忘れられない人
神戸梓は竹内雄輔と手を繋いで夜の歓楽街を歩いていた。
学生時代に同じサークルだった後輩が卒業後すぐに結婚することになり、今夜は仲の良かったサークルメンバーで身内の祝いの会を開くことになった。梓が卒業してからもそんなに時間が経っていない為それほど久しぶりという感じもしなかったが、馴染みの顔に会えるのは嬉しくて梓も喜んで参加した。
「でもさ、こんなに早く結婚する子が出ると思わなかったねー」
お酒が入ってることもあり上機嫌な口調で梓がそう言うと、隣を歩く雄輔も同調するように笑顔で頷く。
「ねー。でもこういうのあると皆で集まれるからいいよね。梓さんとも久々だし」
梓より二つ下の為雄輔は梓のことをさん付で呼ぶ。社会人になって苗字で呼ばれることが多くなった今、その感じが懐かしくて梓は、ふふ、と口元を笑わせる。
「うん。いいよね。でもなんか集まると思い出話になるから、あーあの頃楽しかったなーって思い出して、戻りたいーっ! て思っちゃう」
「やっぱり仕事大変ですか」
「大変っていうか、やっぱり学生がいいなーって思っちゃうよね。思い出話ばっかりしてたから余計になのかも」
タクシーを使い先に二軒目へ向かったメンバーからはぐれブラブラと歩きながら、梓は先程までいた居酒屋の光景を思い出し無意識に頬が緩んだ。見慣れた顔が揃ったその場は、まるで本当に学生時代に戻ったような錯覚を覚えた。
それを一番感じたのは、梓の傍に当たり前のように小笠原隼人の姿があったからだ。気づいたら一緒にいたその感覚は、あの頃と何も変わっていないように思えてしまったのだ。
「……」
梓と隼人は同学年で同じサークルに所属しながらもしばらくの間はそれほど親しいわけではなかった。きっかけが何だったか覚えてはいないが、同じ講義を取っていたとかそんなことから仲良くなり、気づいたらいつも一緒にいるようになっていた。もちろん梓が隼人のことを好きになるのは自然の流れであったし、逆もまたそうだったと思う。思う、と曖昧になってしまうのは、付き合うタイミングを逃したまま卒業してしまったからだ。
「……そういえばさ、昔の話してた時に隼人が言ってたんだけど、私隼人とキスしたことあるんだって」
まるで秘密を打ちあけるように、梓はふいに先程隼人とした会話の一部を口にした。なんでそんな話になったか分からないが、昔話の一つとして隼人の口からからその話題が飛び出してきた時、梓は心底驚いた。その瞬間、ふわふわと酔っていた気分がぱちんと弾けたのを覚えている。ちょうど今、梓の目の前でびっくりしたように目を見開いた雄輔のような表情をしていたのかもしれないな、と梓は思った。
「え?! そうなのっ?!」
「うーん、多分? そうっぽいんだよね」
雄輔の驚いた声に、梓は曖昧に笑って返す。こういうところ本当に成長しないなと思いながら、梓はなぜ今隼人ではなく雄輔と手を繋いで歩いているかを思い出して胸中でそっと溜息を吐いた。他人に共有して既成事実にしようとしている下心がある癖に、それを欲しがっていると思われたくないという気持ちがそれを曖昧な表現でうやむやにしようとする。素直に気持ちを口にしない、こういうことの繰り返しが自分達をややこしくさせたのに、卒業しても成長していないなと梓は胸中で苦笑した。
「そうっぽいって……さすが梓さんだよね。隼人さんみたいなイケメンとチューしたなんて、俺だったら絶対覚えてるしっ」
「ええーっ? まあ、雄輔くん隼人のこと好きだもんね」
おどけてそう言った雄輔に梓は濁すように笑みを零す。雄輔も梓へ向け笑顔を向けたが、それでも、と首を傾げる。
「まあ確かに隼人さんのこと好きですけどー。でも、忘れる?」
「うーん、覚えてるような、覚えてないような。皆で飲んでた時らしいんだけど」
「ふーん。そうなんだ」
あまり納得してなさげな雄輔の相槌は、答えるつもりはないが正解だった。
梓はその時のことを覚えている。いつものようにサークルメンバーで飲みに行った居酒屋で、トイレに席を立った時に既に客が帰って空になっていた部屋に一人でいた隼人を見つけた時のことを。自分達の部屋からは少し離れたその部屋に、なんとなく梓が入って行ったことを。その時になぜかキスをしたことを。唇が触れる瞬間、アルコールではない何かで鼓動が煩くなっていたことを。忘れることのない記憶として、梓の中に残っているのだ。
「……」
ただ、先ほど隼人から聞いた話と梓の記憶が違っていたので、語尾が濁ってしまうのだ。梓の記憶では頬にしたはずのそれが、隼人の記憶だと唇にしたことになっていた。
(もしそれが本当だったら……)
思い出したいな、と思ってしまったのだ。目撃者も、正直前後の記憶もない、ただその瞬間のことだけを覚えていたあれが、梓の妄想でなかったことを証明できるたった一人のもう一人の当事者によって証明されたことを。より鮮明に覚えておきたいと、そう思ってしまったのだ。梓だけでなく、隼人もその思い出をずっと胸に秘めて過ごしていたという事実が、梓の気持ちをあの頃に引き戻してしまったのかもしれない。だからそれが事実だったことを強化する為に、雑談のフリをしてずっと秘めていた秘密を雄輔に打ち明けたのだ。
「梓さん」
雄輔が無言になってしまった梓の名前を呼んだ。だが梓は思考の海に潜っていた為返事をしなかった。同時に、過去のことだと封印した事がたったそれだけのことで蘇ってきてしまうことに嫌気がさしていた。
「梓さん」
「?!」
もう一度名前を呼ばれた時、同時に繋いでいた右腕がぐんと後ろに引っ張られて梓は強制的に歩く足を止められた。その時初めて、雄輔が歩くのを止めたのだと分かった。
「なに、どうし……!!」
理由を問おうと雄輔を見上げた瞬間、ふいに梓の顔に影が落ちた。スローモーションのように背の高い雄輔の体が折られ、顔が近づいてくるのがわかった。実際それはほんの一瞬の出来事だったが、驚いている間に、雄輔の唇が梓の唇に触れた。
「……え? なに? どうしたの? いきなり……」
人間、予期せぬことが起こると笑ってしまうらしい。梓は目をぱちぱちと何度も瞬きさせながら、口元には意味をなさない笑みを浮かべた。なぜ雄輔からキスをされる流れになったのか理解できずに梓が今度こそ雄輔を見上げると、視線の先で雄輔がふっと笑った。
「……」
答えるより先に、雄輔は繋いでいた梓の手を引いて歩くのを再開させた。ゆっくりと歩き始めたそれに梓も釣られるように歩みを進める。見上げた雄輔の横顔は、笑顔のままだ。
「なんかさ、今の話聞いてたらさ」
「うん?」
歩く先の地面を見つめながら、雄輔がぽつりと言葉を吐き出した。言葉の先が読めなくて梓が首を傾げると、雄輔もこちらを向き、笑顔のまままるで秘密を打ち明けるようにそっと口を開く。
「俺とのキスは覚えていて欲しいなって思って」
「!」
歓楽街の道の真ん中を手を繋いで歩いている二人を、煌々としたネオンの光が包んでいる。こんなドラマや漫画のような出来事が自分に起こるだなんて、そう考えると梓はなんだか笑えてしまった。
「やっぱりイケメンはすごいねー。こんなことできちゃうんだ?」
今自分を取り巻く光景があまりにも非現実的で、梓は思わず茶化すように笑ってしまった。雄輔はそれに少し不満気に唇を尖らせると、
「別に、隼人さんに対抗心とかじゃないけど、なんか忘れられたくないなーって思って」
とはにかむように笑ってみせた。
「……ふふ。すごいなー。こんなの忘れられないでしょ」
「じゃあ大成功だ」
場の空気を気まずくしない気遣いか、雄輔はおどけたようにそう言って笑った。梓も釣られて笑う。
雄輔の言う通り、梓は多分今日のこのことを忘れることはないだろうと思った。こんな稀な体験は、楽しい思い出としてきっと鮮明に覚えているであろうことも確信できた。
(でも)
じゃあ覚えていたいキスは? と問われたら、梓は間違いなく学生時代の隼人とのキスを上げるだろう。思い出を補強しようとして雄輔に打ち明けてみたところ、期せずして起きたハプニングにより、梓の中で一層忘れらないものとなったのは嬉しい誤算だった。雄輔には悪いが、このことを忘れないということは、隼人とのことも忘れないということだ。
だが、だからこそ、あの時の隼人とのキスを正確に思い出したいと思ってしまうのだ。
「……」
そう考えが至った瞬間、梓は雄輔に気づかれないように小さく頭を振った。そんな考え方だから、今手を繋いでいる相手が隼人ではないことを思い知らされる。
例えば学生の時、例えば今夜、梓がもっと自分の気持ちに素直だったら、結果は違ったのかもしれないな、と、今まで何度も考えたことが再度脳裏に浮かぶ。
酔いはすっかりと冷めていた。
あと一話で終了です。
最後は汐と梓の話です。
よろしくお願いいたします。