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ザッ、ザッ、ザッ……。「ほら、あれが食堂棟だよ」
拍子抜けする程あっさり誘いを承諾され、私は彼女を連れて林道を抜けた。
目的地は高等課棟の北、半硝子張りの二階建ての建物だ。一階玄関に入ってすぐ右側には、委託業者に因る購買部。そこを抜けた先の学生食堂含め、昼休みとあって棟内は生徒と教師でごった返していた。
「おや、理事長。珍しいですな」
学食入口の壁に三台設置された食券販売機。その中央の列に並ぶ高等部教頭に声を掛けられ、今日も大盛況ですね、軽く会釈。
「安い上に美味いですからな、うちの学食は。ところでそちらの方は」
「ああ、彼女は」手で示し、「“白の星”から見学に来られた先生です。この学生食堂の噂もお聞きになったそうで、是非ランチを、と」
「ほう!初めまして。あと三十分も経てば空きますので、どうぞ御自由に見学して行って下さい」
そう言って伸ばされる腕。相変わらず開いているのか不明な目で一瞥後、はい、ありがとうございます、僧は朗らかな表情で握り返した。
別れの挨拶を交わし、若干空いていた左列の最後尾へ。並んでいる間、場にそぐわない服装と雰囲気の彼女に、興味津々の生徒達が何度か話し掛けてきた。応じている内に列は短くなり、約五分で無事食券機へ到着。リクエストが無かったので、無難に日替わり定食を二枚買った。
学食内は入口同様、食事に勤しむ人々で一杯だ。早速奥の受付へ行き、券を渡す。
「あら、理事長先生。今日はエライ別嬪さん連れてるねえ」
茶碗に白米をよそいながら、三角巾を被った女性職員は意味深にしゃもじを持つ手の小指を上へ。
「もしかして、先生の『これ』かい?」
「ははっ。残念ながら外れですよ。彼女は見学の先生です」
幾分洗練された嘘を述べる間にも、手前のトレーには着々と食器が乗せられていく。そして約一分後、彼女は満面の笑顔でそれらを持ち上げた。
「お待たせしました。どうぞ」
「ああ、ありがとう。黒龍、済まないが一つ持ってくれないか。生憎片手で二階まで運べる自信が無いんだ」
「是」
承諾し、左手一本で易々とトレーを受け取る。先導でテーブル同士の狭い隙間を潜り抜け、二階へ続く螺旋階段を上る間も、彼女は一度として右手を添えなかった。しかもそそっかしい私と違い、添えられた味噌汁の一滴すら零さずに。体操選手並に卓越したバランス感覚だ。
ほぼ満席の階下と違い、教職員並びに高等課学生専用の二階は八割方空席だった。と言うのも一階だけで三百席ある上、学食故に回転率も良い。加えて裏庭へは食器持出可なので、わざわざ階段を上る必要性が薄いのだ。
「この辺りでいいだろう。茶を取って来るから、君は先に掛けていなさい」
窓際のテーブルへトレーを置きながら、客人に告げる。承諾を聞いてから席を離れ、階段付近に設置された給茶機へ向かう。
カチッ、チョロチョロチョロ……。「おい」「おや、珍しいね」
声を掛けてきた息子は併設の給水機のボタンを押し、自分のトレーにお冷を乗せた。料理は炒飯に餃子、それに卵スープと杏仁豆腐だ。中華定食か、私も偶に無性に食べたくなるメニューだ。
「今日は一人なのか?レヴィアタ君達は」
「怪我人共の様子見に、先公とさっき出て行ったよ。今朝マンション出る前にベーレンスの野郎に頼んだから、六限までに戻ってくりゃOK」
成程。出席改竄になってしまうが、治療者の僵尸君不在の今は止むを得ない。桜も今日は、薬の納入業者が来次第早退すると言っていた。
二人共容態は安定していたが、登校時点ではまだジョシュアの意識は戻っていなかった。子供然としていても、彼の本来の年齢を考えると心配だ。
「なら、お前は差し詰め留守番兼」フッ。「ノート取りか」
「まぁな」
カタン、カタン。二つの湯呑みを回収。
「で、何で昼間っから来てんだよ、あの禿女」
「さぁね。黄龍の命では無さそうだが、正直私にもよく分からない」
煮え切らない返答に、ケッ、予想通り息子は舌打ちした。
「お人好しだな。つーかあいつ、今頃飯に毒でも盛ってんじゃね?」チラッ。「あんたのアレ、解毒なんて御都合主義な機能無いだろ」
秘密めいた言い方が指すのは勿論、私に寄生した“ゴールデン・アガペー”だ。彼の好影響か、風邪等は生まれてこの方引いた記憶が無い。が、流石に毒薬にまでは耐えられないだろう。
「いや、彼女は私と似たタイプの武芸者だ。武器を置いてきた以上、今日は本当に仕掛ける心算が無いと思うよ」
それに毒と言えば赤龍君の担当だ。妹の手段を取った上、衆人環視の中で殺すとは考え難かった。
「相変わらず楽観的過ぎるぜ、あんたは」
「心配なら一緒に座ってくれるかい?」
「ったく、仕方ねえな。―――怪しい素振りを見せたら、テーブルの下から合図する。聞き逃すなよ」
提案した息子はトレーを持ち、行くぞ、小声でそう促した。