第二章「慈悲なき巨人」(6)
エアが魔王宮に乗り込みサクラに「謁見」した事実は、魔王が唯一支配下に置く近衛軍からの不信任に等しいことを、ドミテアはよく理解していた。ただでさえ離散傾向の強い魔種であるから、魔王が反乱によって非命に倒れたりすれば、第六魔王宮の権威はたちまちにして失墜し、ドミテアも一祭司長の地位に転落することは間違いない。アゼル率いるサマル正規軍に勝つ目算など全く立たない中で、ドミテアは本格的な反抗に出ざるを得なくなったのだった。
老将アゼルは、ジェイオのように平原での決戦に持ち込むことに固執しなかった。彼は、例年の如く遊撃戦法をとる魔種の部族を各個撃破することに専念した。本隊から離れての追撃は禁じられ、ジェベの戦士お得意の誘引戦術は全て潰された。
戦役二年目の十月二十日、各部族の長を一同に会したドミテアは、ジェベ南端にあるアルダイ渓谷にて敵を迎え撃つことを決定した。集結が完了した六万のサマル正規軍に対して、魔種側は魔王近衛軍八千と各部族から提供された戦士三万の軍勢でこれを迎え撃つ。
ジェベの魔種を総動員すれば十万は下らない。だが、一度は魔王に恭順の意を示した彼らも、こうも旗色の悪い戦に乗り気になるはずがない。サマルの総司令官アゼルは、強大な部族をいくつか打ち破ることで、魔種内の動揺を誘い、一部の部族を魔王側から離反させることに成功していた。ドミテアの下に、まず痛手を被ったクゥンとドラカァの二部族から、兵力提供に対する拒否の回答が届いた。
「自分達で勝手に戦い始めておいて、今更何を言うか!」
魔王の名を騙って国境付近を荒らしまわり、しかもアゼルに大敗することで戦略的に魔種全体を不利に追い込んでおいて、悪びれずにその尻拭いを魔王本人にさせるというのは、ドミテアならずとも罵倒したくなるだろう。ただし、形式だけとはいえ彼女の策略によって各部族が魔王の傘下に入ったという意味では、ドミテアこそ責任を問われる立場にあった。
五日後の十月二十五日、第六魔王宮から南へわずか五日の距離にあるアルダイ渓谷にて、両軍は出会した。この時点で既に、ドミテアは致命的なミスを犯していた。
第六魔王宮に見られるように、ジェベ地方には天然の要塞が多い。アルダイ渓谷もその一つで、南方から進軍する敵を包囲殲滅するに適した地形をしている。瓢箪のように渓谷の中心が狭まっていて、南方の低地に敵が納まりきったところを、南北から挟撃するというのが、ドミテアの立てた戦術である。
このように、歴代のジェベ遠征軍は、敵と戦う前にまず地勢での不利をつきつけられてきたわけだが、クゥン族の捕虜の案内を得たアゼルは、これを克服していた。ドミテアもそれを理解した上で布陣するべきだった。
アルダイ渓谷の北には盆地が広がっていて、その先は天井の崩れ落ちた大規模な洞穴であり、そこには第六魔王宮がある。アルダイ渓谷から第六魔王宮にかけては、決して南方のサマルのように平坦ではなくとも、大規模な会戦を行うだけの広さがあった。アルダイ渓谷を踏破して南から大軍を送り込んだのは、初代魔王ただ一人である。彼の墓所でもある第六魔王宮は、前人未到の地に踏み込んだ英雄の巨大な戦勝記念碑でもあった。第六魔王宮の北はほとんど山地しかなく、ジェベの魔種が極寒の地で暮らしている。
アゼルは六万の兵力の中で選りすぐりの精鋭一万を引き連れて、先にアルダイ渓谷の難所を踏破してしまった。魔王軍の主力は第六魔王宮に集結しているものを除けば、個々の部族が各地の守備についていた。アルダイ渓谷ももぬけの空ではなかったが、彼女らは猛牛のようなサマル正規軍に手を焼いた。一万の内、二千兵が脱落するという、常識では考えられない強行軍である。魔王軍の主力が到着した頃には、既に遅かった。
異説もある。『魔王戦記』においては、ドミテアがアゼル率いるサマル正規軍をアルダイ渓谷の奥へと誘引し、包囲殲滅を企図したことになっている。実際のところ、ドミテアの躊躇が戦略の幅を狭めた結果、後者を選ばざるを得なかったのではないか。記録では包囲戦は行われなかったようである。
包囲作戦を行わない魔王軍側に残された戦法は、手勢を全て相手にぶつける以外にない。サマル正規軍の兵数が相当に少ないことだけが、好材料だった。
「如何なさるのか?」
今や幕僚でもある部族長の一人に問われたドミテアの心中は、人知れず揺れていた。
ドミテアは、敗色濃厚になれば真っ先に逃走を始めるであろう非正規軍をあてにしていない。彼女が考える魔王側の純粋な戦力は、近衛軍八千だけである。彼女らを前面に出してアゼルを迎え撃つのが第一の選択である。第二の選択は、他の部族に戦闘を任せて近衛軍を温存し、敗走後は第六魔王宮を捨て、山岳戦でアゼルを悩ませた後に、講和を行う方法である。近衛軍が粉砕されれば、ドミテアは自分の支持基盤を失うことになる。アゼルが名将である以前に、サマルと全面戦争を行って勝てるだけの力がまだジェベにはないことを、ドミテアは誰よりも理解している。
結局、ドミテアは後者を選んだ。近衛軍は温存し、各部族から集まった部隊が前線に立った。エアはドミテアの戦術のまずさに気づき、魔王のいる天幕を睨みながら、彼女をこき下ろした。
「今すぐ出撃すべきよ! 敵の陣形はまだ整っていないのに!」
近衛軍だけでも敵にぶつけるべきだというのが、彼女の意見だった。実のところ、アゼル率いるサマル正規軍は強行軍で疲弊しており、エアの言うとおり大軍を相手にして戦えるだけの力はなかったのだ。だが、アゼルはそれを巧妙に隠した。いかにも自分の側が有利であるかのように見せ、小部隊を繰り出しては魔王軍側を挑発した。敵軍の士気が高いとみたドミテアは、安全策をとる方を選んだのだ。