)
《戦役初年》
ジェベと聞いただけで、南方の人は身を震わせる。大陸北端に位置する寒冷の地である。
この地方に住み着いている民族は他と大別して魔種と呼ばれる。主に銀髪で、耳の先が長細く尖っていることの他に、男よりも女の方が長身で体格にも恵まれていることから、「女族」と蔑称されることもある。この地方に魔王伝説がいつからあったのかはわからない。かつて世界を支配したという魔種の王のことだ。
伝説の時代まで遡れば、魔種は冬になれば氷付けになるジェベの荒野に逼塞していたわけではなかった。彼らの故郷は、もとは温暖の地にあった。サマルと呼ばれる南方の平野は、今は異民族達の楽園と化している。彼らは自分達のことを純粋種と呼んでいて、耳も魔種のように長くもなく尖ってもいない。男の方が女より体格が優れてもいる。彼らは、人口比で言えば大陸の七割強を占めていた。古来から魔種とは仲が悪い。
ジェベの魔種にとって、サマルは、比較的住みやすい夏の頃は淡い夢のようでもあり、厳しい冬の頃は逃れられない悪夢のようなものだった。長い歴史の間に有能な指導者をもたなかったわけでもない魔種が、魔王の栄光を追い求めて捲土重来を成さなかったのは、彼らが平和を愛する民族であったというよりも、伝説の戦役以降の数百年の間、極寒の地を開拓することに全力を注いできたから――悪く言えばそんな余裕も力量も失ったからである。
その中でもエアリィ族は古風を残しており、女達が狩りに行っている間、男達が学問で遊ぶ。魔種の女は雄大な体躯を持っている者が部族の中で有利な立場を得ることができ、男はただ頭さえよければよい。頭の悪い者は、常に雑用や力仕事にまわされ、同じ仕事を請け負う女達から軽蔑された。
魔種の少年サクラは後者に属した。
頭が悪いわけではない。だが彼は、純粋種との混血というだけで、同輩から忌み嫌われた。純粋種のように黒髪を受け継いではいても、体格は魔種の男の典型で、背が低く、力も弱かった。まだ十四歳という幼さにあっても、骨格からして偉丈夫にはなれないだろう。
エアリィの男達の楽しみといえば、ねちねちと過去のことを掘り起こしてはつまらぬ談義を繰り返すことである。その日も魔王伝説の話に熱中していたのだが、話が魔王の敗北するところまで及ぶと、
「魔王は何故負けたのか?」
という議論になった。
一般的には魔王の敗因は、彼に征服され、忠誠を誓ったはずの純粋種が寝返ったことにあるといわれている。ここまで話が来ると、決まって純粋種の悪口に発展し、その血を引くというだけでサクラは非難の的になった。
「お前の先祖は髪に泥を塗りたくったらから、そんなに黒ずんでいるんだ」
理不尽を超えて幼稚な罵声を浴びせられ、雨が降った後のぬかるんだ地面に数人がかりで顔を押し付けられたこともある。
「侵略者の子め!」
というのが、決まり文句になった。伝説での侵略者は大陸制覇を行った魔王なのだが、魔種のいう侵略とは、魔王の死後に純粋種が起こした大反攻によって彼らが故郷のサマル地方を追われ、寒冷のジェベに閉じ込められたことを指し、あるいはその後も断続的に行われた嫌がらせにも似たジェベ遠征のことを指していた。
両親が若死にして孤児となったサクラは、族長に引き取られた。族長の娘エアが長斧を片手に同輩の男達を蹴散らすのも、ここ数年の日課だ。
「何でいつも、あんたは黙っているのよ。悔しくないの?」
エアは、すらりとした長身の娘で、並び立てばサクラの頭が彼女の肩あたりにくる。彼女が他の族人から一目置かれているのは、第一に族長の娘ということがあり、第二にその美貌があった。サクラいびりをして怒ったエアに蹴散らされる部族の若い男連中も、半ばは彼女との接点に幸福を感じてもいたのだ。
銀髪や赤髪などの明るい髪色をした人間の多い魔種の中では、とりわけ鮮やかな橙色の髪をしている。生来のものではなく、生まれた時に橙の星に祝福されるとの神託があったので、染色を行っている。瞳はこの地方の魔種に多く見られるように、金色の光を鈍く秘めている。
狩猟用の真紅に染め上げられた胸当ては、部族長の家人にしか着用を許されていないから、それを見るだけで遠くにいる者も彼女の姿に気づく。
「別に、悔しくなんかない……」
サクラは口元についた血を拭った。視線をエアと合わせないのは、わだかまりがまだ消えていないからだ。
エアは怜悧な娘である。サクラの言葉に嘘があることも、彼の憤りが、本来は味方であるにも関わらず、出自というどうしようもない一因のみで彼を攻撃する同輩達にではなく、姉貴分であるエアの助けを借りなければ何もできない自分自身に向けられていることも十分に理解している。第一、他の魔種のように髪の色を抜けば、少なくともそれをだしにされることもないだろうに、サクラはそうしない。彼が母である純粋種の血筋を捨てるつもりがないというよりも、捨てたところで本質は何も変わらないことを理解しているのだろう。だからといって男同士の争いに口を出さないといった冷徹さは、エアは持ち合わせていなかった。
エアが三歳年下の少年を抱き寄せると、歳若い娘が小動物を抱えているように見える。
「うっ……ぐ……やめて、エア!」
サクラは、エアの胸に無理やり頭を押し込まれるようなこの状態が、大嫌いだった。自分が可愛がられているという自覚は、自分の力だけで何かを成したいと思い始めた年頃の少年には、嫌悪に値した。
「……ぷはっ!」
水面から顔を出すように、サクラはようやくエアの抱擁から開放された。よほど苦しかったのだろう。他の男からしてみれば至福に違いないエアの腕の中から飛び出すと、小走りで彼女から離れて悪態をついた。
「うるさい。エアはいつもうるさい! 早く誰か婿を取っちゃえよ。そうすれば毎日窒息しないですむから!」
「何だって? サクラ!」
エアも気が短い。彼女を怒らせれば斧が飛んでくることもあるから、サクラは、これだけは彼が他人に自慢できると思い込んでいる逃げ足の速さで、森の奥まで消えてゆくのだった。健脚のエアがこれに追いつけないこともないのだが、彼女は村周辺の抜け道を熟知していることを密かに自負するサクラに撒かれてやるのが常だった。
「サクラ、晩メシまでには帰って来なよ――!」
何もかも見透かされたようなエアの台詞を木陰で聞いていたサクラが、ちっ――と舌打つのも、日課といえばそうだった。
だが、サクラにとっての平和な日々は、もう間もなく断絶する。