第二章「慈悲なき巨人」(3)
魔王戦役二年目の三月十日。遂にサマル遠征軍がジェベ遠征を開始した。共和国元首レギスから総司令官に任命されたジェイオは、彼自身の慎重な性格もあってすぐさま山岳部に突っ込むことをしなかった。冬にサマル全土を震撼させた三千の国境守備兵壊滅の事実は、彼にこの度のジェベ遠征が以前とは全く違う展開を見せることを予感させた。
遠征軍と称しながら、壮年の司令官ジェイオは待った。彼は国境を越えはしたものの、その付近で演習を行ったりして魔種への挑発行為を繰り返すだけだった。
サクラは相変わらず溜め息にくるまれたような日々を送っていたが、ドミテアからサマル遠征軍が不動であることを聞くと、
「エア達が血気はやって飛び出さないようにね」
と、勅命ともつかぬことを凛々しい側近に漏らした。
勿論、サクラにわかる程度のことをドミテアにわからぬはずがなく、彼女もジェイオの狙いを読み、魔王軍は勿論のこと各部族に対して軽挙を戒めた。
「こちらは待ってさえいれば、ジェイオの方が為す術を失くすだろう」
ドミテアは「血気はやった者たち」に対して言ったが、ただ何もせずに待っていたわけではない。純粋種と交易する魔種を用いて、ジェイオに関する悪い噂を王都に振り撒いた。曰く、「将軍は魔王に関する悪い噂を信じて、縮こまってしまったのだ」と。
栄えあるサマル元老院の議員たちで、このような噂を信じるような能無しはいたって少数派である。だが、市民の中にはそうでない者も多かった。彼らはジェイオへの不満をレギスに向け始めた。いや、市民がそんなものにどれほど熱中するだろうか。つまるところレギス本人がジェイオに戦果を求め始めたのである。
四月に入ると、元老院からの通達がジェイオを困惑させた。勇者ナナリスを前線に送るということである。
これはジェイオからすれば迷惑以外の何ものでもなかった。確かに士気が上がっているとはいえないが、待ちに徹した状態で兵士を無用に鼓舞すれば、意気上がっても出撃はできない彼らは司令官に不満を抱くようになる。
あれほど魔王討伐には時間がかかると言ったのに、元首レギスは少し忍耐に欠けるのではないか。
(ソロンあたりが疎ましくなったのだろう)
もとより反対派の声が大きい遠征である。ひとまず師旅を送り出したとしても、レギスは元首としてその正当性を元老院に――ひいてはマラカ市民に示し続ける義務がある。
戦は勢いの化け物である。それは戦線にのみ起こるものではなく、いやむしろ、後方において激しさを増すものである。ジェイオは出立前に、レギスに対してジェベ遠征の困難をくどく説明した。だがレギスは好戦派の追求をかわしきれずに妥協案に走ったのだろう。ジェイオにとってみれば迷惑この上ない話だが、レギスの立場が危うくなれば司令官交代もありうるのである。
忍耐に欠けるものは尽く人の上に立つに値しない。ジェイオもその例に漏れず、鷹のように鋭い眼でジェベの山岳地帯を睨みつけながら、静かに時を数えていた。
やがて、ジェベの魔種が南下を開始した。
「よく我慢したものだ」
ジェイオが敵を褒めたのは余裕からではなく、少なからず安堵もあったであろう。
四月四日の昼、国境守備兵の駐屯地から東に三日の距離、ナリアから見れば北西に七日の距離にあるフェレ平原にて両軍は出会した。北に陣取った総勢五万の魔王軍は右手にフェローロ川、背後にジェベ山脈、左手にレジイの森を見、ジェイオ率いる二万のジェベ遠征軍は左手にフェローロ川を見ながら南側に陣を置いた。
魔王軍の事実上の総司令官であるドミテアには、当初、サマル正規軍と正面から会戦を行うつもりなど毛頭なかった。だが、アレリィの活躍に光明を見た多くの部族は、サマル正規軍との決戦を主張して譲らなかったのだ。彼らは、魔王がこれ以後も尖兵を作り出すかなどということは、どうでもよかった。エアの言葉を借りれば「一人でも多くのニンゲンを、氷河に叩き落とすため」に決起したのだ。未だにサクラの血筋を理由にドミテア失脚を狙う勢力がある以上、消極的な戦いをして不評を買うのだけは避けねばならなかった。
万能人とはきっとドミテアのことに違いない――と、彼女の指揮を間近で見るサクラは思った。ジェベの魔種の戦法は、これまで一気呵成に襲い掛かっては逃げるという型に終始していた。魔種間の争いならこれでも通じたのだが、かつて南方で商人をやっていたというドミテアは何故かサマルの用兵にも詳しく、新生魔王軍を純粋種風の軍隊に造り替えてしまった。
ドミテアが編成した新生魔王軍は総数八千である。現在ジェベ遠征軍と対峙している五万は、各部族の長が自兵を率いて参戦したに過ぎない。ジェイオは相手の兵数が予想通りだったこともあってか、ドミテアの隠し球に気づかなかった。あるいは、ジェイオが待つことを選ばずにいきなりジェベの山地に侵入していれば、ドミテアが精鋭を鍛え上げている情報を得る事が出来たかもしれない。彼は魔種の些細な変化が魔王の即位以外にあることまでは考えなかった。
両軍が正面からぶつかった。サマル側は自慢の重装歩兵を前面に押し立てて相手の疲弊を待つ。対して魔王軍は数で押す戦法をとった。一時間ほどの戦闘で魔王軍側に疲れの色をみたジェイオは攻勢に転じた。結局は個々の部族でしか戦うことをしない魔種は、有力なひとつの部族が撃破されると、一転して逃走に転じた。だが背後は山脈。足が鈍ったところにジェイオ率いるサマル正規兵達が襲い掛かった。
例年の戦と同じならば、これで勝負が決するはずだった。
針葉樹が生い茂るレジイの森林地帯を迂回して現れた別働隊が、遠征軍の側面を痛撃したのである。彼女らの総数が五千を上回るという報告をジェイオが受けた頃には、既に陣形の一角が崩されていた。
魔種の中でもとりわけ精鋭を選抜して作った最強の部隊である。体格で劣るサマルの純粋種は、統率と兵略でもって魔種を圧倒したが、今度は魔種の方がそれを真似たのだった。
戦馬を駆って先頭を突っ切るエアは、自慢の戦斧で敵兵の頭を次々と叩き割った。
「いーやっほぅ!」
脳漿の混ざった血飛沫を浴びながら、エアは狂喜の声を上げた。
熊の毛皮を頭にかぶる魔種の勇士達は、敗色濃厚になり撤退を始めたサマル正規兵を、次々と河に叩き落した。魔王軍の本陣も息を吹き返し、反撃を始めていた。ジェイオが最後まで果敢な指揮を行ったこともあって、サマル正規軍は包囲殲滅を免れた。
『浮遊大陸千年紀』における魔王戦役の緒戦の評価は、実に簡略である。
『サマル正規軍は数で倍する相手に正面から戦った時点で、愚劣そのものである』
ただし、シル=ダリアの『魔王戦記』ではジェイオに対して若干の弁護が為されている。
『時のサマル正規軍は大陸最強であり、代々の遠征軍は数倍する魔種の軍勢相手に圧勝してきたのである。ジェイオの敗因は、後の魔王近衛軍の情報を事前に得なかったことに尽きる。もし、彼がより注意深くその情報を得ていれば、先に別働隊を各個撃破し、倍するとはいえ烏合の衆である残りの魔種を殄滅せしめたであろう』
ともあれ、フェレ平原の戦いは魔王陣営の圧勝に終わった。だが、勝ち過ぎたのだ。