B:Forfeiture
目が覚めると、俺は見知らぬ部屋にいた。自分の他には誰もいない、真っ白で簡素な部屋だった。俺はベッドに寝ていた。
窓からは暖かい光が差し込める。起き上がって窓から外に顔を出すと、ここはどうやら病院らしいということが分かった。
どうして俺はここにいるんだろう。
考えてみるが、思い出せない。昨日自分が何をしていたのかも、覚えていない。
病室の扉が開く。看護婦さんがいた。
「気付かれましたか。具合の方は大丈夫ですか?」
優しい言葉を掛けてくれる。なかなか自分の状況が掴めなくて、俺は返事が出来ずにいた。数分経って、
「――ぎさん、柏木さん?」
何度も自分の名前が呼ばれているのに気が付かなくて、看護婦さんが心配そうに訊ねてくれていた。
いや、正確に言えば、それが自分の名前だとは分からなかった。
「はい?」
「体調、大丈夫ですか?」
「俺ですか?」
「ええ、柏木さんです」
「俺、カシワギ……ですか……?」
「はい、確かに。柏木将也さん。ベッドの患者票にも書いてありますよ」
と言って看護婦さんは、さっきまで俺が寝ていたベッドの横を指す。そこには確かに、
〈柏木将也、H4・6・2生、A型
H22・5・2入院〉
と書かれていた。
「柏木さん、どこかご気分でも……」
「あぁ、いや、別に」
そこに書かれている――氏名、生年月日、入院日――全ての情報を、俺はまったく知らなかった。
でも何か悟られちゃいけないような感じが直感でして、俺はお茶を濁した。
「何でもないです」
その時看護婦さんは何も言わずに病室を出て行った。
でも夕方になると今度は自分が主治医だと言う若い男性と、見知らぬ男女が二人連れ立って、俺の所へやって来た。
「将也……」
二人のうち女性の一人が話し掛けてくる。
「あの……どちら様ですか」
気になって訊いた瞬間、二人のうち今度は男性の方がこちらに詰め寄る。
「おい将也! お前ふざけるのも大概にしろっ!」
「やめてあなた!」
「落ち着いて下さいお父さん!」
何故か俺に殴りかかろうとしてきた男性を主治医と女性は必死に食い止める。
「お父……さん……? じゃあ隣の人は……」
「そう言うことだよ、将也君。やはりどうやら私の予感は的中していたようだ。将也君、」
主治医は小さな溜め息をつく。小さくはあったが、凄く重いようにも感じられた。
「二人は君のご両親だよ。覚えてるかい?」
「いいえ、分かりません」
俺が答えると母親は目を潤ませ、父親は拳を強く握り締めた。場違いではあるけれど、そんな二人が対照的で滑稽に思えた。
「そうか……やはり君は、一時的な記憶喪失になってしまったようだね」
「そうですか」
朝、目が覚めてからずっと勘づいてたので今さら驚きはしなかった。
でも一つ気になることがあった。
「一時的……ですか?」
「えぇ、そうだよ。つまりね……」
医者というのは実に理屈っぱい説明が好きなようで、彼もまた例外ではなかった。
昨日の夜、つまり五月一日の夜十時頃、突然どこかに頭を打ちつけて倒れた俺は気絶、そのままここへ運ばれてきたという。
通常、内的な病気でもない限り、単に頭をぶっただけならは永久的な記憶喪失はあり得ない。すぐ治るかどうかは別として、何かきっかけがあれば得てして記憶というのは戻るのだとか。
元々俺はさほど心配していなかったが、両親はそれでもどこか腑に落ちないようだった。
夜が遅くなり、面会時間が終わる頃になるとようやく二人は椅子を立ち、
「また明日来るから」
それだけを言い残し、儚げな明りだけを灯した廊下へ去って行くのだった。
翌日。
月曜日だったが、まぁ、要するにゴールデンウィークというヤツで、両親の他に四人の来客があった。
「高校のお友達よ」
言って外に出た母親と入れ違いに入って来たのが、同い年の四人。女子が三人に、キザっぽい男子が一人。えっ、俺男友達コイツ一人しかいないの?
「よっ将也。覚えてるか?」
「いや全くもって」
「だよな!」
非常に不本意ながら、記憶を喪失する前の癖なのかこの――羽太瀬優希とかいうヤツとは気さくに話せる。いやしかしコイツの絶えぬ笑顔にはお世辞にも上品さは見えなかった。
「ん? 何か俺の顔についてるか?」
よっぽど俺がまじまじと見つめていたからだろうか、優希は訊いてきた。
「いや、顔全体にそこはかとなく嫌らしさがこびりついてるように見えてな」
「お前、本当に記憶失くしてるんだよな?」
優希の背後に若干怒りのオーラが見えた。俺ってこんな失礼な奴だったのか。
「でも、思ったより大丈夫そうで良かったです。……あ、私久住愛理って言います。覚えて……ない、よね?」
可愛らしげに首を傾げるのは、肩にかからないくらいの辺りで短かめに髪を揃えている女子。
すみませんが、どんなに可愛くても、思い出せませんです、ハイ。
「がーん」
随分と表情豊かなお方だ。
「まぁまぁ、そんな落ち込まないの、って、ねー将也クン。あたし、川崎諒子」
名乗った女子は隣でうなだれる久住さんとは対照的な印象だった。髪は長いけど、季節を間違えたかケニアにでも行ったかというようにほんのりと焼けた肌がうかがえる。
ついでに、極めつきの一言だ。
「貴方の、許嫁よ」
『っ!』
「いいなっ……」
一同、絶句。
『いやいやいやいやいやいやいやいや!』
「アンタ何言ってんすか!」
「ぬっ……抜け駆けは良くないです!」
「諒子。アンタには後でお仕置きが必要のようね……真空仏陀切りとか」
優希、久住さんの後に続いたのは……
「斎藤麗菜」
だ、そうだ。茶色の髪にカチューシャつけて、随分と気の強そうな目付きをしていることだ。あとその技はやめた方が良いと思う。
「あーら麗菜、この程度で嫉妬ぉ? 良いご身分になったものねえ?」
対して挑発的な態度をのうのうとかますのは……やはり諒子だった。
うん、こいつはどうやら火に油を注ぐ天才のようだ。
「ど、どうしてそうなるのよ! 別にアンタがどう言おうと私は構わないんだからねっ」
「うん、うん」
詰め寄る麗菜をかるーく受け流す。目が線になっているように見えるのは俺の錯覚だろうか。
「あはは……」
いっつもこうなんですよ、この二人。と、困った表情を俺に向ける愛理。
いつもこうなのは良いんだけど、一体何に嫉妬してんだろうね。
「こらこら二人とも、ここは病室なんだからさ、あんまり騒ぐなよ」
いよいよ内輪揉めが激化して麗菜の腕から拳が振り下ろされんとしてきたところで手持ち無沙汰だった優希から歯止めがかかった。
「うふふ」
「…………」
言わずもがな、前者が諒子、後者が麗菜。
このいがみ合い、しばらく続きそうだ。
その日の夕方。
両親が急用で長く席を外すと言うので、くだん件の麗菜が俺を看てくれていた。
「あのさ」
口火を切ったのは麗菜。
「さっきは……ごめんね」
「何の話?」
「あの、病院なのにうるさくしちゃって」
「良いって、気にしてないよ」
「そ、そう」
さっきの強気はどこへやら、麗菜は随分と恐縮そうにしている。
「俺の両親、何の仕事してんだろ」
小さくひと独りご言つ。
「おじさまもおばさまも、大学の教授よ」
「え?」
「教授。今日の急用って言うのも、多分学会か何かだと思うけど」
「そうだったのか……」
言われてみれば確かに両親とも見舞いに来るにしてはフォーマルな格好をしていたし、そんな記憶もあったような気がする。
でも、なんで麗菜がそんなこと知ってるんだろう。
「私はね、アンタとは昔から友達なのよ。優希や愛理や諒子も、高校は一緒だけど、私とアンタは小学校からずっと一緒。家も近所。だから知ってるのよ」
言ったつもりはなかったが、何かの拍子に悟られたのだろうか、麗菜は答える。同時に、ようやく昼の調子を取り戻してきたようだ。
「体調は大丈夫? 気分、悪くない?」
やおら麗菜は俺の額に手を当て、自分の熱と比べる。
うーん、と考える麗菜の顔を見上げる。
昼はバタバタしててよく見ていられなかったが、今一度観察する。
目はやはりいかにも強気と言った感じで、それを顕著なものにするかのように整った顔立ち。茶色がかったストレートヘアーに、アクセントとなるは群青の細いカチューシャ。
私服を着ていた。下はジーンズ、上は黄緑のパーカー。ここまで着てきた紺色のダッフルコートは、今は窓際に掛けてある。
「な、何よ?」
もう一度顔に視線を戻すと、麗菜は頬をあからめていた。
「あっ、悪い」
ちょっと見過ぎていたかも知れない。
「バカ」