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「やあ」「いらっしゃいませ」
オフィス街の脇道、どん詰まりに建つ築数十年のホテル。買い物帰りに入った僕は、ロビーを掃除中のホテルマンといつも通りそう挨拶を交わした。
白い入院着姿の老人は、痴呆症とは思えない程丁寧に一礼。やや覚束無い足取りで受付の中へ。
「御予約は頂いておりますでしょうか?御名前を」
「いや。生憎僕は客じゃないんだ」
そう告げ、やや曇りながらも理性の宿る両目を覗き込む。
「時は残酷だね、ワナビー。僕も何時か君みたいに惚けた挙句、一人孤独に死んでしまうのかな?」「―――いいえ」
暗示を掛けられていないにも関わらず、穏やかに笑む老人。
「ジョシュア坊ちゃまは、愛する人の腕の中で死ねますよ。疎まれ者の私とは違って」
「相変わらずお世辞がド下手だね、うちの元執事は」
例の忌まわしい事件当時は、まだ見習いの若造。毎日のように失敗し、父親である執事長に怒られていた。
彼と偶然再会した時には既に、病魔は顕在化していた。だが、僕がしたかったのは現在ではなく、とうの昔に失われた生家の話だ。過去、ついでにこのホテルしか見えなくなった身でも、会話には然程困らなかった。
「そう悲観する事無いよ。これまで見送ってきた客達のように、君にもようやくチェックアウトの時が来ただけさ。折角の自由だ、好きに旅行して来ればいい。宇宙は君の想像以上に広くて綺麗だよ。僕が保証する」
ねえ、と続ける。
「今僕さ、『あの事件』の奴等の子孫を追ってるんだよ。因果な物だよね。仇を討ち取って、それで自分の中では終わったつもりだったのに」
「あぁ……あれは本当に酷い惨劇でした。旦那様に奥様、父や住み込みの使用人達も全員殺され、あれ程美しかったお屋敷が一面血の海に……今も思い出すだけで、涙が溢れてきます……」
垢で汚れた袖でごしごし。
「正に狂気の沙汰でございます、あのような外道が……この世にある事自体が……」
嘆く彼へ、標的は父一人、残りはただ奴等の狂気的殺意の餌食にされたのだ、とは口が裂けても告げられなかった。まして三つ年上の老人は斑ボケの上、恐らくもう長くはない。これ以上その魂に消せない辛苦を抱え込ませて、一体何になるだろう。
(自分でも感傷的だとは思うけどね。やっぱり、もう年かな……)
この異能さえ無ければ、僕も彼のように紆余曲折を経て老け込めていたのだろうか。それともあの時、ママ達と一緒に……。
「ねえワナビー、このホテルはルームサービスが売りなんだよね?もし機会があったら、ママに似た人のために自慢のステーキを焼いて欲しいんだ」
「奥様に、ですか?」頬を綻ばせ、「ええ、勿論宜しいですよ」
「ありがと。但し、間違っても坊ちゃまとか言うなよ?折角ボカしてる年がバレてしまうからね」
そう釘を刺し、あげるよ、好きだろ?提げていたビニール袋からチョコドーナツを差し出す。
「君の母親の物には及ばないけど」
よく覚えていらっしゃいますね。目を細めながら受け取り、ぱくり。
「(もぐもぐ)その御姿といい、時の流れが坊ちゃまを避けているとしか思えません」
「まさか。僕だって君と同じ、ただの爺だよ」
けれど、却って救われた。こんな僕でも死を赦されているのだ。長く人心を弄び、『奴等』の業に因って少なからず手を血で染めてきた身でも。
(尤もここ十数年は、そんな必要も滅多に無くなったけどね)
御節介な家族達の顔を思い浮かべ、フッと小さい息を吐いた。
「もう行くよ。こいつを家に置いて来なきゃいけないんだ」
洗剤やお菓子を詰め込んだ、パステルカラーの大人用エコバッグを示す。
「またね、ワナビー。あと、家族を困らせるのも程々にしなよ」
「それは無理です。このホテルは我が家も同然ですので」
正気の面で苦笑し、新米時代と同じくぎこちなく一礼。
「―――どうかお気を付けていってらっしゃいませ、ジョシュア坊ちゃま」「ああ」




