元気いっぱい
元気いっぱい
登場人物
若草(旧姓、青竹)清志郎 旦那さん
若草糸 奥さん 一人っ子
青竹湖 清志郎の妹 清志郎のことが大好き
プロローグ
私はいつも、元気いっぱいだよ。
本編
若草家の日常
ずっと、私と一緒にいてください。
「大好きです。私と結婚してください」
青色の空の下で若草糸は青竹清志郎に愛の告白をした。そのまっすぐな告白を「はい。わかりました」といって、清志郎は受け入れた。
二人は結婚をして、夫婦になった。
清志郎は若草家に婿入りをして、青竹清志郎から、若草清志郎になった。
そうして二人は、田舎の町の郊外にある古い一軒家を借りて、そこで静かな二人だけの生活を始める、……はずだった。
「あの、どうして湖ちゃんがここにいるんですか?」
晩御飯の準備をしながら、同じように晩御飯の準備を手伝ってくれている、青竹湖に若草糸はそういった。
青竹湖は清志郎の妹だった。
少し歳の離れた妹。
そして、その妹は、歳の離れたとても優しいお兄さんのことが大好きだった。
「あら? いけませんか? 私、お邪魔ですか?」
じっと、冷たい目をして、糸を見ながら湖はそういった。
「いや、お邪魔ではありませんけど……、でも、どうして?」と糸はいった。
「私がこの家で食事をしてはいけませんか? もしいけないというのなら、夕ご飯の準備を終えたら、そのまま一人で帰りますけど……」と湖はいう。
「いいえ。別に一緒に晩御飯を食べましょう。みんなで食べたほうが食事は美味しいですから」とにっこりと笑って糸は言う。
「それにもう直ぐ、清志郎さんも仕事を終えて帰ってくるころだと思いますから」古い振り子時計(それは清志郎のお気に入りの古風な時計だった)を見て、時間を確認して糸は言った。
時刻は七時。
家の外はもう真っ暗になっていた。
「どうもありがとうございます」きちんとお辞儀をして、白いエプロン姿の湖は糸に言った。
でもそれから晩御飯の準備も終えて、(今日の晩御飯はカレーライスだった。カレーライスは清志郎の大好物だった)二人でお茶の間に移動をして、ちゃぶ台の家に食事を用意し終えて、じっと、清志郎の帰りを待っていたのだけどでも、七時半、八時を過ぎても清志郎が糸と湖の待つ、古い家に帰ってくる様子はなかった。
「……兄さん。遅いですね」ときちんと座布団の上に正座をして座っている湖が言った。
「ええ。本当に」とすごく心配そうな顔をして、古い振り子時計を見て糸が言った。
「あの、糸さん」
「はい、なんですか? 湖ちゃん」
にっこりと笑って糸は言う。
「糸さんは兄さんのどんなところが好きになったんですか?」湖はいう。
「どんなところって、えっと」
と糸は考える。(本当はすぐに全部です、という答えが自分の頭の中に浮かんだのだけど、恥ずかしいのでそのことを言うのをやめてしまったのだ)
うーんと考えている糸の顔をじっと湖は見つめている。
そんな自分より四つも年下の女の子の視線を感じて、糸は早く答えてあげないと、と焦ってしまう。
四つ年下、と言っても側から見るとどちらかというと小柄で童顔な糸のほうが背の高くて大人っぽい顔をした湖よりもずっと幼く見える。(実際には糸は二十歳であり、湖は十六歳の女学生だった)
「……優しいところ、かな?」
と少し顔を赤くしながら糸は言う。
「優しいところ。確かに兄さんはとても優しいですね。ずっと昔から、ずっと優しいです」うんうんと頷きながら湖は言う。
「湖ちゃんは清志郎さんのこと大好きですもんね」ふふっと笑って糸は言う。
「そんなことありません。私は別に兄さんのことなんて好きでもなんでもありません」と真顔のままで、湖は言う。
清志郎の年齢は二十二歳だった。
だから湖とは六つ歳が離れた兄妹ということになる。
六つ歳が離れている兄のことが湖は小さな子どものころからずっと(もちろん今も)大好きだった。
大人になったら兄の清志郎と結婚することが湖の(ずっと変わらない)夢だった。
もちろん、兄妹で結婚することができないことは(今はもうちゃんと)わかっている。
だけど実際に大好きな兄が結婚をすると聞いたとき、湖はショックのあまりそのまま気を失ってしまった。(自分でもびっくりした)
そのとき、清志郎と一緒に結婚の報告をするために青竹家に来ていた糸はとても驚いて、慌てて青竹家のみんなと一緒に湖の介抱をした。(その話は今では青竹家の家族のみんなが集まると絶対に話題に出る笑い話になっていた)
「湖ちゃんは清志郎さんのどんなところが好きなんですか?」糸は言う。
すると湖はすぐに「全部です」と自信満々の顔をして糸に言った。そう言ってから湖は「あ」と言って、すぐに自分の簡単な嘘がばれてしまったことに気がついて、その顔を赤い色に染める。(まあ、もともとみんな知っていることなんだけど……)
「お茶のおかわり入りますか?」
にっこりと笑って糸は言う。
「えっと、はい。いただきます。あ、いや、私がやります」
そう言って湖はお茶の準備をする。(私がやりますよ、いや、私が、というやりとりを糸をしてから)
二人はお茶を飲んで少しの間、無言になった。
糸は古い振り子時計を見る。
時刻はもう八時半を過ぎていた。
いくらなんでも、遅すぎると糸は思った。連絡もなしにこんなに帰宅が遅れることは今まで一度もなかったことだ。
だんだんと糸は本当に清志郎のことが心配になってきた。
どこかで事故にでもあったのではないだろうか? そんな空想が糸の頭の中には思い浮かんだ。
二人のいるお茶の間はしんと静まり返っていた。
物の少ない古い若草家のお茶の間は狭く、開いたままのふすまの間からは真っ暗になった中庭が見える。
そんな真っ暗な中庭には小さな光が灯っているところがある。
それは蛍の光だった。
鈴虫の鳴いている音も聞こえる。
糸はそんな風景に目を向ける。
「もう、秋ですね」
糸と同じように真っ暗な中庭を見て、湖はいう。
「はい。季節が過ぎるのは、本当に早いですね」糸は言う。
糸と清志郎が結婚をしたのは春だった。
桜が満開に咲いている神社で、糸は清志郎と結婚式を挙げた。その結婚式には湖も参加してくれていた。
それから、糸のお母さんもその場所にはいた。
糸のお母さん、若草高音は今はもうこの世界には存在していない。
糸と清志郎の結婚式のすぐあとに高音は病気で亡くなってしまった。それはとても悲しい出来事だったけど、お医者さんのいった余命よりも長く生きることはできたし、なによりも糸たちの結婚式を見てもらうこともできた。
それが叶って糸は本当に嬉しかった。(何度も何度もありがとうと糸は清志郎に言った)
糸は一人っ子で、お父さんは糸が生まれてすぐに亡くなって、家族はお母さん一人だけだった。
糸はずっとお母さんの高音と二人で暮らしてきた。(幸せだった)
これからも、こんなふうにずっと二人で、生きていくことができると、子供のころの糸は勝手にそう思い込んでいた。
糸がずっと秘密にしていたお母さんの病気に気がついたのは、ちょうど糸が清志郎と出会ったばかりのことだった。
お母さんが倒れたとき、糸は本当に世界が終わるかと思った。世界が真っ暗になって、ふらふらして、一人で立っていることもできなくなった。
「大丈夫ですよ、糸さん」糸を見て湖は言った。
「大丈夫?」糸は言う。
糸は湖を見る。
糸はいつの間にか泣いていた。
その涙は糸の真っ白な頬を伝って、ぽたぽたと糸のきている着物の腿のあたりを濡らした。
「はい、大丈夫です。兄さんは絶対に帰ってきますよ。きっともうすぐ、いつもと同じようにぼんやりとした顔をして、何事もなかったかのように、帰ってきます。このお家に。きっと、絶対」
湖は言う。
「絶対」糸は言う。
「はい。絶対です」ふふっと笑って湖は言った。
湖は自信満々の顔でそういった。
湖には兄の清志郎がこの若草家に帰ってくるという絶対の自信があった。なぜならあの、優しい兄がこんなにも可憐で、か弱くて、心細くで、泣いている糸のことを放っておいて、どこかに旅立ってしまうなんてことがあるはずがないとわかっていたからだった。
「兄さんは絶対に迎えにきてくれるんです」と湖は言った。
「迎えに?」
自分が泣いていることに気がついて、顔を真っ赤にしながらその涙を着物の袖で拭っていた糸がいう。
「はい。いつも絶対に私のことを迎えにきてくれます。私を一人になんてこと、絶対にそんなことを兄さんはしないんです。子供のころからずっとそうだったんです。きっと今もそうです。そうに違いありません」
湖は少しだけ畳の上を座り直すようにして移動をして、糸の手の上に自分の手を重ねた。
「だから大丈ですよ、姉さん」
にっこりと笑って、湖は言った。
湖が糸のことを姉さんと呼んだのは今日が初めてのことだった。
「ただいま」
そう言って清志郎が帰宅をしたのは午後十時を過ぎたころだった。
そんな清志郎に玄関先で「兄さん。遅いですよ。姉さんのことを一人にして、今までどこに行っていたんですか?」と物凄く怒った顔をして、湖は言った。
清志郎は若草家に妹の湖がこんな遅い時間にいることに(それから、もしかしたら湖が糸のこと姉さんと呼んだことに)驚いた顔をした。
それから湖の後ろにいる糸を見て、助けを求めるような顔をした。
そんな清志郎の顔を見ながら、糸はごめんなさい、清志郎さん、と口だけを動かして清志郎に言ってから、小さくその赤い舌を出して笑った。
悲しいことがあったんです。
元気いっぱい 終わり