一目惚れを理由に別れを告げられましたが、彼の意中の人は変装した私です
彼は私に会うなり、深刻な顔で「ごめん」と言いました。「君を裏切ってごめん」と。
私はその言葉に内心とても動揺しました。
でも、優しく生真面目な彼が私へどんな裏切りをしたのかわからないけれど、それでも多少のことなら私は、笑って許せるのではないかと思いました。
だから努めて穏やかに微笑みましたの。
「どうしたのですか、突然」
「君がいるのに僕は、好きな人ができたんだ」
2人きりの花園は、風のささやきさえもが息を止めたように静まり返り、そんな中でカシャンという音がしたので目線を下げると、私が持っていたはずのカップが割れてしまっていて、こぼれた紅茶が、花柄のテーブルクロスと、私のクリーム色のドレスを茶色く染め広げていくところでした。
「わ、大丈夫? 誰か……」
「あの、大丈夫です」
彼が立ち上がり少し離れた場所で待機しているメイドを呼びかけたけれど、私は彼を手で制して、メイドにも首を横に振って来なくていいとアピールしました。
熱いはずの紅茶はパニエが防いで素足には到達しませんでしたし、こんな惨めな気分の中で、代わりのドレスを選ぶ気にはなれないし、それに……今更めいいっぱいオシャレをしたところで、彼の気持ちは変えられないと思ったから。
「それよりも……」
それにきっと、真面目な彼のことだから、今までに相当悩んで、私に打ち明けているはずだもの。
「そんな、ことよりも……そ、その人はどんな方で、いつ……知り合ったのですか?」
「出会いは一昨日。街の中だったよ。びっくりするくらい薄汚れていたけれど、心が綺麗な人だった」
「そう……」
悲しく相づちを打ちながら私は『一昨日なら私も街にいたのにな』と思いました。
彼がその人と出会う前に、私が彼を見つけて声をかけていたら、私達はこのまま穏やかに過ごして、やがて結婚していたのかしら。
そんなもしもに想いを馳せたけれど、街へはお忍びで出かけていたから彼に見つかれば小言と共に強制送還されたでしょうし、そういえば一昨日の私は、水溜まりの中を転がって、今よりよっぽどずぶ濡れでみすぼらしくなっていたので、彼を見かけたら全力で逃げ隠れていたはずです。
「人だかりが出来ていて、中心にその人がいた。
どうやら、2階の窓から落ちた幼子をキャッチして、喝采を浴びていたらしい」
私は彼の話すその人の無謀さにとても親近感を覚えました。だって私もちょうど一昨日に同じことをしたんですもの。
親近感というよりも、どちらかといえば既視感というか……あら?
そしてそんな私の疑念は、続く彼の言葉でたった1つの確信になったのです。
「水溜まりの中で頬まで泥まみれになりながら、助けた子どもを叱ろうとした彼女は、その子の言い分を聞くと笑顔になって、そうしてその子の頭をなでながらこう言ったんだ。『お母さんのために、あの虹が欲しかったんだね』って」
あああああああーー!!
私の内面は恥ずかしさの余り、もんどり打ちながらヘッドバンキングをする勢いです。
だって『いつも地味な格好のお母さんに、あれをプレゼントしたい』なんて言うから、憎さ余って可愛さ100倍で……ってやっぱりこれは、私だわ!
あんな泥まみれでぐちゃぐちゃな姿を、よりによって彼に見られていたなんて!
動揺する私を見た彼は、なにをどう勘違いしたのか平民モードの私の言動に補足しました。
「あ、でもちゃんとその後で、虹には触れないことを子どもにもわかるような平易な言葉で説明して、もう危ないことをしないように約束させていたよ。クリーニング代を出そうとしたけれど断られてしまって……だから僕はその子の名前も知らないのだけれど」
そういえばクリーニング代を出すって言ってきた人がいたなあと思う私です。
でも平民にとってのクリーニング代は私にとってのクリーニング代よりもよっぽど高価なはずなので、全力で拒否して逃げました。
彼は変装中の私に気づかなかったけれど、私も変装中の彼に気づかなかったようです。
あら? なぜ彼も変装していたのかしら?
「……ってごめん、こんなことを君に話すのは、さすがに無神経だね」
「いえ……えっと、できればもっと聞かせてください。それで、これからどうなさるのですか?
というかどうして一昨日は市街地に?」
私はとりあえずそうして時間を稼ぎ、彼の話にふんふん頷きながら、正体を打ち明けるかどうか考えていました。
なぜなら私は、彼に正直に打ち明けられない理由があるからです。
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もともと私は、活発で無鉄砲なお子様でした。
どれくらい活発で無鉄砲かというと、綺麗な色の毛虫を乗せた木の枝を持って、毛虫が向いた方向にひたすら進む冒険ゴッコをしたりとか、東洋神秘の隠密ゴッコで壁登りをしたり、丸い板を着けた両足で池に浮く練習をしたりする程度のお転婆です。
ちなみに幼なじみでもある彼は、そんな私の後ろをべそべそ泣きながらついてくるようなお子様でした。
そんな私が今のようにおしとやかな令嬢になったのは、遊んでいる最中に高いところから落っこちて、頭に5針縫う大怪我をしたせいです。
当時、私よりも小柄だった彼が気絶した私をおんぶして運び、大人に助けを求めてくれたから、私に後遺症はありませんでしたが、もっと長い時間出血していたり体温が下がると危険だったそうです。
大人達の目が厳しくなって、私は冒険も忍者ゴッコも禁止されてしまい、淑女教育が始まりました。
でもそんな生活は窮屈でつまらなかったし、特訓の成果によって隠密行動は得意だったから、危険なことさえしなければ、ちょっとくらい息抜きしてもいいよね、と私は考えました。
そうして、彼にだけこっそり『変装して遊びに行こうよ』と誘った日があったのだけれど、それまではいつだって私に付き合ってくれていたのに、『ダメだよ……なにかあったらどうするの?』なんて泣きながら怒るから、私は本当の私を、彼に見せられなくなったのです。
だから私はそれ以来、屋敷の中で唯一私の協力をしてくれる同い年のメイド以外の人達の前では『おしとやかな令嬢ゴッコ』をしています。
そうしてフラストレーションが溜まってくると、平民姿に変装して市街地に降りて、本当の私がしたいことを思いっきりして発散しては屋敷に帰る二重生活を送っているのです。
回想おわり。
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さて、私はここで最大の皮肉に気づいてしまいました。
目の前にいる彼は、私から私らしさを奪ったうちの1人なのに……その日から長い時間をかけて作り上げた操り人形《周りが望むおしとやかで淑女な私》を捨てようとしています。
そしてそんな私を捨てる理由はよりにもよって、変装中の私に一目惚れしたからのようなのです。
でもそっちのほうの私……《無茶で無鉄砲な本当の私》は、誰にも彼にも望まれなかったから……だから私は今までずっと、見つからないように消されないように、隠してきたのよ。
今のままの私じゃダメだって言われたから、周りのためにと頑張って、変わったのに。
私の心の中にドロドロとした醜い感情が湧き上がりました。だからたぶんこの時の私は、なんの装飾も模様もない真っ白な仮面をつけたように心を隠して、彼に意地悪な質問をしたのでしょう。
「……その人とあなたは、再び街で出会って想いを伝えて、晴れて両想いになりました」
突然創作話をし始めた私を、彼は戸惑いながら見ています。
「ちょうどその時、悲鳴が聞こえて、一昨日のように窓から落ちそうになっている幼子を見つけます。彼女は当然助けようとしています。あなたはどうしますか?」
「どうしますか……って」
「彼女を止める? 腕を引っ張って」
「……そうだね、一昨日みたいに上手くいくとは限らない。もっと他の安全な方法にするべきだ」
「安全な方法? どんな?」
「それは……わからないけれど」
予想通りの回答に、私は嘲るようにケタケタと笑い、そうして薄ら笑いで彼に言いました。
「その人とあなたはその場から動けませんでした。幼子は……まあ、近くにいた勇敢な人が助けてくれたとして……それでもあなたが好きになったその人は、その瞬間にこの世界から消え失せました」
私が変わるしかなかったように。
「……だってそうでしょう?
あなたはその人の、身をていして幼子を助けたところに一目惚れしていたはずなのに、付き合った途端にそれをするなと言い出すのだもの」
息抜きをしないと潰れてしまいそうなくらい、たくさんの無理をしてきたわ。
だって、あなたが望むように生きれば、ずっと一緒にいられると思っていたの。
でも、違った。
「『ああすべきこうすべき』と、なんであなたが決めてるの? そんな人、好きでもないくせに。
……でもその子はきっと、あなた好みになろうと頑張ってしまうわ。そうして費やした努力の分だけあなたの心は離れていって『他に好きな人ができた』なんて理由で……捨てられるんだわ!」
心配されて。悲しませて。
それでも私は私を貫いたらよかったの?
正解が、わからない。
だから、何度やり直したって私達はきっと、ずっと一緒にはいられなかったね。
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彼を置いてきぼりにして自室に戻ると、私の秘密を知っている唯一のメイドが私に続いて室内に入りました。
「お嬢様、近々また街に行きませんか? お忍びで。今なら私もお供しますよ」
「……うーん」
「お嬢様とバレず、彼の想い人とも違う姿ならいいんですよね? ちょびヒゲや白ヒゲで男装をするのもありかと」
そう言うメイドのエプロンから次々とヒゲが出てくる様子にはさすがの私もぎょっとしました。
「なんでそんなものが」
「こんな日もあろうかと」
ぐちゃぐちゃな気分だったのに、それでも人は笑えるもので、私とメイドは同じタイミングで吹き出しました。
メイドの心遣いがささくれた心に優しく染み入って目尻に涙がにじんだものの、笑って出た涙のフリをして、私はそれを人差し指でぬぐいました。
「ううん、とりあえず大丈夫。しばらく街へは行かないよ。でもありがとうね」
「私は少々破天荒なお嬢様が好きですよ」
「私も用意周到なあなたが好きよ」
そんな軽口が叩けるくらいにはメンタルが回復して、私は彼との別れを少しずつ受け入れながら少しだけ泣き、眠りにつきました。
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いつもよりもずっと早い時間に眠りについたからでしょうか。私は変な時間に目が覚めてしまって、しばらくぼんやりとしていました。
そうして徐々に脳が覚醒してくると、窓をコンコンと打つ控えめな音に気づいたのです。
ベッドのカーテンを開いて窓を見ると、バルコニーにはなぜか彼がいました。
私はスリッパを足にひっかけると、慌てて駆け寄り窓を開けました。
「なんで? ここ、3階……」
「壁を登るよ」
「え?」
「今度また幼子が、窓から落ちそうになったら……その子が落ちるよりも前に、僕が壁を登ってその子を助けるよ」
「そう……」
「この先、僕は、相手のやることを極力制限したりしない。でも、危険なことはやっぱりしてほしくないと思うから、困った時、真っ先に僕に頼ってもらえるような……頼りがいのある人になりたい」
「そっか」
「君が好きだった」
「ふふ……うん」
私は今度こそ本当に、彼とお別れなんだと思いました。涙が止めどなくあふれるけれど、それでも私は笑顔を向けて、これまでの私が報われたと感じるのです。
ごめんなさい。私はもう、今更正体を明かすつもりになれないし、正体を隠したまま新しい関係を築いていくこともできそうにないの。
だから、あなたが一目惚れした街娘はこのまま消えてしまうけれど、あなたが幸せであるように祈っています。
すると彼は、なぜか首をかしげて戸惑っています。私も同じように首をかしげて質問しました。
「なあに?」
「いや……告白をしたんだけれど」
「え? ああ、宣誓みたいなのしてたね」
「……だよね。ごめん、やり直します」
「えっと、はい」
私は寝ぼけているせいか、肩ひじを張る気力を無くしていたせいか、なんだか自然と昔みたいなくだけた言葉使いになっていて、彼は彼でそんな私の態度をナチュラルに受け止めているから、なんだかとても懐かしいような、不思議な気分で彼を見つめていました。
彼がおもむろにひざまずき私を見上げる様子も、身長を追い越される前に戻ったような、ノスタルジーを感じていて。
だから彼の言葉の意味を理解するまでに、私は随分な時間がかかりました。
「街で見かけた子を好きだと思ったのは、勘違いだったんだ。僕はあの子の中に、昔の君を見ていた。
あの頃の君が、僕を頼ってくれた最初で最後の日に、答えを間違えてごめん。
もう僕の価値観を押し付けたりしないから……変わっても、変わらなくてもいいから……君のありたい姿のままで、もう一度僕と付き合ってください」
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そんなこんなで、私と彼の別離は、その日のうちに修復するという超回復を見せました。
彼が時々平民の姿で街を練り歩くのは、パトロールのつもりだったようで、絶対に安全だと確信が持てたら、いつか私をデートに誘おう、だなんて思っていたそうです。
なので私がとっくの昔にこの街に馴染んでいることはこのまま秘密にするつもりでしたが……
「あ、虹のお姉ちゃんだ!」
彼となかむつまじく変装デートした初日から、こんな風な言葉と共に例の幼児に指をさされて、いきなりピンチです。