コーヒー牛にゅう
教訓めいたことも深い意味のあることも書いてないです。
なんでこんなの書いたんですかと訊かれたら、ただ好きだから書きましたと答えるくらい。
非日常は、日常の延長線上にあるくらいがちょうどいいかもしれません。
机の横。いつもの位置にランドセルを置こうとして僕は困った。明日からは使わないんだからここに置いても邪魔になっちゃう。四月からは中学校用のカバンをここに置くのに。
僕は迷ったあと、けっきょく部屋の角にある『異次元スペース』にしまっておくことにした。ここは幼稚園で使ったカバンだとかピアニカだとか絵具セットだとかをまとめて放り込んでいる。ある意味で芸術的なジャングルを観察して、去年まで使っていた教科書たちの上にバランスよくランドセルを納める。
明日からは春休み。ヨシキたちと朝から遊ぶ約束もしたし、その次の日はみんなでサッカーをする約束になってる。昨日から風邪気味なのが不安だけど。
「それに今夜は……」
待ちきれない僕は壁の時計を見る。まだ五時にもなってない。卒業式のあと、おじいちゃんの家に寄って帰ってきたばっかりだからだいたい何時くらいかはわかってた。でもつい時計を見ちゃう。早く夜にならないかな。
***
「ユウジ、お友達来てるよ」
もう少しで漫画を読み終えるってとき、部屋の外からお母さんの声がした。あとちょっとだったのに。部屋の電気に照らされた時計は七時半。約束の九時にはまだかなり早い。さてはケンタのやつ、待ちきれないで集合場所の学校じゃなくて僕の家に早く来たな。
鼻をかんでから、僕はジャンパーを掴んで部屋を飛び出す。そしてそのまま急いで階段を下りた。
てっきりクラスの男友達だと思ってた僕は玄関の先で待ってる人を見て驚いた。
「ユリハ? どうしたの?」
玄関灯の下にいたのはクラスメイトの楠ユリハだった。卒業式のときに着ていた白いブラウスにカーディガンを羽織って立っている。式の最中は背中の方で一つに結んでいた髪が、今はいつもみたいにあちこちにはねてしまっていた。
ユリハは去年から同じクラスになった女の子で、いつも眠そうな目で本を読んでいるイメージだった。でも意外に活動的で、思い立ったら無言で行動に移すタイプだとこの二年間でイメージが変わった。
「ユウジ、一緒に来てほしいの」
困っているのか判断に困る声でユリハは言った。
「一緒に? あんまり遠くじゃなければいいけど」
「学校。忘れ物したの。怖いから一緒に来て」
僕の言葉を遮るようにユリハが手を引いてくる。
学校、かぁ。なら、まあいいか。
「あっちょっと待ってて」
手を振りほどいた僕は、不満そうな顔を向けるユリハを置いて一度家の中に戻る。薄暗いキッチンに並んだビンのうち、一番手前のビンをジャンパーのポケットに入れて急いで外に出る。
「ユウジも忘れ物?」
「うん。ちょっとね」
ふーん、と歩き出したユリハを追いかける。
「ユリハはなにを忘れたの?」
「ちょっとね」
僕の真似をしてどんどん先に進むユリハ。なんか、機嫌悪い?
朝学校に行くときは下級生と一緒に班で行かなきゃいけない。だからだいたい二十分くらいかけて決められた道を歩く。でも今日は違う。秘密の近道やら裏道をこっそり通る。五年生になったばかりの頃、初めて秘密の抜け道を通ったときはおっかなびっくりだったユリハも、今では狭い通路をすいすい歩いていく。
僕はどこかまだ教えてない近道ないかなって考えたけど、この二年間ですっかり裏道マスターになってしまったユリハに新しく教えることはもうなかった。
「どうしよう。用務員の先生いない」
閉まった校門の前でユリハが振り返った。ユリハの言葉通り、校門横にある用務員室の灯りは点いてない。
「じゃあ校門よじ登って入っちゃお」
「でも先生いないと学校に入れないし」
「だーいじょうぶっ」
校門を乗り越えた瞬間に飛び降りた僕は、そろりそろりと乗り越えるユリハを見上げた。その瞬間、僕は思わず下を向く。
「うわっごめんユリハ」
「ん? どーしたの?」
トン、と軽い音を立てて着地するユリハ。もしかして気づいてないの?
「いや、その、スカートだってこと忘れてた、から」
言い淀んでいると、ユリハも自分の服を眺めてから、「あっそ」と呟いた。それからしきりに手を擦り始める。
「寒いの?」
「違う。校門が冷たくて痛かった」
よく見るとユリハは素手で、細い指が少し赤くなっていた。手袋をしてた僕は鉄製の校門の冷たさなんて思いつきもしなかった。僕は申し訳なくて、慌てて右手の手袋をユリハに渡す。
「ちょっと大きいかもしれないけど、これ貸したげる」
一瞬きょとんとしてから、すぐに表情を戻したユリハが手袋をはめるのを待った。
「ありがと」
「おおげさだよ」
「ううん。あったかいから。でもユウジ、どうやって学校入ろう」
「任せてよ。ついてきて」
空いた右手でユリハの左手を握ると、まだ校門の冷たさが残ってるのが分かった。
「ごめん」
「スカートのぞいたこと?」
「ちがくて、でもそれもあるけど……」
「変なの。早く行こうよ」
良かった。ぎゅっと握り返してきたユリハは少し機嫌が良さそうだった。
僕らは校庭を横切って校舎の西側に向かう。
「ちょっと待ってて」
保健室の廊下の前。胸くらいの高さにある一番右の窓に手を伸ばす。カラカラと静かな音を立ててゆっくり窓がスライドする。
「おぉー。ねぇねぇ、なんで開いてるの? ユウジが開けといたの?」
「うん。実は今夜ケンタたちと忍び込む計画立ててたんだ。だから帰る前にこっそり窓を少し開けといたんだ」
クツを外に残して先に入った僕に続いて、ユリハもなんなく窓枠を乗り越えてくる。
薄暗い校舎の中は昼間とは雰囲気がまるで違っていた。いつも点いてる電気は消えてるし、灯りと呼べるのは遠くに見える緑色の光くらい。走ってる人のイラストが描いてあるあれだ。
「今思い出したんだけどさ。あの窓から入るの僕二回目だ」
唐突に語りだした僕にユリハは不思議そうな顔をした。
「前にも夜に学校きたことあるの?」
「違う違う。一年生のときだと思うんだけどさ、誰が壁をよじ登って入れるかって勝負したんだ。あの頃はものすごく高く見えたのに今は簡単に越えられちゃって。なんか不思議な感覚だなって。わかんないかな」
記憶の中の僕たちはものすごく苦労して登った。窓枠に腕をかけるまでいくだけでへとへとだった。それなのに今は簡単にできた。ある日跳び箱の七段が突然飛べたときの感覚に似てる。
「全然わかんない。それより早くいこ」
興味なさそうなユリハが僕の袖を引っ張る。
「忘れ物、だよね。どこに置いてきたかとか覚えてる?」
「たぶん。教室にあるはず」
「教室か。ならまず職員室に鍵取りに行かないと」
わかった、と頷いたあと、ユリハが急に僕を見上げた。
「トイレの前は避けていきたい」
言われなくてもそうするよ。
僕は目の前に広がる空間を見つめる。一応月明かりがあるから真っ暗ではない。でもやっぱり夜の学校は不気味だ。あの角から人体模型が走ってくるかもしれない。どこかの教室の窓の隙間からおかっぱ頭の顔だけがニューっと伸びてくるかもしれない。鏡に映った自分の顔がいきなり笑いだして僕を鏡の中に引き込んだり……。うわっやばい。夏に見た怖い映画思い出しちゃった。
「ユリハこわがりだね。おばけとかしんじてるんだ」
ユリハの前だから一生懸命強がったけど、僕も思いっきりユリハの服の袖を握りしめた。
各教室には入り口に鍵がついている。クラスの日直が帰りにその鍵を閉めてから帰るのが決まりだ。共通の鍵が職員室にある一本だけだから、毎回借りに行くのがめんどくさかった。でも僕らは知ってる。先生たちは僕たちにクラスの戸締りをちゃんとしろって言うくせに、職員室の鍵は閉まってないことを。
どこか遠くで物音がするたびにビクッと立ち止まり、灯りがなくて薄暗い廊下は目を瞑って歩いた。一度、どうしてもトイレの前を通らなくちゃいけなくて、二人で不自然なくらい壁際に寄って歩いた。そうやって、いつもならすぐに行ける職員室に十分以上の時間をかけて向かった。思った通り、たどり着いた職員室のドアは抵抗なく開いた。
「なんか甘いにおいがする」
保管庫から鍵を回収したとき、ユリハが職員室を見回した。
「そう? なにも感じないけど」
「ユウジ風邪っぽいからわかんないんでしょ。こっちからだ」
ユリハが向かったのは冷蔵庫の横に置いてあるオーブントースター。
「先生たち、絶対クッキーあっためて食べたんだ。ずるい」
ゴミ箱に捨てられた包装紙を見てユリハが呟いた。なんか警察みたい。
そんなユリハの姿を見て、僕は机の上にあったクッキーの袋を二つつまんでユリハに渡した。
「じゃあさ、僕たちも持ってっちゃおうよ」
「いいのかな」
「だいじょぶだよ。バレないバレない」
学校にこっそり侵入しといて今更だけどね、と付け加えると、ユリハは「たしかに」と笑ってクッキーを頬張った。
三階の教室には簡単にたどり着けた。今度はトイレの前を通らなくて良かったし。
「じゃあちょっと待ってて」
薄暗いのに、ユリハは慣れた様子で机の間をすり抜けて自分の机を目指す。僕は見慣れた教室を眺めながら、もうここに来ることもないのか、と少し寂しさを感じていた。
「探し物あった?」
「うん」
戻ってきたユリハがひも状のものに繋がったなにかを見せてくる。
「忘れ物ってそれ?」
「そう。クラス発表のあともらった銀メダル」
目を凝らしてみると、赤と青と白の模様が入ったリボンに繋がれたメダルが見えた。
「なるほどね」
「家に帰ってランドセル見たらなかったの。見つかってよかった」
嬉しそうな姿を見てると、つい一か月前の出来事が昨日のことみたいに蘇ってきた。
***
クラスメイトの子が指を骨折したのは二月に入ったばかりの水曜日だった。大きな怪我なんて経験が少ない僕らは、包帯がぐるぐる巻きになったその子の指を見て大袈裟に騒いだ。興味本位での騒ぎが収まったのは、その子が僕らのクラスでいつもピアノを弾いてくれた女の子だとみんなが思い出してからだった。
「どうしよう。卒業式でやる合唱コンクールに出れないじゃん」
コンクールってのは僕らが勝手に呼んでるだけで、実際は卒業する六年生の各クラスが自分たちで決めた歌をそれぞれ歌うというものだ。曲決めから練習まで、基本的に全部自分たちだけで行うのが大事なこと、らしい。極端なこと言っちゃえば、練習を全くしなくてもいい。だけど、クラスごとに金、銀、銅のメダルが贈られるとなると話は別だ。みんな自然と練習を頑張る。なんといっても小学校最後のイベントなのだ。
「ねえ、楠さんってピアノ弾けたよね」
自分の名前が呼ばれたとき、ユリハはクラスの騒ぎの外で本を読んでいた。
「そうなの? 初めて聞いたけど」
「あっ、あたし覚えてるよ。四年生のときの合唱大会でピアノ弾いてた」
「そうだっけ。俺覚えてないや」
「そりゃあんた他のクラスの発表のとき寝てたからじゃん」
「ユリちゃんに聞いてみようよ」
みんなに注目されて耳まで赤くなってたユリハは、それでもクラスのざわざわに気が付かないふりをして本の陰に隠れていた。
「ねえねえ楠さん。楠さんってピアノ弾けるよね」
さすがに直接話しかけられては聞こえないふりもできず、顔を上げたユリハは「いちおう」と消え入りそうな声で答えた。とたんに広がる歓声。
「お願い! 卒業式の日の伴奏やってほしいの」
クラスの何人かが集まり、ユリハに手を合わせる。その頃僕は、のんきに男子連中と消しゴムを定規で弾いて飛ばす遊びをしながら眺めていた。
「わたし下手だし……」
「そんなことないよ。前も一回伴奏やってたじゃん」
「それは、うん、そうだけど……」
普段大勢と話すことがないユリハは頭から湯気が立ちそうなくらい真っ赤な顔になっていた。
「へたっぴでもいいなら……がんばってみる」
僕も合唱大会のときは寝てた一人なので、ユリハがピアノを弾けるなんて、と内心驚いていた。
***
「ユリハってピアノできるんだ。すごいね」
その日の帰り道、さっと教室から消えたユリハを追いかけて通学路を走った。
「少しだけなら。指揮者だったら絶対断ってた」
「なんで?」
「だって指揮者はみんなにものすごく見られるから。恥ずかしい」
なるほど。僕はみんなに囲まれていた昼間のユリハの姿を思い出す。
「僕は指揮の方が簡単そうだけどなぁ。腕振るだけだし」
「指揮だって難しいんだよ」
「ピアノの方が大変そうだけど。楽譜もらったんでしょ。見せて見せて」
僕は手渡された楽譜をパラパラとめくって、すぐにユリハに返す。
「これでわかるの?」
ランドセルに楽譜をしまいながら、ユリハは小さく頷いた。
「時間無いから不安だけど……。でもできるだけがんばる」
ユリハの言ったがんばるってのは僕の想像よりすごくて、次の週にはほとんど楽譜を暗記してしまっていた。
「家でも連習してたの?」
「ピアニカでやってた」
ある程度弾けるようになるまでは恥ずかしいから学校のオルガンは使いたくなかったという。ともかく、他のクラスよりも遅れたものの、僕たちのクラスも合唱の本格的な練習ができるようになったのだ。
***
卒業式が終わったあと、まずユリハが行ったのはクラスのみんなに謝ることだった。
「ごめんなさい。緊張して間違えちゃって」
舞台に上がってピアノの前に座ったユリハは誰が見てもわかるくらい緊張していて、合唱が始まってすぐに弾き間違えてしまった。そのあとももう一度間違えてしまい、クラスの委員長が先生から銀メダルを受け取ったときからユリハは青い顔をして俯いていた。
ユリハが頭を下げると、一瞬クラスがシーンとなった。でもその直後、みんながユリハの周りに集まって笑い始めた。
「そんな気にしなくていいのに。元はと言えば怪我しちゃった私のせいだし」
「そうそう。他のクラスより時間なかったしねー。むしろすぐに弾けたユリハちゃんすごかったよ」
「俺だって途中自分のパートわかんなくなってよくわかんない音程で歌ってたし」
「トモヤなんて一番と二番の歌詞逆になってたし」
「それ俺もつられて間違って歌っちゃったわ。トモヤ声でかいから」
「そもそもユリちゃんいなかったらあたしら伴奏なしだったんだし。ありがとユリちゃん」
怯えた目をしていたユリハも、次々に咲く励ましや楽しかったって感想を聞いているうちに笑い始めた。
「ねえねえ、このメダルさ、楠さんが受け取ってよ」
提案したのは、指揮を担当した委員長の女の子だった。
次々に賛成の声が上がり、どんどん盛り上がる雰囲気に困ったようにユリハは僕の方を見た。
「でもわたし、間違っちゃったのに」
「ユリハだって頑張ったんだしみんなが言ってくれてるんだからさ、いいんじゃない」
頷いて、少し小さくなりながらユリハはメダルを受け取る。なぜかみんなが円形になっていて、なかには結婚式で流れるイメージの曲を歌ってるやつもいた。なんだかおかしくて、僕もみんなと笑った。
***
「せっかくなら金メダルがよかったな」
見つけたメダルを大事そうにスカートのポケットにしまう姿を見ていたら、つい言葉が漏れてしまった。怒らせてしまったと思って僕は慌てて顔を上げる。すると不思議なことに、ユリハは僕を見て鼻を鳴らした。
「わかってないねユウジは」
「なにがさ」
「順位なんか関係なくて、みんががんばった証なの、これは」
ポケットからチラッと出したメダルが月明かりにキラッと光る。
「忘れて帰っちゃったのにね」
僕が茶化すと、ユリハはもう一度呆れたように鼻を鳴らした。
「ねえユウジ、もうちょっと付き合って」
返事も聞かずにユリハは僕の腕を掴んで廊下を歩き出す。
「どこ行くの?」
廊下は相変わらず不気味で、どこかひんやりした空気を感じる。なのにユリハはずんずん廊下を進み、いくつもの教室を素通りした。学校に忍び込んだばっかりのときはあんなに怖がっていたのにどうしたんだろう。
ユリハが目指している場所はすぐにわかった。僕がユリハに指示されて鍵を回したのは、同じ三階にある音楽室。
壁に貼られたベートーヴェンやバッハの肖像画に怯える様子もなく、ユリハは一直線にピアノに向かう。
「ユウジにはちゃんと完璧な演奏聞いてほしい」
それだけ言って、ユリハは鍵盤の上で指を滑らせる。比較的ゆったりしたテンポで始まる曲。当然、僕らが昼間歌った合唱曲COSMOSだ。入口の扉を閉めた僕は、無意識のうちにピアノのそばに歩いて行った。
「すごい」
白と黒の舞台の上を、ユリハの細い指が踊っている。間違えた箇所を超え、男子だけが歌うパート、女子だけが歌うパート、と曲が進む。僕なんかには絶対できない、一度にいくつもの鍵盤を押すのだってユリハは軽々こなしていく。開いた響板の下で、ピアノの色んなパーツが心臓みたいに脈打っている。
気が付くと、僕も小さな声で歌いだしていた。
ここはゆったりめに、ここは徐々に大きく、ユウジ君はいつもここで音がずれるから気を付けて。
練習のとき言われたことが頭の中で響く。
「ね、ちゃんと弾けるでしょ」
最後の音を弾いたユリハが僕を見上げる。
「ちゃんと弾けるのはみんな知ってるよ。最初にユリハが弾いたときからすごいなって思ってたもん」
僕が言うと、ユリハは緊張したみたいに両手を開いたり閉じたりした。
「ねえ、今度はユウジも最初から一緒に歌ってよ」
「えぇ……。恥ずかしいしやだよ」
さっきは自然に歌っちゃったけど、改めて一人で歌うなんて考えると恥ずかしい。
「だいじょうぶ。わたしも一緒だから」
なんだか、いつものユリハらしくないなと思ったけど、ユリハの目を見ていたらなんとなく頷いてしまった。
「じゃあいくよ」
ユリハが指を鍵盤の上で構える。やがて練習で何度も聞いた音楽がピアノから流れる。
ユリハの白い指が鍵盤を撫でるたび、ゆるやかな川を思わせる旋律が広がる。いつだかユリハが言っていた。この曲は原曲から合唱曲用に直されたものだって。なんのことだかさっぱりだったけど、ハ長調だったオリジナルを変ホ長調に編曲したって。
音の群れにゆったり包まれそうになったけど、僕も何度も練習した歌詞を声にする。僕は当然男子のパートで、合唱のときに比べると音が足りない。ソプラノがいないと、少し違う歌に感じる。だけどそれに違和感を覚える前に、僕の耳には響くものがある。
ユリハが紡ぎだす音たち。
黒い楽器の腹から弾けて、存在を示すみたいに足元に広がり、僕のためだけに生まれるピアノの音だ。不気味に思えた肖像画たちは観客になって、やがて僕の視界には入らなくなる。
恥ずかしさなんて微塵も残ってなかった。そんなことより、ユリハの奏でる世界についていくのに必死だった。
サビに近づき、少しテンポが速くなり、低音部分をユリハが叩く。
そして、歌の名前の通り、花が開くように、あるいはどこまでも広がる宇宙のように、僕の声とユリハのピアノの音とが音楽室の空気に満ちる。それからもう一つ、ユリハの声も僕の声に重なる。
けっきょく曲の二番も二人で歌い切り、僕たちは大きな呼吸を何回も繰り返した。
「なんか、さっきのが一番すごかった気がする。歌っててすごく気持ちよかった」
高揚した僕が床に座り込みながら言うと、ユリハもイスから立ち上がって笑った。
「わたしも楽しかった。やっぱり来てよかった」
どこか引っかかる言い方で、なぜか僕ではなく、自分に言い聞かせるようにユリハが呟く。
それ以上、僕たちの間で二人っきりの合唱の感想は出なかった。なにも思わなかったわけじゃない。逆に、僕もユリハもわざわざ口にしなくても同じ気持ちだとなんとなく察したからだ。
「そろそろ行こ」
ユリハが手を伸ばしてきたので、僕はそれに掴まる。
「そうだな。鍵も職員室に返さないとだし」
空っぽになった本棚みたいな寂しさが残る音楽室を出ると、急にしん、とした空気に触れた。ついさっきまで、僕は今が夜で学校に忍び込んでいるということを忘れていた。つい、ユリハの左手をいっそう強く握りしめてしまった。
「? どうしたの? こわいの?」
不思議そうに見つめてくるユリハ。もうすっかり夜の学校に慣れた顔だ。
「なんでもないよ。ちょっと温度差にびっくりしただけ」
自分でもよくわかんない言い訳をして、階段にユリハを引っ張った。
***
慣れてもやっぱり廊下は怖くて、遠くに見える緑の灯りはなんだか嫌で。だけどもう足がすくむこともなくて。本人に言ったらまた変な顔をされるだろうから口にはしないけど、今安心して僕が歩いているのは、横で銀メダルを嬉しそうにちらちら見てる子のおかげなんだろうなって思った。
「待てお前ら! 逃がさんぞ」
一階の廊下を歩いているときだった。急に外で大きな声がして、僕はとっさにユリハの体を抱いて柱の陰に隠れた。
「見つかったの?」
心配するようにユリハが小声で訊いてくる。僕もドキドキして、ゆっくり呼吸をしながら外の様子を探る。
窓の外の方から、何人かの足音が聞こえる。たぶん複数の子どもと一人の大人の足音。
「なんでハゲじいがいるんだよっ」
よく聞き慣れた声がして、僕は重大なことを思い出した。
僕らのいる場所を少し過ぎたあたりで足音が止まる。首だけで様子を窺うと、窓から灰色っぽい作業服がちらちら見えた。こっちから見えるということは向こうからも見えるかもしれない!
「ついてきてっ」
僕は素早く向かいの教室のドアの鍵を回して滑り込む。ユリハも背を屈めてわずかな隙間から教室に入る。僕は音が出ないように、それでいて急いでドアを閉めた。
「わたしたちじゃ、なかったよね」
見つかったのは、という意味だと思う。息を切らしたユリハを落ち着かせるように僕は頷く。
「ケンタたちのこと忘れてたよ」
きゅっと唇を結んだユリハに囁く。学校に忍び込んだ興奮でうっかりしてたけど、本当なら今夜はケンタたちと学校に来るはずだった。だからちょうどいいと思ってユリハと来たんじゃないか。ケンタには悪いけど、本人の声を聞くまで僕はすっかりそのことを忘れてしまっていた。
「ちょっと待ってて」
教室のドアを閉めていると外の様子がわからない。ユリハが何度も縦に首を動かすのを確認して、僕はほんの少しだけドアを開けて、そっと耳を澄ました。
「お前ら二人だけか?」
残念ながら、ケンタ達は捕まったらしい。
「そうだよ。二人で計画して来たのに。なんでハゲじいがいるんだよ。いつもならもういない時間じゃん」
「ハゲじいじゃないっ。ちゃんとクラタさんと呼べ。お前らそんなんじゃ中学校でやっていけんぞ」
そのあともしばらくやり取りを聞いていると、急に走り出す足音と「待て」という声が聞こえた。どうやら二回目の逃走を決行したみたい。僕はドアを閉めてユリハのもとへ戻る。
「どうだった?」
壁に寄りかかりながらずっと体育座りをしていたユリハについ笑いそうになる。
「ケンタたちが捕まったみたい。でも逃げ出してまたどっか行っちゃった」
「計画してたのに見つかっちゃったの?」
そこはかとなくバカにされてる気分。言い訳みたいに聞こえるけど、僕たちはちゃんと用務員の先生の行動は把握していた。いつものなら。
「うん。でもさっきやり取り聞いてたら用務員の先生が言ってたんだ。卒業式の日は学校に忍び込む生徒がいるから見張りの時間を変えてるんだって。いつもなら八時くらいに帰るけど、今日はいったん帰って寝てからいつもより遅くまで見張るんだって」
「……そう。だから最初に来たとき用務員室にいなかったのね」
納得して、ユリハの肩から力が抜ける。僕もようやく心臓の鼓動がおとなしくなってきた。ユリハに倣って壁に背中を預け、今いる部屋を見回した。
「どこの教室だろう」
いつも使っていた机がないから普通の教室じゃないと思う。代わりに、長机がいくつか影の中に見える。
「ユウジわかんないの? 理科室のにおいするじゃん」
そう言われてても風邪気味の僕にはよくわからない。
改めて部屋の中を見回す。なるほど。理科室と理解して観察すればいくつかわかることがある。左の壁際で外からの光に反射してるのはビーカーとかがしまってある棚で、いつもすんごい勢いで噴き出す水道のいくつかにホースがついてる。右の奥の方に見える扉は準備室への扉。そして左奥にある人の形をしたあれは……。うん、あっちはあんまり見ないようにしよう。
今いる場所が理科室とわかったとき、急にジャンパーのポケットがズンッと重くなった気がした。不思議に思ってポケットに触れたら、なにか硬いものを感じる。
そうだ! これも持ってきたんだ。
「ユリハ、アルコールランプ持ってきてくれない?」
「はぁ?」
突然言い出した僕を、口を開けたままのユリハが睨んでくる。ってより呆れてるみたい。
「アルコールランプだよアルコールランプ。今からココア作ってあげる」
僕は以前、ココアを飲んだことがないと言ってたユリハにココアの良さを教えたことがある。そのとき約束したのだ。いつかココアを作ってあげるよって。
ココアと聞いて、眠そうだったユリハの目がパッと開いた……気がする。
「ほんと?」
「ホントだよ。家からココアの素持ってきたんだ」
「わかった」
スタスタ歩きだしたユリハとは違う方の棚に僕も向かう。校庭に面した窓に注意しながら必要なものを探す。できるだけきれいなビーカー、網が乗っかった三脚のやつ、マグカップは科学部のを準備室から借りよう。
「はやくはやく」
僕がカチャカチャ音を立てながら戻ると、早くも火をつけたユリハが机の陰で待っていた。
窓の外から見ても見つからない配慮をしてるのはさすが!。
「早くない? 火がついてるそばで準備するの怖いんだけど」
ちょっとぎこちなくなりながら三脚を火の上に。さらにその上に水を入れたビーカーを乗せる。あとは待つだけ。
ユラユラ揺れる火を見ながら、僕はちらちら部屋の外にも注意を向ける。校庭のはるか先に見える用務員室は灯りがついたまま。あそこにケンタたちがいるのか。それとも他にも忍び込もうとした生徒がいたのか。
今度はドアを少し開けて廊下の窓から外を窺う。耳が痛くなるくらい静かで、少し空気が冷たい。懐中電灯がユラユラ生徒を探す様子もない。
ドアを閉めると、待ちきれない様子のユリハが床を手のひらで叩くペタ、ペタって音だけがどっかの国の民族音楽みたいに響いてる。
「ねえねえ、もういいと思うの」
僕の視線に気づいたユリハが手招きする。ビーカーの中はいつだかアニメで見た溶岩みたいにぐつぐつしている。
「たしかに。そろそろよさそう」
ユリハがマグカップにココアの素を入れる。僕の方は、「少し入れれば十分だよ」と教えながらアルコールランプの火を消す。
「あぶないっ」
なにも考えずに僕が伸ばした手がビーカーに触れるのと、ユリハが小さく、そして鋭く叫んだのが同時だった。
「っ」
直後、指の先に刺されたみたいな痛み。
熱湯の入ったビーカーが倒れなかったのは幸運、あるいは奇跡といっていいかもしれない。一瞬バランスを崩したものの、宙に浮きかけたビーカーは安定を取り戻す。
「冷やさないと」
やけどした僕より慌てた様子で僕を水道に引っ張るユリハ。ちょっと蛇口をひねっただけで水が勢いよくシンクに飛び出す。
「待って! 痛いっイタイいたい」
やけどの部分に直接当たる水が痛い。
僕は空いてるビーカーに手を伸ばし水をためる。
冷たい水に浸すと痛みはすぐにひいて、軽く親指で触っても平気になった。
「だいじょうぶ?」
心配そうにのぞき込んでくるユリハ。僕は照れ隠しも含めた笑顔で答えて、ポケットから出した手袋を渡す。
「熱いからこれ使って」
いつもだったら「今さらなに言ってんの?」って顔されるだろう。でもココアに期待を膨らませているユリハはさっそく手袋をはめた。
「溢れないように気を付けて」
「わかってるっ。まかせて」
二つのマグカップにお湯が入る。途端、風邪気味の僕にも独特な香りがわずかに届く。あれ? でもこの匂いって……。
嫌な予感がする僕の視線の先で、ユリハが自分のマグカップに息を吹きかける。なんだろう。ちょっとドキドキする。そして。
「う、ん?」
熱さに注意しながら一口飲んだユリハも眉をひそめた。
「なんか思ってたのと違う不思議な味」
心なしか声のトーンを落としたユリハが呟く。
うわぁ。たぶんやっちゃった。
ほぼほぼ間違いないと思うけど、一応確認のために僕も一口。含んだ瞬間口に広がる苦み。
「あのさ、ユリハ」
けっして美味しそうではないけど、それでもちびちび飲んでるユリハを呼ぶ。
「?」
マグカップを傾けたままユリハが向き直る。
「ごめん。持ってくるビン間違えたみたい。これ、ココアじゃないさ」
こっくん、と音を立てて口に含んだ分を飲み切ると、ユリハはゆっくりとマグカップを床に置いた。
***
僕はいつも、台所に入って右手の棚にココアのビンを置いている。このビンはお母さんがいつも飲んでるインスタントコーヒーの空きビンをもらって僕がココアの素を入れている。袋から入れるよりカッコいいと思ったからもらったのだ。ここまではいい。問題は、ココアのビンと同じ保管場所に本物のインスタントコーヒーが入ったビンと、さらにはよくわかんない唐辛子みたいなのも入ったビンも置いてあるということだ。特に置く順番も決まってない。使ったらそれぞれなんとなく戻している。朝飲んだとき、僕は一番左側にココアのビンを戻した。だからさっきも一番左のを手にした。僕が小学校に行ったあとにお母さんがコーヒーを飲んだなんて知らずに。
***
「これたぶんコーヒーってやつだ。前に一回だけおかあさんにわけてもらったことある。ユリハは飲んだことない?」
僕の質問に首を横に振るユリハ。
「聞いたことはあるけど飲んだのは初めて。全然甘くないから変だと思った」
興味深そうにユリハがコーヒーを鼻に近づける。
「不思議なにおい」
はっきりと落ち込んだ態度をしてはなかったけど、僕は申し訳ない思いでいっぱいだった。
なんか今日はたくさん失敗してる気がする。
僕は意味もなく自分のマグカップを見つめた。まだ半分以上黒い液体が入っている。このマグカップを見つけてくるまでは良かったんだけどなぁ。
そういえば、なんで理科準備室にマグカップなんてあったんだろう。ゆっくり考える。答えは簡単だ。なにかを飲むために決まってる。
「ユウジ? どうかした?」
黙り込んだ僕にユリハが訊いてくる。さっきまではどこか意識がぼんやりしてたのに、どんどん冴えてくるのを感じる。
マグカップがある部屋を僕は他にも知っている。自分たちの教室でも音楽室でもない。さっきも行った、職員室。
「迷い猫事件覚えてる?」
僕の突然の問いに驚いたようにユリハが頷く。
「夜中のうちに習字の紙とかポスターがびりびりになってたやつでしょ?」
一年くらい前、ほんの数日だけ僕たちの学校で怪談が流行った。夜のうちに学校の備品が動いていたり、放課後誰もいないのにガタゴト音がしたと報告する生徒がいたのだ。夏も終わって寒くなり始めた頃だったのに、僕たちは七不思議だとかこの校舎はお墓だった場所に建てられただとかの話で持ちきりだった。
「猫を見つけたのってユリハ達なんでしょ?」
「うん。掃除しようとしたらバケツの中にいた」
幽霊の、正体見たり枯れ尾花。噂になって一週間も経たずに迷い込んだ猫が保護された。壁の傷から、ほぼ間違いないという。こうして、季節外れの怪談話は静かに消えていった。1つだけ残った謎は、迷い込んだ猫がそこまで衰弱していなかったという点。誰かがエサをあげたんだろうけど、そっちの正体ははっきりしなかった。まあでも僕だったら名乗り出ないと思う。先生に怒られるかもしれないし、猫をかわいがってる場面なんて見られたらクラスのみんなになんて言われるかわかったもんじゃない。
「見つけた猫は職員室に届けたんでしょ?」
「うん。なんかお腹すいてそうだったし、おとなしい猫だったから。先生が小さいお皿にミルクを入れたら元気に飲んでた」
それ。それが知りたかった。
僕は二回目の「ちょっと待ってて」を言い、準備室に駆け込んだ。実験のことが書かれた紙とか予備の器具がある中で圧倒的な存在感を放つもの、小型の冷蔵庫に手を伸ばす。ふわっ、と冷気が足元に広がる。
「こっちにはないか」
中にあったのは大きなペットボトルの炭酸ジュースとお茶。牛乳は入ってない。なら仕方ない。職員室まで行こう。
あとから考えれば、なにを必死になってたんだろうと思う。あるいは、もっと成長して夜更かしに慣れた僕が見たら、これは夜の謎ハイテンションだよ、としたり顔で説明してくれたかもしれない。とにかく、なぜか僕は危険を冒して職員室に牛乳を取りに行く決意をしたのだ。
「どこいくの?」
三回目のちょっと待ってを言って理科室から出ようとすると、ユリハに服の裾を引っ張られた。
「すぐ戻ってくるよ。職員室から牛乳取ってくる」
「意味わかんない」
しん、とした廊下。特に足音はしない。もしかしたら見回りの先生は帰ったのかもしれない。僕はマスターキーをぎゅっと握りしめてシミュレーションをする。職員室までは二十秒くらいでつく。すぐに鍵を回して冷蔵庫を目指す。理科室に戻る。簡単。気分はスパイ映画の主人公。
僕が捕まっても、他の人は一切関知しないからそのつもりで。
さっきのケンタたちのときと同じだ。子どもの世界も厳しいのだ。
「ミッション、開始」
「ぶつぶつ言ってないで行くなら早く行けばいいのに」
後ろからのユリハの声で、靴下しか履いてない僕は滑りそうになりながら走り出した。はぁ。
***
今夜の僕はどこかおかしい。なんだか大胆になってる気がする。
職員室から理科室に戻ると安心したように息をついたユリハが駆け寄ってきた。
「牛乳取りにいったんじゃなかったの?」
僕が牛乳のパック以外も抱えているのをユリハは見逃さない。
「だって冷蔵庫開けたら入ってたんだよ? 先生たちずるいって思って持ってきちゃった」
僕が持ってきたのは袋に入った一口サイズのバームクーヘン。いっぱいあったから思わず二つだけ掴んでしまった。
「まああくまでそっちはおまけだよ。本命はこっち」
僕は自慢げに牛乳を見せびらかす。
「知ってるよ。コーヒー牛乳でしょ」
僕が職員室に向かってる間に片付けたのか、アルコールランプとかの器具がなくなっている。代わりに、机の上に二つのマグカップが綺麗に並んでいた。
「やっぱりコーヒーだけだと苦いからね」
大人はコーヒーをそのまま飲むって聞いたことがある。とても信じられない。
「ユウジはコーヒー牛乳飲んだことある?」
僕は牛乳を混ぜたマグカップを軽く振る。
「ないよ。温泉でお父さんは飲んでたけど」
混ぜ終わったのを一つ渡す。さっきと同じようにクンクン、と匂いを嗅いでからユリハがマグカップに口をつける。僕も匂いを嗅ごうとしたけどよくわからなかった。
「苦いね」
一気に半分くらい飲んで、ユリハが口の周りを舐める。
「うん。苦い。これでも大人の飲み物って感じがする」
僕も口の中に広がる風味を感じながら答える。さっきほど苦すぎることはないけど、なら飲みやすいかと訊かれても答えに困る風味。
二人して笑いそうになったとき、わずかに空いたドアの外からペタンペタンと足音が聞こえた。
「っ!」
とっさに僕もユリハもマグカップを持ったままドアから遠い机の陰に隠れた。
上履きの音ならキュッキュと音がするのを僕たちはよく知ってる。靴下だけならあんなに大きな足音はしない。幽霊には足がないからそもそも足音もない。きっと。ということは。
「たぶん用務員の先生だ」
僕の言葉にユリハも頷く。ほぼ立ち止まることなく、校舎の入り口の方から足音は近づいてくる。ドアを開けられたらどうしよう。鍵をかけてない。閉め忘れと思ってもらえないだろうか。
僕が色々悪い想像をしていると、マグカップを抱えるユリハが目に入った。そして、今日何度目になるかわからない失敗をしていることに気づいた。
風邪気味の僕はともかく、普通はドアを開けたらコーヒーの匂いに気が付く。下手をしたらドアを開けなくてもわかるかもしれない。
足音が近づいて大きくなるのに合わせるみたいに、僕の心臓のドクンドクンも大きくなる。
お願い。引き返して。
ぎゅっとマグカップを握って祈る。でも足音は止まらない。二つ隣の教室の前くらい。そして隣の教室。僕とユリハは取りつかれたみたいに理科室の入口を見つめる。そして、視界の端にチラッと人体模型も映る。さっきまでは怖いと思ってたそれも、まるで入り口を凝視するみたいな表情に見えて、僕はつい吹き出しそうになった。こんなときになにを考えているんだ僕は。
ペタン。磨りガラスの向こうに人影。右側のユリハがピタッとくっついてくる。激しい心臓の鼓動が僕のものなのかユリハのなのかわかんないくらい。そして。
「っはぁーー」
足音が遠くなって二階の階段に向かう。自分じゃ気が付かなかったけど呼吸も止めてたみたい。ユリハも同じように大きく息を吐きながら小さくなる。
「もうだめかと思った」
「僕も」
まだ先生が校舎の中にいるから小声で。
「とりあえずコーヒーの匂いでばれないようにドアをちゃんと閉めてくるよ」
「じゃあわたし窓開けて換気する」
そういってターンキーに手を伸ばすユリハを僕は止める。
「待って。窓とか無暗に開けると警報が鳴っちゃうからダメだよ」
これは僕らが色んな調査をしたから知ったこと。ほんの一部の窓を除いてセンサーがついている。
「わかった」
ユリハが頷いたのを見て、僕はドアのわずかな隙間も閉める。これで少しはバレる可能性が減る。迷ったけど鍵は閉めない。鍵をおろすときに意外と大きな音がするからだ。
「見張りの先生が校舎から出るまではあまり動かないようにしよう」
「うん」
それから僕らはゴムっぽい床の冷たさを感じながら色んな話をした。春の修学旅行のこと、夏にみんなでキャンプをしたことや雨の日の幽霊事件のこと、マラソン大会でショートカットコースを見つけて走ったら迷子になったこと……。六年生の頃の思い出が終わると、五年生のときの思い出、四年生のときの、と少しずつ遡りながら話をした。
話す中で、僕はできるだけ学校での思い出だけを話すように気を付けた。ユリハのお父さんは何回か変わっていると聞いたから、家庭の話は避けた方がいいと思ったから。
「ユリハは中学校の部活とか決めた?」
夢中になって話していたユリハが止まったのは、小学校の思い出話をあらかた話し終えたあとだった。
「う……ん。中学校、ね。あんまり、考えてないの」
「もうすぐなのに? あっ勉強とか難しくなるから考えたくないんだ。僕はもう部活決めたよぜったいに」
「ねえユウジ」
僕の言葉を遮るようにユリハが呼んだとき、再び廊下の方から足音が聞こえた。なにかを言おうとしたユリハも、続きを話そうと口を開いた僕も、二人してそのまま固まる。
ペタン、ペタンというスリッパの音が階段の方から向かってくる。でもなぜかあんまりドキドキはしない。うまく言えないけど、足音の感じからまっすぐ玄関に向かうと確信が持てた。秋のマラソン大会と同じだ。スタートした直後は色んな発見やわき道を見て楽しむけど、ゴールが近くなるとまっすぐゴールに向かいたくなる。
「行っちゃったね」
思った通り、足音の主は理科室も隣の家庭科室も素通りしてどんどん遠ざかっていく。校庭に面した窓からそっと覗くと、一人分の影が用務員室に歩くのが見えた。しばらくすると、その用務員室の電気も消え、人影が校門の鍵を閉めながら出ていった。
「なんのはなしだっけ?」
振り返ると、ユリハが困ったような迷ったような顔をして立っていた。
「あのね、その」
ユリハが人見知りとか話すときに緊張するのは知っていた。でもそれは、一度に大勢の人と接するときだけだ。こんなふうに、一対一で話すときに言葉に詰まるのは珍しい。
「えっと、ユウジ、そろそろ時間だいじょぶかな」
時間と言われ、理科室の時計を見る。
「うわっちょっとやばいかも」
夜中にはなってないけど、もうすぐ十一時になろうとしている。あんまり眠くならないから全然気が付かなかった。
「そろそろ帰る?」
「……うん」
僕はもうすっかり冷めちゃったコーヒー牛乳を一気に飲み込む。うん、ココアとは大違いだ。
「大人になるにはまだまだだね」
「でもいつかこういうのもおいしいって思えるようになるんだね」
ゆっくり飲み切ったユリハもふぅ、と息をついた。
マグカップをもとの棚に返して、今度こそ誰もいなくなった廊下に出る。今日でこの校舎にくるのも最後だ。二人で職員室に鍵を返す。当たり前だけど、職員室のごみ箱には最初に来たときに食べたクッキーの袋が残ってる。食べたのはほんの数時間前なのに、口いっぱいにコーヒーの苦みが残っているせいで、どんな味だったのか思い出せない。
二人で怖がりながら歩いた廊下ももう全然平気で、僕たちは無言のまま入ってきたのと同じ窓から外に出た。
少し冷たい風が吹いて、腰くらいの高さしかない木の枝が揺れる。クツを履いて踏んだ土から、ザッザッと音がする。見上げた月は、満月じゃないけど薄い黄色で綺麗だった。
すごく奇妙な感覚だった。まるで学校の中にいる間は僕たち以外の時間が止まってて、外に出た瞬間にすべての時間と感覚が動き出したみたいな。
「ねえ、これ知ってる?」
人差し指と親指で作った円から月を見ながらユリハが言った。
「大事なものを見つけたときにはこうやって見るといいんだって。見つけた大事なものがなくならないんだよ」
「月が大事なの?」
「うん。だって月がなかったら夜暗くて危ない」
なるほど。僕も真似して親指と人差し指で輪を作る。
「それにね、このおまじないをやってから気が付いたんだけどね、こうやって指の間から見たものって普通に見るより小さく見えるんだ」
そんなバカな。そう思いながら僕も月を輪の中から片目で見てみる。そのまま輪を外したり戻したりしてみる。
「ホントだ! 輪っかを作ってるときの方が遠くに見える!」
「でしょっ。わたしがみつけたんだ」
「ユリハすごい。これきっと新しい発見だよ。名前つけようよ」
「名前って?」
きょとんとするユリハ。僕は興奮して話を続ける。
「名前は名前だよ。この現象の名前。プラシーボ効果みたいなさ」
僕はユリハと話すようになった日を思い出した。クラスの前でココアを飲む習慣のこと話して、珍しくユリハがクラスの中で発言したことを。
「そんなの急に言われても思いつかないよ」
困り顔のユリハがスカートの裾をパタパタはたく。
「じゃあさ、ユリハ効果でいいじゃん」
「やだよ恥ずかしい」
ユリハは嫌がってるけど、僕は何度もユリハ効果、と心の中で繰り返した。
「教えるんじゃなかった」
月から目を離したユリハが歩き出す。
「ちょっと待ってよ」
僕も慌てて背中を追いかける。そしてなんとなく指で作った輪の中からユリハを見てみた。月はすっぽり円の中に納まったのに、近すぎるユリハは頭から肩の下くらいまでしか入りきらなかった。
***
「あのさ、ユウジ」
僕たちの別れる三叉路まであと少しというとき、ユリハが僕のジャンパーの裾を引っ張た。
「どうしたの?」
「中学校のこと」
それだけ言って、ユリハ黙ってしまう。どうしたんだろう。じっとしてると、俯いたユリハの肩が少し揺れているのに気が付いた。
「もうすぐね、お母さんが離婚するの。それでね、わたしも、引っ越しするって。そんなには遠くないけど。でも、……だから、同じ中学校に行けないの」
「え……。なんっ、で?」
うまく言葉が出なかった。
ユリハが引っ越す? もういなくなる? ほんとは頭が理解しちゃってるのに、なにかがそれを否定しようとしていた。ずっと当たり前に、一緒だと思ってた。
「い、いつ引っ越すの?」
指の先が冷たいのは、手袋をはめてないせいじゃない。僕は色んな感覚が遠くにいってしまった気がして、思いっきり両手を握りしめる。
「もう荷物はまとめてあって、明日か明後日。卒業式までは、待って、あげるって、お母さん言ってた」
クラクラする。なんで? 違う中学校に行く友達は何人もいる。わかんない。わかんないけど、なんとなく、カッコ悪いから動揺した姿を見せたくなかった。
「そっか……」
「うん……」
しばらく動けなかった。でもいつまでもここに立ってはいられない。一本横の道を原付が走る音を聞いたとき、僕はゆっくり分かれ道に向かって歩き出す。ユリハもすごく小さい歩幅でついてきた。
「そんなに遠くじゃ、ないんだよね」
さっきまでより、ずっと普段に近い声が出せた。
「うん。自転車なら、会いに行けるくらいだと思う」
「じゃあまた遊びに来てよ。家がわかったら僕も行く」
「うん」
「それとさ、まだ先の話だけど、おんなじ高校行こうよ」
え? とユリハが立ち止まる。道が分かれる直前。次に踏み出す一歩は、それぞれ違う方向になっている。
「兄さんがさ、来年S高校受験するんだ。県内じゃちょっと難しいところだけど、勉強して一緒の高校行こう」
知ってる高校なんて他にないから、とっさに家で話題になった高校の名前をだした。 中学校に入る前から高校の話なんて、と思うけど、なにか約束をしておきたかった。
ユリハは何回か「S高校、S高校」と呟いてから、いつもより大きく頷いた。
「約束だ」
僕が小指を立てる。
「まだ守ってない約束もあるのにね」
そう言ってユリハも小指を立てる。
「ちゃんと守るよ。なんなら明日起きたらココア作りに行くよ」
「うん」
もう小学生じゃない。ちゃんと約束は守んないと。もうすぐ中学生なんだから。
「ねえユリハ、ちょっとメダル貸して?」
ちょっと首を傾げながら、ユリハは銀メダルを取り出す。もしこれをユリハが忘れなかったら、今夜の冒険は全然違うものになってたんだろうな。
「動かないでね」
メダルについたリボンをほどいて、ユリハのワンピースの首元にそっと回す。胸の前で一回転させてから首を絞めないように注意して結ぶ。出来上がったのは、少しバランスの悪い蝶結び。
「中学校の制服ってこんな感じかなって思って」
帰り道に見かける中学生はみんな胸元にリボンをつけてた。それを思い出したのだ。
「こんなに細くないし崩れてないよ。もっとかわいいもん」
そんなことを言いながら、ユリハが嬉しそうにリボンを撫でた。僕の返したメダルも大事そうにポケットにしまう。
「そっか。ごめん」
おかしそうに笑うユリハは少し大人みたいに見えた。
「いいよ。今度もっとかわいい姿で見せびらかしに来るから」
分かれ道にユリハが一歩踏み出す。
「それも約束?」
僕はなかなか踏み出せず、その場に立ったまま訊いた。
「これは違うよ。ただの自慢話」
なにが違うの? と思ったけどリボンのバランスを整えたユリハの姿を見たらどっちでもよくなってしまった。
「似合ってるよ」
「ありがと。宝物にする」
「リボンを? 普通メダルの方でしょ」
ふふっと大人っぽく目を細めたユリハは今度こそ振り返らずに言った。
「やっぱりわかってないなぁ、ユウジは」
「どういうこと?」
「なんでもないよ」
だんだんユリハの背中が遠くなる。
「またね!」
それだけ言って、僕はようやく歩き出した。
小さな「うん」が聞こえた気がした。でも独りで歩き出すと、とっくになくなったはずのコーヒー牛乳の味がまた口いっぱいに広がった気がした。
***
夜中に帰った僕は、起きて待ってたお母さんにものすごく怒られた。警察に相談しようかと真剣に悩んでいた、と怒っているような泣いているような顔で言われた。
次の日、頭と喉の痛さで起きられなかった。ひき始めの風邪が昨日の一件で一気に悪化したらしい。熱が下がったのはさらに二日後で、なんとか動けるようになった僕がユリハの家に行くと、そこはカーテンもとられてもぬけの殻になっていた。
そして。
中学生になってから、ユリハが僕の家に来ることはなかった。色んな約束も段々薄れていって、寂しいと思う感情は中学校での忙しい生活でどんどん小さくなっていった。
それでも、僕は一つの目標のために勉強をした。形骸化して風化しても、それが最後にした約束だから。
三年後、僕が受かったS高校の生徒の中に、楠ユリハという名前の女の子は、いなかった。
***
僕は朝起きたらコーヒー牛乳を飲む。夜勉強する前にもやっぱり飲む。
『コーヒーにはカフェインが入っていて、飲むと眠くならない』
苦手な社会の授業がある日は特に意識して飲む。あれはホントに眠くなる。だからといって寝てしまうと授業についていけない。少し無理して入った高校なのだ。
「なんで世界史なんて選んだんだよ。絶対日本史の方がお前に合ってるぞ」
外国人の名前が覚えられなくて困ってるときに何度か言われたことがある。そんなときは毎回同じ言葉を返してる。
「だってさ、なんかカタカナってひらがなや漢字よりカッコいいじゃん」
まだ、子どもっぽいのかな。昔からこんなことを言ってた気がする。
そんなふうに、進んでいるかもわからないまま時間は過ぎていく。
「あんたそれでよく眠れるわね」
「ん?」
キッチンでお湯を注いでいると、母さんがぼさぼさの頭で入ってきた。
「テスト前だからちょっと頑張らないと」
「ふーん。なんか中学校の頃から急に勉強するようになったよね」
それだけ残して、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した母さんは出ていった。
別に勉強が好きなわけじゃないけど。そう思いながら、あったかいコーヒー牛乳を持って部屋に戻る。
いつもと同じ部屋。机の横には高校指定の鞄。壁には制服。部屋の一角に乱雑に積まれていたあれこれは、高校進学と同時にちゃんとした物置に移してしまった。
なんにも変わったところはない。なのに。
おかしい。世界史の教科書をしばらく眺めていても全く集中できない。
せっかく気合いを入れようと思って飲み物のお代わりを持ってきたのに。
時計を見るとまだ十時。まだそんなに慌てる時間じゃない。苦手な社会のテストだってまだ来週だし。そう自分に言い聞かせて、僕はカップを持ってベランダに出た。
二月の外は震えるほど寒くて、部屋着のまま出ると手に持ったマグカップの温かさをいっそう強く感じられた。住宅街は地上の光がまだ多くてそんなに星は見えない。でも、半分に切られたみたいな月がはっきり見えた。
勉強をするようになった、ねぇ。母さんがそんなことを言うせいで、ぼんやりした記憶につい意識を向けてしまう。もちろん、小学校最後の日。いつの頃からかは覚えてないけど、あの日の出来事にいくつかの違和感を持つようになっていた。
あの日。忘れ物、確かメダルだったかを二人で取りに行った。でも、あれは本当に忘れ物だったんだろうか。わざと彼女は置いていったんじゃないだろうか。
彼女はいつも眠そうな、やる気のないような目をしていた。だからといって彼女はぼんやりしてるタイプだったかと思えば、答えはノーだ。どちらかと言えばちゃんと考えてから動く方で、大事なものを置き忘れるなんてあの件以外にはなかったように思う。
クラスでも、本人は目立つことを避けていた。うまくは言えないけど、オーラとか纏う雰囲気なんかで目立っちゃうことはあっても、自分から物事の渦中には手を伸ばさないイメージだった。なのにあの夜は、僕と二人だったというのを差し引いても、強引というか積極的ではなかったか?
なんのために?
あの日、本当なら他の男友達と行くはずだった。僕たちにとって小学校最後の思い出作りのために。彼女の目的も同じだった? 僕と、彼女自身の思い出が欲しくて……。
「はぁ」
まさかね。
もう高校生なのに、いつまで中学生みたいな妄想をしているんだろう。ほんと、バカみたい。
「冷たっ」
ベランダの手すりに両手を乗せると、むき出しになった手の部分が刺されたみたいに痛くなった。
左手に持ったマグカップから一口飲む。この世界に唯一残されたみたいな熱が僕の口と喉を駆け抜けて、体の真ん中あたりで溶けるように消える。残ったのは、やっぱりまだ好きになれない味。
コーヒーみたいに強い苦みでもなく、かといってココアほど甘くもない。とても中途半端。あの日の僕はどうだっただろう。それに、今は?
空いている右手で輪を作る。ずっと昔から決められた儀式みたいに、自然な流れでその輪っかから月を覗いた。
「やっぱり遠いなぁ。それに、やっぱりまだ苦い」
もう一回飲んでみても、やっぱりその飲み物は大人の味で、まだ僕は美味しいとは思えなかった。
これでユウジという語り手のお話はいったん終わりです。もし機会があれば五年生の終わりから六年生の夏くらいの出来事を書きたいです。具体的には、ユウジとユリハが喧嘩したりとか、学校での幽霊騒ぎとかです。
迷い猫事件の真相も用意はしてありますがあの二人ではたどり着けないので他のお話でちょろっとほのめかすことがあるかもしれないです。
最後まで読んでもらって意味がなかったと思わせてしまったら申し訳ありませんが、少しでも楽しんでもらえたら幸いです。