4,少女の困惑
道護は、小さくため息を吐き出すと、諷に問いかけた。
「ふうちゃん、この時間までどうして店にいるの?」
そう問われて諷はやっとこれは現実なのだな、と感じた。
「…ミチくん、今の何?外、景色が違ってた。ふわふわした妖精みたいなのがいた。ミチくんも話してたよね?見えるの私だけじゃない?」
諷の疑問はつきないここは確かにいつものコンビニの中のはずなのに、まるで異世界みたいだった。
諷の顔を見て道護は再び大きくため息を吐き出す。
「……一旦落ち着こうか?」
そう言うと道護は、自動ドアをしっかりと施錠してから、商品のコーヒー牛乳を諷に手渡し、自分はブラックコーヒーの缶をプシュっと開けた。
「…店長、これ商品だよ?」
諷は困惑したように道護を見た。
「いいの、いいの。僕の奢り。後でちゃんと処理するから。…ミチくん呼びは終わりかぁ。」
その顔が少しだけ残念そうになったので、諷は少しだけ悪いことをしているような気になってしまう。小さい頃から諷は道護の事をミチくんと呼んでいた。仕事をするから、その時くらいは呼び方を変えなきゃと意識して、最近はずっと店長と呼んでいる。
「ミチくんは、今店長でしょ?仕事の時は呼び方分けるって決めたの。」
「もう閉店してるから店長じゃなくてもいいのに。」
そう言って道護がいつも通り笑うから、諷は少しずつ落ち着きを取り戻して、さっきまでの出来事の事を考えられるようになってきていた。
「それで…」
諷が言いかけると、道護が分かってるというように頷いて後を続けた。
「これはどういう事かって聞きたいんだよね。」
諷はこくんと頷く。
「うーん。どこから話したらいいんだろうな。…そうだな、…ふうちゃんは僕があっち側の人間だって言ったら驚く?」
…言われた意味が分からない。さっぱり分からない。が、諷はいつもと違う景色を指差して聞いていた。
「…あっち側って…。今、外に続いてる不思議な場所の事?」
「そう。ふうちゃんの馴染みある世界は僕にとって異世界だったんだよ。」
…何を言い出すのだろう?諷は目をこれでもかというように大きく見開いて驚いてしまう。
「えっ?!…で、でも、ミチくんずっと一緒にいたよ。…異世界、異世界って…」
「ラノベとか、マンガの世界にはありそうだよね…。異世界で最強になって、冒険したり、問題解決してみたりってさ…。…でも、現実はそんなに甘くはなかったけど…。」
そこで道護は一旦言葉を区切って、肩をすくめてみせて、そして続けた。
「僕は確かにふうちゃんと同じくらいの時間こっちにるね。…僕が7才の時、ある日突然あの施設の前にいたんだ。…何の前触れもなかったよ。…感覚としては、ちょっと目を閉じてただけ。…なのに、目を開けたら、見るものみんな知らない。言葉は分かったけど、馴染みのあるものが、見覚えのあるものが何一つなかったんだ。…呆然としたよね。…施設の人達はそりゃ必死になって僕がどこから来たのか調べてくれたよ。…でもね、両親も親類も居るはずないんだよ。…世界が違うから。」
そう言うと道護は少し寂しそうに笑った。
道護があの施設に来た事にそんないきさつがあるなんて諷は思ってもみなかった。
「ミチくん…。」
諷は何と言っていいのか分からずに、道護の服の端をぎゅっと掴んでいた。
「あー、ごめん。不安にさせちゃった?…最初は確かに戸惑ってたんだ。家族にも会えなかったし、どうしてこんな事になったのかも分からなかったから…。でも、僕はこの場所を比較的早いうちに見付けたから…。」
「比較的早いうち…?…というか、この店って何なの?」
諷は眉をしかめながら懸命に理解しようと努めるが、次々に言われるショッキングな事柄に、なかなか追い付けない。
「この店はね、ポイントって言ってこっちとあっちの世界で共通して認識できる場所なんだよ。」
「…きょうつうしてにんしきできる??」
諷は道護の言った言葉を棒読みのように繰り返すが、意味はさっぱり理解できていなかった。
「そう。一言で異世界って言ったけど、実は色んなところで両方は繋がってるんだ。重なりあってるとも言うけど。」
「世界が繋がってて重なる??」
「まぁ、分からないよね…。…うーん、何かもっといい説明があったような…。」
道護は困った顔を浮かべながらどう話したものかと思案顔になっていた。
諷は諷でフル回転で頭を働かせて今のこの状況を理解しようとしていた。その時、たまたま見たなんとか理論の説明をしている番組で重なっている2つの状態うんちゃらと言っていたのを思い出す。
「なんちゃら猫の実験みたいな?」
諷が難しい顔のままそう呟くと、道護は少し感心したように諷を見た。
「ふうちゃん、よく知ってるね。そうそう、シュレディンガーの猫の一方ずつの結果を見た世界って感じかな。」
「…………」
諷は難しい顔のまま固まっていた。
「あれ?ふうちゃん、分からない?」
諷は少し悔しそうにしながら頷く。
「要するに違う状態の世界が2つ重なってるんだよ。違う場所じゃなくてどこもかしこも重なってるの。…だけど、普通どちらも一辺に見ることはできない。…さっきの猫の話だけど、箱を開ける前は生きてる猫と死んでる猫が重なった状態で存在してるって言ってなかった?」
「それは何回も言ってた、と思う…。」
諷はその単語だけがやけに印象に残っていた。道護は頷いて続ける。
「だよね。箱を開けるまではどっちか分からない。でも開けてしまえば生きていようと死んでいようと結果は必ずどちらか1つになる。重なりなんて分からない。1つの世界の出来事しか把握できないんだ。…普通はね。」
「ん?普通はって事はそうじゃない事もあるの?」
「片方の世界しか知らない人達は自分の世界側にあるものしか見えない。ふうちゃんのよく知っている世界の人達はあっち側が目の前にあっても分からない。さっきの妖精達だって同じ。…このコンビニはね、そのどちらの世界にも同じように存在できる。ふうちゃんのよく知っている人達は普通にコンビニとして利用してるけど、同じように…同時にって言うべきかな…妖精達みたいにあっち側の存在も利用できるんだ。あっち側にしてみれば珍しい物がたくさんあるここは楽しくて仕方がない場所なんだ。だから、たまに僕が油断してるとさっきみたいに騒ぎに来る。」
「…よく分からないけど、つまりここからあっちにもこっちにも行けるって事?」
「あっちこっちって言ってるから分かり難いかもしれないけど、あくまでも世界は重なっていて、でも、全く違う世界をそれぞれで築いているんだ。…ポイントって呼ばれる場所だけはどちらの世界からも同じように認識できるって事だよ。」
「この、コンビニは両方から認識できる…。それじゃここで妖精達と普通の人が会うこともできるって事だよね…みんな驚いてもっと大騒ぎになっちゃいそうだけど…。」
「さっきも言ったけど、お互いの世界の人達は自分と違う世界の人も物も見えないんだ。このコンビニの存在は分かっても、それぞれが見える人達はあくまでも自分の世界の人だけ。」
「え…。でも私、妖精達見えたよ?それに妖精達も商品見えてたみたいだけど…。」
諷がそう疑問を口にすると、道護は少し顔をしかめて、言いにくそうに口を開く。
「妖精達に商品が見えてたのは、あっち側の存在にも商品が見えるように手を加えてあるからだよ。手を加えちゃうとこっちの人達には見えなくなっちゃうんだけど…。で、ふうちゃんが突然見えるようになっちゃった理由なんだけど、…実はよく分からない…。…ただ、ふうちゃんって昔から何故かあっち側の存在に気付かれちゃう事があったんだよね…。」
「え?…気付かれちゃうって…?」
諷はまた驚く。思ってもみなかった事が次々と出てきてついていけている気がしない。
「まぁ、そのままの意味だけど…見えない筈なのに妖精とかが明らかにふうちゃんにちょっかいかけたりしてたんだよね…。そうするとさ、こっち側で風もないのに暖簾が揺れてみたり、窓がガタガタ鳴ったりとか、普通に考えると起こらないような事が起きちゃってたんだよね…。」
なんだか身に覚えがありすぎる。そのせいで民宿も解雇されたし、遡れば養子の話が消えたのもそのせいだった。
「……ミチくんにはずっと見えてたの?」
「まぁ、時と場合にもよってたけど、…見えてた、ね。」
道護は申し訳なさそうに認めた。
「そうなんだね…。…でも、…確かにミチくんの近くにいると不思議な事があんまり起きないなって思ってた…。…もしかして、何かしててくれた?」
「まぁ…少しは追い払ってたからね。…近くにいてくれれば追い払えたけど、遠く離れられちゃうと難しくて…ごめんね、言わなくて。」
暗に諷が施設から離れてしまう養子になるためのお試し期間とか、民宿での事を言っているのだとすぐに分かった。
「言われても見えない間はどうしようもなかっただろうから、謝らなくていいよ。…でもなんで、急に見えるようになったんだろう?」
「分からないから…これはあくまでも憶測なんだけど、…多分、ふうちゃんは元々あっち側と相性が良かったんだと思う。ここはね、日中は平気でも夜が深くなればなるだけあっち側の影響が強くなるんだ。日中はその逆が起こるんだけどね…。ふうちゃんの気質があっち側の影響が大きくなった時に共鳴?みたいな事が起こって見えるようになっちゃったのかな、って…。まぁ、本当のところは分からないけど…って、確か今日のラストは僕が来れないから筒井君に頼んであったはずなんだけど…?」
道護は唐突に思い出したように疑問を口にした。
「…あ、それはお昼前くらいに連絡があって体調が悪いから休みたいって…。」
それを聞いて道護は頭をガシガシとかいて、大きくため息をつく。
「それなら、仕方ない、か…。他に来てくれるバイトの宛もないしね。…さて、もう遅いから今日は送っていくよ。まだ疑問が全部解消されてはいないと思うけど、一辺に色んなことを言うより少しずつ聞いた方がいいと思うから、また日を改めよう。」
「うん。分かった。」
諷としてはまだ何も解決できていないからもっと聞きたい事はあったが、でも混乱しすぎて疲れてしまったのも事実で、頷いていた。
道護の方は、さっき施錠した自動ドアを再び解錠して手でドアを開けて外へ出ていた。いつの間にかそこはいつもの住宅街に戻っている。
「夜が明けなくてもいつもの場所にも戻るんだね。」
諷が呟くと、道護が答える。
「まぁ、色々とコツがあるんだよ。…それはまぁ機会があったら教えてあげるよ。」
諷はその言葉に頷いて、店から1歩足を外へと踏み出した、筈だった。だけど、外へ踏み出した筈の足は180度回転して再び店の中へと1歩入っただけだった。諷は何が起きたか分からず、辺りをキョロキョロと見てしまう。
「あ、れ…?」
諷が振り返ると、顔を青くした道護がさっきと同じ体勢のまま諷を見ていた。
諷は訳が分からなかったが、とりあえずもう1度足を外へと踏み出し、でも再びその足が踏んだのは外ではなく店の中だった。
「…ミチくん…。」
諷は不安になり道護に助けを求めるように見た。それで道護もはっとしたように諷の側へとやって来た。
「も、もう1回やってみよう。今度は僕と一緒に、ね?」
そう言って差し出されてきた手に諷は少し戸惑ってしまうが、今がかなり切羽詰まった状況でもあったので、その手を小さく掴む。
「う、うん…。」
諷はもう小さな子どもではないから、手を繋ぐ事がすごく恥ずかしい気がして、こんな状況だから、と少し俯きながら自分に言い聞かせる。
そんな諷の気持ちなんて知らない道護は諷の手をきゅっと優しく握り返す。それだけの事に、諷は昔からさんざん繋いできた筈のその手が、知らない間にもっとずっと大人の手になってしまった事に、気恥ずかしさとそれとは違う安心感が湧いてきて、どうにも道護の顔を見ることができない。
「それじゃふうちゃん、せーので出るよ?」
諷は何も言わずに頷いた。
「それじゃ、せーの…!」
道護と諷は同時に足を踏み出したが、外へ足を着地できたのは道護だけで、諷は再び店内にいた。繋いでいた筈の手も離れてしまっている。
「…どうして…?」
諷は何が起きているのか分からずに呟く。道護もそんな諷の疑問への答えを持ち合わせていなかった。
「…どうしてだろう。…こんな事になるなんて…。…もう一度試してみよう。」
道護は諷の側まで戻り、再び手を差し出してきた。諷は言われるままその手を握り返す。
…それから何度か試した。手を繋ぐという事に照れる事がなくなるほどには。それでも状況は変わらず、諷の足は相変わらず店の中へと戻ってしまう。
道護の方はさっきからどんどんと難しい顔になっていく。
「…ふうちゃん、…あっちの世界の外に出られるか試してみる気はある?」
道護は物凄く言い難そうにそう聞いてきた。
「あっちって…妖精達がいる方…だよね…。」
頷く道護を諷は不安な気持ちで見てしまう。あっちの外に出れてしまうとどうなってしまうのか、それよりも今自分に何が起こってしまっているのか、諷は答えられず黙ってしまう。
「…ふうちゃん、僕はね、どちらの世界にも行き来できる特殊な気質を持ってるから、あっち側にしか行けなくなっても僕はちゃんと近くにいるから。…だから、試してみよう?」
諷は言われた言葉に色々な疑問が噴き出してきそうになったが、自分よりも不安そうな道護を見て頷いていた。
そんな諷の手を道護はもう一度優しくぎゅっと繋いでくれた。諷はその手に頼るように、すがるようにきゅっと力を入れた。
道護はそんな諷の頭を繋いでいる手と反対の手で撫でてから、1度深呼吸をして目を閉じた。再び道護が目を開いた時、外の風景は諷にとって馴染みのないあっち側になった。
その事に驚く余裕は諷にはなかった。
「…ふうちゃん、もし出られたとしても離れちゃ駄目だからね。」
道護に言われて諷は頷く。
「…それじゃ、行くよ…せーのっ!」
また外へと足を踏み出す。
けれど、諷の足が外の土の感触を感じる事はなかった。
足元は店内の床だったから…。道護はそんな諷をドアの外から見ていた。諷は絶望的な気持ちで立ち尽くしてしまう。道護も店内に戻り、ドアを閉めて施錠した。外の風景は諷の馴染みのものに戻っていた。
「…ふうちゃん、大丈夫だよ。…時間はかかるかもしれないけど、外に出られる方法を見つけるから。」
道護が安心させるように声をかけてきても、諷は何も返すことができなかった。




