十章 青の凱旋―――六月十日・一
深夜二時。照明の灯った階段を降りながら、起きる原因となったぐーぐー鳴りっ放しの臍周辺を擦る。
「あー、腹減った……元はと言えば、あの新入りが全ての元凶だ……」
来たばかりだってのに僵尸の奴、ちゃっかり桜ちゃんに取り入りやがって。しかも古参の俺を差し置いて、一番晩飯貰ってたし!
―――滅茶苦茶美味いなあ、桜ちゃんのご飯!さっきからほっぺたが落ちっ放しだよ。うんしょ、うんしょ。
―――煽てても何も出ないわよ。でも、そんなに空腹だったの?お昼にハンバーガー三個も食べたんでしょう、アダム。
―――ポテトのLとナゲットもだ。
―――うーん、連チャンでややこしい魔術使ったせいかなー?(さすさす)まだちょっと物足りない感じー。
大きいサイズのスコッチエッグを二つも収め、尚も空腹を訴える居候。指を銜える様を呆れ顔で見やり、“緑”は流れるような動きで俺の皿に残っていた一個を移動。
―――ちょ、桜ちゃん!?
―――本当に仕方の無い人ね。まぁ、あなたの魔術のお陰で皆無事に帰って来られたのだし、今日だけ特別よ?あと、ちゃんと付け合わせのキャベツも食べる事。
―――わーい!ミトもありがとねー!!
―――お、おう……いいって事よ。
食い物の恨みは恐ろしいぞ、死に損ない。俺が退いたのは、単に母さんの言い付けを守っただけなんだからな。別にシェフの目に殺意が籠もってたからとか、そんな切羽詰った理由じゃねえぞ!?
―――おい、桜。ジョシュアの奴、レヴィアタの家で飯食ってくるから要らないらしいぞ。
―――あ、なら私めが、
―――あら、そう。まだ入る、僵尸?良かった。今持って来るわ。
―――マヨネーズもお願い。(フォークを掴んだまま人差し指を振る。行儀の悪い奴め!)意外と合うと思うんだよね、卵同士。
―――はいはい。
当然ながら、その流れで俺の分が返還される筈も無い。後には都合五個(卵二・五個)を平らげ満足した新入りと、千切りキャベツでどうにか胃袋を誤魔化した俺が残された。
「それに、なーにが桜は嫁にやらん、だ!アダムの奴、満更でもなさそうじゃねえか!!」
四六時中阿呆っぽい様が気に入ったのか、珍しく人間嫌いもあれこれと話し掛けていた。ホールを占拠中の悪戯猫達に向ける物と似た、澄んだ優しい眼差しで。
ガラガラガラ。「いーもんいーもん。俺太らない体質だから、こんな時間でもコンビニでパスタとスイーツ買って食べちゃうもん………うぅ」
玄関の自動ドアを抜けつつ、拗ねて一人強がる。
待遇相談しようにも、帰宅したピーターパンは不機嫌な顔でさっさと寝ちまった。ハイネ君、今度は一体どんな爆弾発言したのやら。
(でも落ち込むって事は、少なくとも俺みたいに蔑ろにされていない証拠なんだよな……)
歴然としたストレート、続く惨めさのアッパーカット。打ちのめされた俺の心が向かった先は、遠き六日前だった。
―――じゃあ母さん、一丁お別れ行脚に行って来るよ。
―――ああ。
ボソリと返事したあの人は、悔恨から長い睫毛を伏せた。
―――ミト……済まない、無関係なお前まで巻き込んでしまって……母親失格だ。
―――頼むからもう謝らないでくれよ。俺は好きで付いて行くんだ。足手纏いになったら、何時でも置いて行ってくれて構わないからさ。
―――そう言う訳にはいかん。仮令成人しても、私はお前の保護者だ。親としての責任がある。
堪え切れないように眉根を寄せ、キツく歯を食いしばる彼女。俺は生真面目なその頭を正面から抱き、額へ触れるか触れないかの口付けを落とした。
―――……母さんは俺が守るよ。何があっても、絶対。
ふと我に返り、顎へ指をやる。頬から伝った透明な液体が指先を濡らす感触。一度自覚してしまうと、もう限界だった。
「あぁ!御免、母さん……約束したのに、俺、俺………!!」
星空の無い闇の中、俺は両手で顔を覆う。だが涙は止むどころか、指の間から洪水の如く溢れ出てきた。
(こんなトコ、とてもハイネ君には見せられないな……)
責任を感じているあの子の手前、今まで己の喪失感から目を逸らしていた。でも今、この場には俺一人。誰も見咎める者はいない。
こんなに長く離れた事なんて、唯一度も無かった。偶の不可避な出張でも、必ず俺を案じて夜に電話をくれたのに。
「会いたい!今直ぐに会いたいよ、母さん……!!」
入院中は仕事を推し、可能な限り傍にいてくれた。“カナリア・アンノウン”が発症した時も、名医と聞けば遠くの病院でも笑顔で連れて行ってくれた。そうして現代医学では治療不可能と結論付けざるを得なかった時も。
―――大丈夫だ、ミト。極めて珍しい病だが、お前はお前だ。仮令この先どんなに悪化しても、私の命尽きるまで付いていよう。
(そう肉球握りながら、一晩中慰めてくれたのに……)
弁護士試験の推薦も助手の育成以上に、病から引き籠もりがちな俺を案じる一念だ。合格の御褒美、下手糞な口付けも、常通り淡々と受け入れてくれた。
―――誰かに習ったのか?……ああ、初めてにしては巧かった。
―――また、か?別に構わないが、お前も物好きだな。
愛する家族に認められ、年下ながら何でも話せる友達も出来、全てが上手くいっていたのに、
「あぁっ、くそっ!!!」
あの夜、リビングで踏み付けられたお揃いの携帯を見つけた時、直感した。この誘拐犯こそ俺の仇敵、母の顔に消えない憂いを与えた張本人だ、と。




